アベこべのきれいごと表現

2020年1月19日に発表された「大学入試センター試験」の国語問題。ちらちら眺めながら首をかしげた。マークシート向け「国語」問題なのだが、まず、「これ、国語の問題?」と思わされる。英語(resilience, vulnerability)の他に、カタカナ語(レジリエンス、サステナビリティ、ソーシャルワーク、クライエント、エンジニアリング、ミニマルなど)が並ぶ。英語、カタカナ語の解説のような第一問の問題。

「次の文章は、近年さまざまな分野で応用されるようになった“レジリエンス”という概念を紹介し、その現代的意義を論じたものである。これを読んで…」という設問。

出典は(河野哲也『境界の現象学』による)とある。引用元は社会福祉事業研究者で(レジリエンス)の提唱者と紹介されているマーク・W・フレイザーの著書。環境システムの専門家ウォーカー(誰だ?彼についての注・説明はない)の、レジリエンスについての比喩的説明(静かな船内と激しく揺れる船内におけるコップ一杯の水の運び方の違い)から始まる。

(エンジニアリングなど様々な分野に応用される重要な概念)としながらも、(ミニマルな福祉の基準として提案できる)とあり、焦点は“福祉”である。

 概念と論理の誘導の方向と着地点は、“障害や病気などにより環境に適応できない人の適応能力を高め、そのために援助すること”にある。いわゆる身体的機能訓練やそれに類する適応訓練の概念として異論があるわけではない。が、もっともひっかかるのは、この著者が福祉の現場を知らないであろうことが伺え、更に、社会不適応の烙印を押される側からの視点がほとんど抜けていることである。どこかの国の首相演説のきれい事と構造がそっくりである。

 聖書には、倒れている人への援助としてコップ一杯の水をもってかけつける譬えがある。この文では、(仕事として)コップ一杯の水の運び方から論が始まる。

きれいごとの第一弾。
人と社会の関係に於ける不適応な状況について、双方に柔軟性を求めている。環境の流動・変動を路面のでこぼこを吸収する車のサスペンションの如く変動吸収するサステナビリティ、柔軟性、バランスのとり方が大切だと、読者に再認識するよう期待している。

 きれいごとの第二弾。
適当な失敗(トラブル、事故、病気、障害、欠損)は最初からレジリエンスの概念に包含、つまりはじめから予定されている、わかっている。すべてが健康な人や普通の人を前提としているわけではない云々。失敗(不適応・小さな火災)を予防したり排除したりすると生態系や社会の再構築、更新を妨げ、硬直化し、社会、環境の壊滅的な大火災(自滅)につながる。

きれいごとの第三弾。
環境に適応できない人の弱さ 、“脆弱性”vulnerabilityを、社会の側の内側に抱えていると、社会や組織の側の柔軟性を失っていることのセンサーととして利用できる。脆弱性への柔軟性を失っていることは、不慮の災害への適応を失っていることである。内側の、もっとも脆弱な人をセンサーの基準として用いることができる。

きれいごとの第四弾。
「人と社会環境相互作用への働きかけ」(相互性)を掲げながら、「 状況環境適応ではなく個人固有能力の促進を支援」するという。情況環境適応ではなく、といいながら、個人固有能力の促進はつまるところ、情況環境適応に向くしかないように誘導されている。

きれいごとの第五弾。
「福祉の目的 は、変化する社会への柔軟な適応力を高めることであり、その人のニーズを自身で充足する能動的な力を得ることである、という。 自律的な生活を送るための最低限の回復力を個人が目指す努力をしなければならない。」つまり、最後は、弱い人本人の努力次第、ということになる。

「自己のニーズを満たせない個人への援助、 ケアは物質的補充金銭的援助ではなく、生命の自発的、能動的、自律性が要求される。自分のニーズを満たせる力を獲得できるよう本人を支援するのがケアである。」つまり、最後は自己責任、ということになる。

“援助、 ケアは物質的補充金銭的援助ではなく”が、つまるところ、現状の福祉予算削減、ヘルパーや福祉現場の職員たちの過重労働、低賃金、収容者の管理強化、障害者年金や生活保護費の削減等などの現実から目をそらし、身体・精神障害者、「発達障害者」たち弱者へのボランティア精神? 愛?(無料)を推進させながら、福祉政策の矛盾、問題をきれいごとで隠していく働きとしてこの概念が利用されていることに心が痛む。

 企業における「コンプライアンス」こそ重要、などのカタカナ文化の増大、無節操なアメリカンスタンダードの拡散などが現代の病理性の一端を示していると思われる。更に、これが共通一次試験の「国語」設問に用いられていること、また、過去問として利用されることが、心理誘導されやすい若者にどう影響を与えるかがかなり不安である。

「津久井やまゆり園」をめぐって

二つの“検証委員会”が立ち上がっている。一つは「津久井やまゆり園事件検証委員会」(平成28年7月26日に津久井やまゆり園で発生した事件について、事実関係を把握した上で、県や指定管理者である社会福祉法人かながわ共同会が行った対応について専門的な見地から検証し、今後の再発防止策を検討する。)メンバーは 東洋英和女学院大学人 間科学部人間福祉学科 教授、 弁護士、 神奈川県知的障害施設 団体連合会 会長、 神奈川県知的障害者施 設保護者会連合会 副会長、 神奈川防犯連絡会 会長で、事件の分析が始まっている。

もうひとつは、二〇二一年度に県内二カ所に分散移転を予定している、県の知的障害者施設「津久井やまゆり園」について、黒岩祐治知事が指定管理者を社会福祉法人「かながわ共同会」から見直す方針を示したことを受け、学識者らで構成する検証委員会が設置された。 メンバーは、委員長の佐藤彰一・国学院大教授、大塚晃・元上智大教授、野沢和弘・元毎日新聞論説委員。三人とも障害のある子どもがおり、障害者福祉などを専門としている。検証委は、同園での入所者支援の方法が適切だったか、不適切事案に対する県の指導は十分だったかなどについて検証するとのこと。 その初会合で、同園で本年度、入所者計二十五人に対し「車いすに固定する」「指が動かせない手袋を付ける」「居室に外から施錠する」などの身体拘束の疑い事例があったことが報告され、会合後、佐藤委員長は「居室施錠を二十四時間近く、数日続けている事例が二件あった」と話し、検証委はこれらが、やむを得ない身体拘束だったのかや、他にも入所者に過剰な投薬がなかったかなどを調べる、とのこと。
 事件だけがクローズアップされ、加害者と被害者たちの構図の中で、入所者のみならず施設や施設に人を措置している側が「被害者」として分析されていっては、事件に至るまでの加害者と施設との関係を含めた過程、施設そのものの問題性が抜け落ちてしまう。元職員だった加害者の眼に施設や入所者たちがどう映っていたか、何をどう理解したか、福祉の現場の“病理性”も明らかにされなければならない、と思う。

2020年1月26日 降誕節第5主日 イザヤ56:1-7 マタイ18:14-18 「法は下から上へ」週報No.2643 

20200126 宣教要旨 イザヤ56:1-7 マタイ18:14-18 「法は下から上へ」週報No.2643 宣教:金田恆孝

イザヤ書56章1~7
1 主はこう言われる、「あなたがたは公平を守って正義を行え。わが救の来るのは近く、わが助けのあらわれるのが近いからだ。2 安息日を守って、これを汚さず、その手をおさえて、悪しき事をせず、このように行う人、これを堅く守る人の子はさいわいである」。3 主に連なっている異邦人は言ってはならない、「主は必ずわたしをその民から分かたれる」と。宦官もまた言ってはならない、「見よ、わたしは枯れ木だ」と。
4 主はこう言われる、「わが安息日を守り、わが喜ぶことを選んで、わが契約を堅く守る宦官には、5 わが家のうちで、わが垣のうちで、むすこにも娘にもまさる記念のしるしと名を与え、絶えることのない、とこしえの名を与える。6 また主に連なり、主に仕え、主の名を愛し、そのしもべとなり、すべて安息日を守って、これを汚さず、わが契約を堅く守る異邦人は
7 わたしはこれをわが聖なる山にこさせ、わが祈の家のうちで楽しませる、彼らの燔祭と犠牲とは、わが祭壇の上に受けいれられる。わが家はすべての民の祈の家ととなえられるからである」。

マタイ福音書181418
18:14そのように、これらの小さい者のひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではない。18:15もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、行って、彼とふたりだけの所で忠告しなさい。もし聞いてくれたら、あなたの兄弟を得たことになる。18:16もし聞いてくれないなら、ほかにひとりふたりを、一緒に連れて行きなさい。それは、ふたりまたは三人の証人の口によって、すべてのことがらが確かめられるためである。18:17もし彼らの言うことを聞かないなら、教会に申し出なさい。もし教会の言うことも聞かないなら、その人を異邦人または取税人同様に扱いなさい。18:18よく言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天でも皆つながれ、あなたがたが地上で解くことは、天でもみな解かれるであろう。18:19また、よく言っておく。もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。18:20ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」。

聖書に心を傾ける 【法は下から上へ】

 本日のイザヤ書。イスラエル(神とともに歩む民たち)の中に異邦人、更に宦官を受け入れる信仰が育まれたのは“第3イザヤ”の頃、ペルシャのキュロス王によるバビロンの捕囚から解放(BC539年)、帰還以後であったと思われます。強い国家を求めたかつての選民意識、傲慢さが長期の捕囚によって打ち砕かれ、貧しさ、弱さしか誇ることがなかったが故に、異邦人、更に、かつてはあり得なかった宦官をも信仰の仲間としてともに歩み始めることができたのではないかと思われます。

 様々な立場や歴史や感覚の違いから起こるトラブルをどう解決していくのか。かつては士師(裁き司)や祭司長、律法学者たちが律法を中心に(上から下に向かって)裁いていたものを、イエスはひっくり返していった。当事者同士の一対一での話し合いから、話し合いへの参加者を広げ,神を畏れる仲間たちの対等な議論へと枠を広げ、弱い者、貧しい者をこそ支え合う視点とともに、世のシステムや権威や上下関係を排除し、フラットな関係のなかでそれぞれの違いとそれを乗り越える知恵とちからを共有すること。それが“繋ぐわざ”、“解くわざ”であるという。それを神が祝福し導いてくださるとイエスは語る。つまり、下から上に向かって生きた柔軟な律法を構築していくこととなる。今日、精神病院からの開放、回復を支える精神医療、サポート体制で実践されている“オープンダイヤローグ”の、痛みを分かち合う思想と通底していると思う。

 当事者とか患者とか医師とか心理士とか教師とかヘルパーとか、様々な“制服”を脱いで、互いに支え合おうとする、そんな自然な目立たない働きが教会で持続的にできたら、そのためのターミナルになりえたら、と夢想している。ちょうど、阪神淡路大震災における神戸の安先生を主人公としたTVドラマが(NHK)始まっている。「医者にできることは、回復したいと思っている人のそばにいることだけ」のことばに強く共感した。

先週の出来事、ニュースなど
  おとなの事情で傷ついているであろう中学生の男の子と話した。ヒトラーを尊敬している、という。津久井ヤマユリ園事件の犯人をどう思う?と聞くと「やり方がまずかったんや」と。疎外され傷ついた心が、逆に疎外する、差別する側に立とうとするこころの動きが悲しい。

2020年1月19日 降誕節第4主日 詩編8:1-9 マタイ18:10-14 「多数決の罪」週報No.2642

2020/01/19 宣教要旨 詩編8:1-9 マタイ18:10-14
題「多数決の罪」週報No.2642  宣教 金田恆孝

詩編第8
1 主、われらの主よ、あなたの名は地にあまねく、いかに尊いことでしょう。あなたの栄光は天の上にあり、
2 みどりごと、ちのみごとの口によって、ほめたたえられています。あなたは敵と恨みを晴らす者とを静めるため、あだに備えて、とりでを設けられました。
3 わたしは、あなたの指のわざなる天を見、あなたが設けられた月と星とを見て思います。
4 人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか、人の子は何者なので、これを顧みられるのですか。
5 ただ少しく人を神よりも低く造って、栄えと誉とをこうむらせ、
6 これにみ手のわざを治めさせ、よろずの物をその足の下におかれました。
7 すべての羊と牛、また野の獣、
8 空の鳥と海の魚、海路を通うものまでも。
9 主、われらの主よ、あなたの名は地にあまねく、いかに尊いことでしょう。

マタイによる福音書18章10-14節
18:10あなたがたは、これらの小さい者のひとりをも軽んじないように、気をつけなさい。あなたがたに言うが、彼らの御使たちは天にあって、天にいますわたしの父のみ顔をいつも仰いでいるのである。
18:11[人の子は、滅びる者を救うためにきたのである。
18:12あなたがたはどう思うか。ある人に百匹の羊があり、その中の一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、その迷い出ている羊を捜しに出かけないであろうか。
18:13もしそれを見つけたなら、よく聞きなさい、迷わないでいる九十九匹のためよりも、むしろその一匹のために喜ぶであろう。
18:14そのように、これらの小さい者のひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではない。

宣教題「多数決の罪」
 現代社会、特に“先進諸国”は、神への「畏れ」と被造世界への「讃美」を失っていると思われる。
聖書は、神が造られた世界を讃美するのは乳飲み子の口だと言う。その乳飲み子、幼子のこころに最も大きな「ちから」の基を神は置くという。おとなの知性も合理性も知識も判断力も及ばない、無条件に神の愛、恵みを受け取る、神にひたすら生かされる小さな者。このこころが、人間同士の争いを押し鎮めるのだと聖書はいう。
 やはり立派なおとなとして社会から認められないとこの世は生きにくい社会なのだろうか。おとなでないと家族や身内を守れないのだろうか。が、そういった「大人」の成長、知性や合理性、多数決の論理がこの世の争いや憎しみを鎮めるのではないと詩編は語る(そのような幻想は捨てるべきだと)。 幼子に戻り、神の造られた世界と出会い、喜び、讃美し、大きな「ちから」を得るには「乳飲み子」のこころに戻って世界と向かい合うべきである。礼拝はこの「幼子」を取り戻す時間である。

 世のおとなたちは幼子に与えられている「知恵」や「ちから」を認めず、小さき者、少数者、ハンディのある者、弱い者(社会的弱者)のこころを尊ぶことをしない。おとなたちは世に与えられている富を「多数のおとなの意見」により“最大多数の最大幸福”の方便の元に、おとなの強者たちが「富」を奪い、分かち合っている。

イエスの「99匹の羊と一匹の羊」の譬えは、世の合理性、多数決の世界をひっくり返している。99匹の羊を守る合理性を正しいこころとはせず、最も弱い立場の者の側にこそ、世のしんがりにこそ、神はおられるという。

 誰ひとり、軽んじていい「いのち」はない。それを抽象的な倫理観、たてまえの「べき論」においやるのではなく、幼子の心を取り戻しながら、イエスのことばを実践していきたい。とりあえず役立たずの「ガキ」のままでいよう。

先週の出来事、ニュースなど
 25年前の「1.17」阪神淡路大震災の追悼行事が行われ、震災によって引き裂かれ、天に召されたあまたの魂たちへの祈りが続いた。いまも大切な死者たちとの対話でもある。一方で9年前の「2.11」東日本大震災の天災と人災はいまも続いている。原子力緊急事態宣言発令はいまだ「発令中」のままである。原子力政策の過ちを認め廃炉をめざすべきである。今も続いている苦しみや悲しみにこころを寄せ続けたい。

2020年1月12日 降誕節第3主日 レビ記2:13-14 民数記18:19 列王記下2:20 マルコ9:49-50 「火で塩づけされる」週報No.2641

2020/01/12 宣教要旨 レビ2:13-14 民数18:19 列王下2:20 マルコ9:49-50 週報No 2641 題「火で塩づけされる」宣教 金田恆孝

レビ記2章13-14節
13 あなたの素祭の供え物は、すべて塩をもって味をつけなければならない。あなたの素祭に、あなたの神の契約の塩を欠いてはならない。すべて、あなたの供え物は、塩を添えてささげなければならない。14 もしあなたが初穂の素祭を主にささげるならば、火で穂を焼いたもの、新穀の砕いたものを、あなたの初穂の素祭としてささげなければならない。
民数記18章19節
19 イスラエルの人々が、主にささげる聖なる供え物はみな、あなたとあなたのむすこ娘とに与えて、永久に受ける分とする。これは主の前にあって、あなたとあなたの子孫とに対し、永遠に変らぬ塩の契約である」。

列王記下2章20節
20 エリシャは言った、「新しい皿に塩を盛って、わたしに持ってきなさい」。彼らは持ってきた。
21 エリシャは水の源へ出て行って、塩をそこに投げ入れて言った、「主はこう仰せられる、『わたしはこの水を良い水にした。もはやここには死も流産も起らないであろう』」。

マルコによる福音書9章49-50節
9:49人はすべて火で塩づけられねばならない。
9:50塩はよいものである。しかし、もしその塩の味がぬけたら、何によってその味が取りもどされようか。あなたがた自身の内に塩を持ちなさい。そして、互に和らぎなさい」。

聖書にこころを傾ける【神さまから火で塩づけされること】

 人が生きるのは神から出ることば一つ一つによる、とイエスは言われる。神のことば、神との契約は「塩の契約」とも言われる。
 塩水は地上の生命の始まり。塩は生ものの腐敗を防ぎ、保存用にも用いられる。日本でも古来より塩を神さまからのことば、しるしとして受け取り、汚濁を浄め、,水をきれいにし、身体の体液の流れを整える。弱った身体を回復させるためのリンゲル液にも5%の塩が入っている。

捧げ物を塩で清めるとともに、自分自身や身の回りを塩で浄める、という作法があったらしい。これも日本の文化と似ている。神さまから守られ生かされている自分を、自らも浄めるという感覚は共通しているのだろう。

 イエスが、「人はすべて火で塩づけられねばならない」と言われるとき、人を生かす神の言葉を「火」と「塩」で言い表し、人の傲慢さを火で裁き、塩で味付けをし、人の心と体とを守り整えてくださる働きを表現していると思われる。

 神との契約が「塩の契約」,「塩のことば」ならば、人と人とを繋ぐものも「塩」であれ、とイエスは言われていると思われる。それが「あなた方自身の内側に塩を持ち、互いに和らぐ」、つまり“塩の関係”を築きなさい、と表現される。そのためには、塩味のある塩を内側に持ちなさいと。

「火で塩の味を取り戻されなさい」とはイエスの絶妙な“譬え”、言い回しであろう。わたしの弱さ、愚かしさ、傲慢さを火で焼かれ、浄められ、塩の味・役割を取り戻すことがわたし自身の課題として示されている。

 この人間社会の“強い力”、“多数の力”、“全体主義”、“国家”に守られようとする【傲慢さ】を、私たちの「内なる課題」としてどう向き合っていけばいいのか。

黙想とともに主イエスのことばを内側に響かせたい。

先週の気になる出来事、ニュース
相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で利用者ら45人を殺傷したとして、殺人罪などに問われた元同園職員の植松聖(さとし)被告(29)。入所者一人ひとりに「しゃべれるか?」と問い、「しゃべれないじゃん」と刺し続けていた様子。目の前の人間たちの要不要を一言で決定するという“神の座”にある恍惚感を抱いていたのだろう。そこに至る過程で、「自分は要る人間か、要らない人間か」の自問自答はあったはずである。彼がかつて働いていた場所は、「ウソっぽい(社会復帰?)きれい事で、役立たずを社会から隔離し、無理に生かしているだけ」という認識があったのだろう。そういう施設の在り方そのものも問題だが、そこにいる人々の、誰ひとりとして彼が心を通わせ合うことができなかったことが最大の不幸だったのだろう。

2020年01月05日 新年礼拝  詩編19:1-8 マルコ9:42-43 「要らない人などいない」週報.2640

Year’s Scriprure 2020年の聖句「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」マルコ福音書9章24節 
Month Scriprure 1月の聖句「神は真実なかたです」ⅠコリⅠ:9

2020/01/05 新年礼拝 宣教要旨 詩編19:1-8 マルコ9:42-43 題「要らない人などいない」週報No.2640 宣教 金田恆孝

詩編19篇1-8節
1 もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめす。
2 この日は言葉をかの日につたえ、この夜は知識をかの夜につげる。
3 話すことなく、語ることなく、その声も聞えないのに、
4 その響きは全地にあまねく、その言葉は世界のはてにまで及ぶ。神は日のために幕屋を天に設けられた。
5 日は花婿がその祝のへやから出てくるように、また勇士が競い走るように、その道を喜び走る。
6 それは天のはてからのぼって、天のはてにまで、めぐって行く。その暖まりをこうむらないものはない。
7 主のおきては完全であって、魂を生きかえらせ、主のあかしは確かであって、無学な者を賢くする。
8 主のさとしは正しくて、心を喜ばせ、主の戒めはまじりなくて、眼を明らかにする。

マルコによる福音書9章42-43節
9:42また、わたしを信じるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は、
大きなひきうすを首にかけられて海に投げ込まれた方が、はるかによい。
9:43もし、あなたの片手が罪を犯させるなら、それを切り捨てなさい。
両手がそろったままで地獄の消えない火の中に落ち込むよりは、かたわに
なって命に入る方がよい。

宣教「要らない人間などいない」
創造された世界(もろもろの天)は神の栄光をあらわしている、という。日々変わる大空(移ろう世の流れ・歴史)は神のみわざ、と読める。神のことばと神の知識は人間にはわからないが、その響きは全地に及ぶ、と。

 地球上の生命は、神の創造・調和の中にあり、まさに「いのちを与えられ、生かされている」にもかかわらず、人間は「敵」をつくりだし、貴賤の区別を設け、役立つ人々と役立たずとを分け、善人と悪人を分け、合法的に存在を抹消することもする。被造世界の調和を乱しているのは災害でもなく天災でもなく、人間であるのは自明。

 イエスの譬えは、神から与えられた人間の、自分の身体にとって、「この部分は要る、この部分は要らない」と決められるのか、との問いである。身体は「全体」であり、与えられた「宇宙」でもある。身体のこの部分は要らない、と言えないように、人間世界にあって、「この人間は要らない」と決める権限は人にはない。

 社会的な「弱者」を作り出すのは、社会的な「強者」である。「後進国」を作り出すのは「先進国」である。世界は“人を躓かせるシステム”に満ちている。それは神に対する罪である、とイエスは語る。

「あなたの片手が罪を犯させるなら、それを切り捨てなさい」とは、強者の立場にいる人間たちが、弱者を作り出していることで、強者の立場が守られるシステム・社会構造そのものを“身を切る”改革をする責任がある、とのイエスの言葉に聞こえる。

 ますます弱者と強者との格差が広がり、強者にとって役立つ人と役立たない人との区分けがなされ、共感しあうべき繋がりが分断されている現代社会だからこそ、イエスの言葉を現代社会の中で再度“身を切られる”覚悟で聞き直す必要を強く感じています。

先週の出来事 気になるニュース
トランプ米国大統領がキリスト教福音派の集会で「世界最強の軍隊に守られている米国キリスト者こそ神に祝福されている!」との演説が報道されていた。まるで“十字軍”の時代に戻ったのかと感じた。この「強者の傲慢さ」にこころを痛めるキリスト者は何%ほどいるのだろうか?
神は、強者の軍隊や武器に追われている難民や弱者の側にこそいまし給うことを再度確認すべきと思われる。

191229 宣教要旨 イザヤ7:14 8:9-10 ルカ24:13-32 ヨハネ12:23 題「滅びと再創造」

191229 宣教要旨 イザヤ7:14 8:9-10 ルカ24:13-32 ヨハネ12:23 題「滅びと再創造」宣教 金田恆孝

イザヤ書7章14節 8章9-10節
7:14
それゆえ、主はみずから一つのしるしをあなたがたに与えられる。見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる。

8:9もろもろの民よ、打ち破られて、驚きあわてよ。遠き国々のものよ、耳を傾けよ。腰に帯して、驚きあわてよ。腰に帯して、驚きあわてよ。

10 ともに計れ、しかし、成らない。言葉を出せ、しかし、行われない。神がわれわれと共におられるからである。

ルカによる福音書24
24:13この日、ふたりの弟子が、エルサレムから七マイルばかり離れたエマオという村へ行きながら、
24:14このいっさいの出来事について互に語り合っていた。
24:15語り合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩いて行かれた。
24:16しかし、彼らの目がさえぎられて、イエスを認めることができなかった。
24:26キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」。
24:27こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた。
24:28それから、彼らは行こうとしていた村に近づいたが、イエスがなお先へ進み行かれる様子であった。
24:29そこで、しいて引き止めて言った、「わたしたちと一緒にお泊まり下さい。もう夕暮になっており、日もはや傾いています」。イエスは、彼らと共に泊まるために、家にはいられた。
24:30一緒に食卓につかれたとき、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、
24:31彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、み姿が見えなくなった。
24:32彼らは互に言った、「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」。
ヨハネ福音書12:23-34
12:23イエス答へて言ひ給ふ『人の子の榮光を受くべき時きたれり。12:24誠にまことに汝らに告ぐ、一粒の麦、地に落ちて死なずば、唯一つにて在らん、もし死なば、多くの果を結ぶべし。

聖書に聴く 「滅びと再創造」

 クリスマスは元来冬至の祭。太陽が空に留まる時間が最も少ない、一年のサイクルが終わる時を境に、新たな生命活動、春に向かう再生を願う祭。これがクリスマス、新年を告げる祭と重なった。

 イスラエル(神とともに歩む民、ヤコブの代名詞)の民が戦争や収奪などにより滅びかけたとき、これを産みの苦しみの時として預言者たちから「メシア」預言がなされた。「見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエル(神、しんがりの民とともにあり)と唱えられる」と。

 イエスの十字架・処刑死ののち、希望を見失ったイエスの仲間たちにイエス復活の証言と、“ガリラヤで会おう”のメッセージが届いた。

 エルサレルを出てガリラヤへの途上、エマオであらわれた人はイエスとはまったく異なり、仲間は気付かなかったが、彼の解き明かし、パンと葡萄汁の分かち合いで気付き、何よりも、彼ら自身の「心が燃えた」ことでイエスの再臨を実感した、とあります。

「ガリラヤで会おう」とは、この世の時間や、この世の者・肉体を超越した“永遠”のなかで、イエスとの出会いと旅がこれからも始まり続く、ということでしょう。
「一粒の麦死なば、多くの果をむすぶべし」滅びと再創造の摂理をみごとにあらわした言葉。

 キリスト者とは、イエスの肉体を食し、イエスや、世のしんがりに立つ神とともに歩んだ殉教者、死者たちの声とともに歩む者でもある。

2020年。いかなる滅びが待ち受けようと、主なる神のわざを仰ぎ続けたい。


先週の出来事・気になるニュースなど

IR法案とはimmoral(不道徳) resort(行楽) の略だとか。簡単に言えば「博打・ギャンブル解禁行楽法」であろう。「統合型リゾート」などというのはまやかしのきれい事表現である。そのカジノを含む統合型リゾート(IR)事業を巡る汚職事件で、収賄容疑で逮捕された衆院議員の秋元司容疑者の事件。米国カジノを真似た「あぶく銭」を狙う裏の世界。政治や税金を委託されている公務員・政治家が博打を仕事として行うこと自体が矛盾。裏の金を動かすことであり、裏の利権が絡み、公明正大な仕事ではありえない。元来は民営でしかありえない競馬、競艇、競輪などを公営として続けてきた戦後の「負の遺産」はまだ続いているのだろう。

191222 宣教要旨 クリスマス礼拝 イザヤ53:8-12 ルカ2:8-14 題「イエスこそ希望」

191222 宣教要旨 クリスマス礼拝 イザヤ53:8-12 ルカ2:8-14 題「イエスこそ希望」 宣教 金田恆孝

イザヤ書53章8節~12節
 彼は暴虐なさばきによって取り去られた。その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと。
彼は暴虐を行わず、その口には偽りがなかったけれども、その墓は悪しき者と共に設けられ、その塚は悪をなす者と共にあった。しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。
彼が自分を、とがの供え物となすとき、その子孫を見ることができ、その命をながくすることができる。かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。
彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に物を分かち取らせる。
彼は強い者と共に獲物を分かち取る。これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした。

ルカによる福音書2章8節~14節
 さて、この地方で羊飼たちが夜、野宿しながら羊の群れの番をしていた。
すると主の御使が現れ、主の栄光が彼らをめぐり照したので、彼らは非常に恐れた。御使は言った、「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。
きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。
あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるしである」。
するとたちまち、おびただしい天の軍勢が現れ、御使と一緒になって神をさんびして言った、「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」。

聖書に聴く 「イエスこそ希望」  牧仕 金田恆孝

 2020年を目前にしている今。「希望」なんぞが見当たらない時代。「まず神ありき」のときを「神なし」でやり過ごし、神から与えられている「天然」を「自然」と呼び慣らし、天然資源を食い尽くすための開発対象としてしまって久しい。自然界への放射能汚染も経済発展と引き換えに歯止めは止まらない。人間の労働力の価値そのものが極端に下がり続けている。最大の武器である原子爆弾も地上の動物や人間すべてを何回も滅びし尽くすほどの量を蓄えながら、まだ他国への恫喝・戦争手段として競い合っている。

 人間の死亡原因1位の癌がこれまでの「3人に1人」から「3人に2人」へと近づいているとの専門機関の分析あり。
 子どもやおとなに広がっている「自閉症」「統合失調症」の原因は農作物に使われる農薬が第一原因とする報告が研究機関から出されている。肺気腫・肺癌の急速な広がりの原因は、台所や病院で使われる消毒・殺菌剤・消臭剤にあるという専門機関の報告が出されている。男性の精液中にある精子の数そのものが極端に減少しているとの不妊治療を行っている医療機関での調査報告もある。受精卵の遺伝子検査に象徴されるごとく、「いのちは神さまからの贈りもの」という認識そのものが消えかかっている。
 民、人間の咎(とが)、争いのために失ったものはあまりに大きい。人間の責任範囲、弁済、修繕可能範囲を遙かに超えている。この咎の許しを請う供え物となるメシア預言がイエス誕生より700年以上前になされた。

 文字通り弱肉強食、虚栄と欺瞞に満ち、「希望なき時」に、イザヤをはじめとする予言者たちのメシア預言成就の知らせが、低賃金・肉体労働者たる「羊飼い」に響いた、と福音書は伝える。
 こどもたちに語って聴かせたい「希望」をおとなたちが持っていない時代。だからこそ、おとなたちは希望を探し出すしかない。

 十字架という死刑台に、たったひとりで、逃げもせず向かったイエスこそ、もっとも大きな、計り知れぬ「希望」を背負っていたはずです。 いまこそ、イエスが抱いていた希望に与りたいとせつに願うわものです。

191215 宣教要旨 イザヤ61:1-5 マルコ9:38-40 題「悔い改めの実を結ぶとは」

191215 アドベント 降誕前第2主日 宣教要旨 イザヤ61:1-5 マルコ9:38-40 ルカ福音書3:7 9:49-50 17:1題「悔い改めの実を結ぶとは」宣教 金田恆孝

イザヤ書61:1:51 主なる神の霊がわたしに臨んだ。これは主がわたしに油を注いで、貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね、わたしをつかわして心のいためる者をいやし、捕われ人に放免を告げ、縛られている者に解放を告げ、

2 主の恵みの年とわれわれの神の報復の日とを告げさせ、また、すべての悲しむ者を慰め、3 シオンの中の悲しむ者に喜びを与え、灰にかえて冠を与え、悲しみにかえて喜びの油を与え、憂いの心にかえて、さんびの衣を与えさせるためである。こうして、彼らは義のかしの木ととなえられ、主がその栄光をあらわすために植えられた者ととなえられる。4 彼らはいにしえの荒れた所を建てなおし、さきに荒れすたれた所を興し、荒れた町々を新たにし、世々すたれた所を再び建てる。5 外国人は立ってあなたがたの群れを飼い、異邦人はあなたがたの畑を耕す者となり、ぶどうを作る者となる。

マルコ福音書9:38ヨハネがイエスに言った、「先生、わたしたちについてこない者が、あなたの名を使って悪霊を追い出しているのを見ましたが、その人はわたしたちについてこなかったので、やめさせました」。 9:39イエスは言われた、「やめさせないがよい。だれでもわたしの名で力あるわざを行いながら、すぐそのあとで、わたしをそしることはできない。 9:40わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方である。 9:41だれでも、キリストについている者だというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれるものは、よく言っておくが、決してその報いからもれることはないであろう。 

 ルカ福音書3:7さて、ヨハネは、彼からバプテスマを受けようとして出てきた群衆にむかって言った、「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから、のがれられると、おまえたちにだれが教えたのか。 3:8だから、悔改めにふさわしい実を結べ。自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく。神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるのだ。
9:49するとヨハネが答えて言った、「先生、わたしたちはある人があなたの名を使って悪霊を追い出しているのを見ましたが、その人はわたしたちの仲間でないので、やめさせました」。 9:50イエスは彼に言われた、「やめさせないがよい。あなたがたに反対しない者は、あなたがたの味方なのである」。

17:1イエスは弟子たちに言われた、「罪の誘惑が来ることは避けられない。しかし、それをきたらせる者は、わざわいである。 17:2これらの小さい者のひとりを罪に誘惑するよりは、むしろ、ひきうすを首にかけられて海に投げ入れられた方が、ましである。 17:3あなたがたは、自分で注意していなさい。もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、彼をいさめなさい。そして悔い改めたら、ゆるしてやりなさい。 17:4もしあなたに対して一日に七度罪を犯し、そして七度『悔い改めます』と言ってあなたのところへ帰ってくれば、ゆるしてやるがよい」。

聖書に聴く 「悔い改めの実を結ぶとは」
「自分たちこそは祝福された良い集団・民族・国民である」という集団の優越意識・選民思想は内側の者にとって「ちから」にはなるが、外側の者にとっては疎外・差別の元である。ヨハネは「アブラハムの子」という選民思想に冷水をぶっかけるように「マムシの子らよ。神はこの石ころからでもアブラハムの子を作り出す」と言い放つ。形ばかりの悔い改めではなく、悔い改めにふさわしい実を結べ」と怒りの声を放った。「悔い改めの実」とはなにか。
 世の「小さくされている者、貧しくされている者」の側に神がおられることを告げ、「彼らが経済的知的観念的宗教的抑圧から解放されるために働け」「彼らとともに神の祝福を受けるために働け」がイザヤ書の言葉。
その働きをするのに「誰が・どの集団が・どんなセクトが、何の目的で」為しているのかは問題ではない。私達に反対しない者、同じような働きをしている者は味方である」というイエスの言葉には、今日で言うセクト的党派性・宗派性はいっさい感じられない。

「罪の誘惑」は富める側にも貧しい側にも必ず訪れる。その世における「役立たず」を軽んじ疎外し、貧しいゆえに富める者を敵としパンを盗む者も現れる。人間が作り出した「断絶」・被害者感情はそこかしこに満ちあふれている。断絶(罪)へ誘惑するものの正体をともに探ろうともせず相手を悪として裁くために法を利用したり多数決を利用したりする。

 かつてこの国には「あの子(人)に悪い虫がついて、その虫が悪さを働いている。彼から悪い虫を駆除するにはどうしたらええんじゃろ?」という認識・思考方法があった。現代でも妬み虫、加害虫、外敵虫、テロリスト虫などがいっぱい作り出されるまま、虫が目に見える(人)と区別されず人が裁かれ続けている。「虫」を「無視」して人を裁いてはならないんじゃないか。

 礼拝を通して聖霊による洗礼を新たに受け、主イエスの体をいただき、クリスマスを新たに迎えたい。

先週の出来事・気になるニュースなど
銃撃された中村哲医師。アフガニスタンのアシュラフ・ガニ大統領らに担われ日本に向け出発。日本に到着した遺体を出迎えた内閣閣僚大臣は誰もいなかった。外務省担当者(役人)はいたが。これが日本の現実なのだろう。