20220424 宣教要旨「終わりの日・終末とは」エズラ記8章 イザヤ書2章 エレミヤ13章 マルコ13章

本日の聖書箇所(聖書協会共同訳)
エズラ記(ラテン語)(旧約聖書続編) 8章 50節
   この世に住む人々は、ひどく驕り高ぶって歩んだので、終末の時には多くの悲惨を被る惨めな者となる。

イザヤ書2 4-5
主は国々の間を裁き 多くの民のために判決を下される。
彼らはその剣を鋤にその槍を鎌に打ち直す。国は国に
向かって剣を上げず もはや戦いを学ぶことはない。
ヤコブの家よ、さあ、主の光の中を歩もう。

エレミヤ書/30章 23-24節
主の嵐が 憤りが吹き出る。吹き荒れる嵐が悪人の頭上で渦を巻く。主の燃える怒りは、御心を行って 成し遂げるまで去ることはない。終わりの日に、あなたがたはこのことを悟る。

マルコによる福音書13章 3-8節
  イエスがオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられると、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに尋ねた。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、それがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」   イエスは話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。私の名を名乗る者が大勢現れ、『私がそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。  戦争のことや戦争の噂を聞いても、慌ててはいけない。それは必ず起こるが、まだ世の終わりではない。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。

マルコによる福音書13章13節b
 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。

宣教の要旨「終わりの日・終末とは」
エズラ記(ラテン語)(旧約聖書続編)は、ペルシャ王によりバビロンの捕囚状態から解放されエルサレムに帰還をゆるされたところからはじまる。「イスラエルの民」からユダ族を中心とした「ユダヤの民」へと民族意識が変わった。大凡50ー60年間の奴隷状態を、傲慢になって神に背いた罪に対する罰として受け止めた。
 イザヤは、武力・武器を放棄し、武力衝突を徹底して避けることを呼びかけた。エレミヤも、武力衝突・戦争は罪であり、神の憤りによる罰が嵐となって襲うことを告げる。
 ちから(権力)を持つ者たちが、武力で地の民たちを支配し、支配される者たちの苦しみが続いていた。神の憤りによる裁き、終わりの日、終末が訪れる、それはいったいいつか?との、世の終わりへの恐れと期待とが人々の間に渦巻いていた。

 自称メシア(救世主)が現れ、終わりの日(終末)が、○○年△△の頃に起こる、とか、どんなしるしがあらわれる、とか、人々を煽動し、熱狂集団を作り出したりするのは現代も同じ。それらに決して惑わされてはならない、踊らされてはならない、とイエスは語る。民族同士の争い、国家間の争い、武力連合体の争いが起こるが、それに参加したり、加担してはならない。正義の戦争はない。聖戦はない。主の創造のわざに反する戦争により、神の与える自然の守りが崩れ、異常気象や天変地異や飢饉も起こる。しかし、それらは産みの苦しみであり、崩壊は主による再生の準備である、武力衝突の被害者をかばい、助け合い、ひたすら神の裁きと再生のわざに委ねよ、とイエスは語っているように感じます。

 Bulletin of the Atomic Scientists という原子力に関する科学雑誌に、『審判の日・終末時計』が1947年(原爆投下の2年後)から掲げられており、1947年の“あと7分”が、2012年の福島原発事故後“あと5分”になり、2022年には“あと100秒”に変わったようです。広島・長崎に投下された原子爆弾を作り出した科学者たちが、科学者の自己責任・反省を込めて掲載し続けている終末時計。
 世界にいま1万3千発以上ある原子爆弾のスイッチを誰かが押すかもしれない…そんな恐怖が広がっていると感じます。「終末はいつなのか?」「7分後らしい」「誰がそんなことを言っているのか?」「最先端の科学者たちだよ」…。いま、あらためて「100秒前」の警告に耳を傾けたい。

先週の出来事
 ロシア大使館の職員を国外追放した日本政府。ロシアとの対話による問題解決の道を日本側が放棄した、「絶交」を言い渡したと見做される行為だと感じます。日本は安易に“裁く側”に立つべきではないと思う。憲法9条を守り、いかなる要請があろうと戦争に加担しない非武装の道、非戦を世界に訴え、避難民保護の道を探るべきだと思うのです。

20220417 宣教要旨「飼育からの脱却」出エジプト14:10ー15 マルコ福音書16:12ー19 担当 金田恆孝

讃美歌
0.575 球根の中には  1.90 ここも神の御国なれば  1.320 主よ御もとに近づかん  0.38グローリア
希望者受領の聖餐式

本日の聖書箇所(聖書協会共同訳)
出エジプト記14章 10-15節
 ファラオが近づいて来た。イスラエルの人々が目を上げると、エジプト人が彼らの背後に迫っていた。イスラエルの人々は非常に恐れて主に向かって叫んだ。そして、彼らはモーセに言った。「エジプトに墓がないから、荒れ野で死なせるために私たちを連れ出したのですか。私たちをエジプトから導き出すとは、一体何ということをしてくれたのですか。私たちはエジプトであなたにこう言ったではありませんか。『放っておいてください。私たちはエジプト人に仕えます。荒れ野で死ぬよりはエジプト人に仕えるほうがましです。』」そこで、モーセは民に言った。「恐れてはならない。しっかり立って、今日あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。あなたがたは今エジプト人を見ているが、もはやとこしえに見ることはない。主があなたがたのために戦われる。あなたがたは静かにしていなさい。」主はモーセに言われた。「なぜ私に向かって叫ぶのか。イスラエルの人々に出発するように告げなさい。

  マルコによる福音書16章 12節-19節
 その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿でご自身を現された。この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった。その後、十一人が食事の席に着いているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼(バプテスマ)を受ける者は救われるが、信じない者は罪に定められる。信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らは私の名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも、決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右に座られた。

宣教の要旨「飼育からの脱却」 
 王による食料や富の配分に「飼育」され「奴隷」となっていたエジプトにおけるイスラエルの民。モーセの導きでいざ脱出の際に「何の保証もない荒野で野垂れ死にさせる気か!放っておいてくれ!奴隷のままでも睡眠と食事が保証されているエジプトがまだマシだ!」などと叫びパニック状態になった。
 この、豊かな「飼育」(奴隷)状態から脱却を迫られ混乱状態を起こした『出エジプト』が、現代社会の「今」及び近未来につながる現状と重なっているというのが本日の主要なテーマです。
 本日は復活を記念するイースター礼拝です。「復活」をめぐる二つのイメージ、それが本日二つ目のテーマです。ローマ帝国とヘロデ傀儡政権と神殿支配のもとで、イエスを救世主・メシアとし、イエスが苦しむ民衆を救うという運動が湧き起こり、これを弾圧し、反乱分子の代表としてイエスが十字架刑で処刑された。その後イエス復活の証言が相次いだ。一つは、姿は異なるけれど、復活したイエスがガリラヤから新たな神の国運動を開始し、今も歩まれているという証言(復活のイメージ)と、イエスは天に昇り、終末の時に地上に現れ、洗礼を受けたキリスト者を霊の体に復活させる(生ける者と死ねる者とを裁く)という、ふたつの復活イメージです。「信じて洗礼(バプテスマ)を受ける者は救われるが、信じない者は罪に定められる。」は、初期キリスト教セクトによる付加と思われます。イエスの宣教は、選民思想ではなく「すべての人は神の子」だったと信じています。

 聖書の福音に耳を傾ける私たちの日本の現状と「出エジプト」を、乱暴な実験ですが、重ねてみます。江戸時代大凡2千万人。都市のシステム化開始の明治3千万人。大正5千万人。昭和6千万人。平成1億人。2010年1億2300万人を頂点として、ハウス栽培の野菜の如く肥大してきた人間の頭数は減少を開始。人口も後進諸国より先進国、第一次産業の地方より労働人口が集中する都市へ。住宅も自然に合わせたリサイクル前提の木造からコンクリートビルへ。便利と効率第一主義の居住空間は電動の籠による高層空間、アレルギー対策、感染予防空間となり、都市そのものがライフラインに守られた禁煙前提の病院エリア化しつつある。そんな社会を現在生物未満のウィルスが跋扈し、素顔で徘徊していた人々の姿が、いつの間にかマスク姿へと変わり、手洗い消毒マスク装着が「正しい身だしなみ」になりつつある。
 貧困格差、正規雇用・非正規雇用の格差、身体と頭脳の「発達」の格差により、社会的強者・弱者の格差が大きくなり、弱者の「医療・福祉」への効率的囲い込みが急速に進んでいる。電力の確保と、核兵器製造を視野に入れた原発促進論が隆起しつつある。自殺率は2000~2010年の年3万人からやや下がったが、20歳~30歳代の死亡原因第一位は自殺。自殺の凡そ7割が男性。年齢を超えて広義の引きこもり百万人の75%は男性。核兵器を匂わせウクライナの戦争も続く。「男たち」はますます弱くなっていると感じられる。世界の難民数は20世紀末の4千万人から2022年の現在は8千万人という数字もある。

 男性原理に支えられている「都市」とは逆に、天照信仰=母神崇拝がこの八島の民の、意識の下部構造(根底)にあると思われる。閉塞した時代を切り開くのはいつの世も「母」であり「女」だと思う。美しい縄文土器からも太母のメッセージが響く。 昨今、老いた母による娘殺し、娘による老いた母殺し、母による子殺しなどの事件が目立ち、気になる。太母・母神が急激に衰え、窒息しかかっているのでは、と感じる。意識の上部構造、首から上の「頭」「合理的思考」を基礎とした「都市」国家による安全便利な飼育からの脱出、開放の道はどこにあるのか、こそが今の主要なテーマだと感じる。

「いのち」は何によって守られるか。「手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも、決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」とは、「いのち」は神与え神取り上げる神のものであり、それまでは決して死ぬことはない、の別表現だと思われます。
 復活のイエスに十字架を負わせ続けている私たちですが、その十字架を負い、今も復活し歩み続けるイエスやマグダラのマリアや仲間たちが、新たな光を指し示してくれることを願い続けたい。

先週の出来事
○鳥インフルエンザで大型鳥エミューの大量殺処分のニュース。養鶏や養豚など、ワクチン接種をして消毒を徹底した建物内の動物養殖が、雑菌やウィルスに弱い動物を育てているとしか思えない。人も動物も、自然の中で「放し飼い」されたほうが免疫力が高まるのではないだろうか。素人考えだけれど。

20220410 礼拝宣教要旨「信じられない」担当:金田恆孝

本日の聖書箇所(聖書協会共同訳)
イザヤ書6章 9節
主は言われた。「行って、この民に語りなさい。『よく聞け、しかし、
悟ってはならない。よく見よ、しかし、理解してはならない』と。
イザヤ書53章 1~4節
私たちが聞いたことを、誰が信じただろうか。主の腕は、誰に示されただろうか。
この人は主の前で若枝のように 乾いた地から出た根のように育った。
彼には見るべき麗しさも輝きもなく 望ましい容姿もない。
彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 痛みの人で、病を知っていた。
人々から顔を背けられるほど軽蔑され 私たちも彼を尊ばなかった。
彼が担ったのは私たちの病 彼が負ったのは私たちの痛みであった。
しかし、私たちは思っていた。彼は病に冒され、神に打たれて 苦しめられたのだと。
マルコ福音書6章1~6節
イエスはそこを去って、故郷にお帰りになった。弟子たちも従った。(1節)
安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人はそれを聞いて、
驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろうか。
この人の授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡は一体何か。(2節)
この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟では
ないか。姉妹たちは、ここで私たちと一緒に住んでいるではないか。」
こうして、人々はイエスにつまずいた。(3節)
イエスは彼らに言われた。「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親族、家族の
間だけである。」(4節)
そこでは、ごく僅かの病人に手を置いて癒やされたほかは、何も奇跡を行うことが
おできにならなかった。(5節)
そして、人々の不信仰に驚かれた。それから、イエスは、近くの村を教えて回られた。
(6節)

 宣教の要旨「信じられない」
「信じられない!」って、子どもたちの間(おとなも)でもよく使う、攻撃相手へのジャブのようなセリフです。「じゃあ、あんたは何が信じられるの?」という、逆の問いかけに対する答えは大人でもわかりません。

“聴け!見よ! だが、私の言葉を信じるな! 聴いたことや見たことを信じるな! 理解するな!” などと、いま、わたしたちがイザヤから聞いたら、私たちはどんな反応をするのでしょう。

 ここからの私的な連想ですが、数年前、小学生高学年の子どもと対話が成り立たなくなったお母さんから、「命令や指示ではなくて、子どもにとって大切なことを伝えたいのだが、何を伝えたらいいのかわからなくなっている」という相談を受けたことがありました。その時のなりゆきで、私が提案したのは、「嘘をつきなさい」でした。本当に伝えなければならない大切なこと、なんておとな自体がわかっていないわけで、わかったふうなことは言わなくていい。それより、本気で欺そうと嘘をつく。欺されて悔しがる子どもの顔を見るのはおもしろいし、子どもも嘘を見抜く力をつけられたら一石二鳥だし。本気で欺そうと頑張ってください、と提案しました。私の提案は鼻先で却下されましたが。

イザヤ書の「悟ってはならない・理解してはならない」は、人や集団が自分や自分たちの思いや考え、信念や教義を基準として、何かを「正しい」「間違っている」と決めつけること自体への批判です。元来、人は自分自身を「正しい」と思いたいし、自分のことは理解している、自分を信じて疑いたくない自己愛・感情に由来しているのであり、本質的には「錯誤」です。勘違いです。ある程度自分自身を分析できる年齢に達すると、“自分こそがいちばん信用できない”ことが、それとなくわかってくるものです。誰にとっても正しいこと、間違っていること、善悪の基準なんて「わからん」のが本当なんだし、人の頭(考え)と言葉で人やことがらの善悪を裁くことは、実は神の言葉を恐れぬ傲慢なことであるわけです。「あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪から生じる(間違う)のだ。」(マタイによる福音書5章 37節)は、このことを指し示していると思います。

 主なる神の言葉に捕まり、主によって用いられる、その結果としての十字架への道を新たに歩み出したイエスが、ガリラヤや周辺各地で宣教と主のわざを行い、途中でナザレの故郷に立ち寄った。
 その教えの解き明かしや、主の、イエスたちを用いたわざに驚きつつも、イエスの出生地、生育過程、家族などを知っている人たちは、頭で知っているイエスについての“知識”と、そのときその場でイエスと出会った“現実”、新たな教え、出来事との間でパニックを起こしたのでしょう。見た目には知っている、親族関係や過去の仕事なども知っている、本当の父親のことはわからない「あのイエス」についての記憶や知識が邪魔になって、まったく異なった、「新たなイエス」を受け入れることができなかったし、そこで起こっているイエス(たち)のわざを「冷静に視る」こともできなかった。イエスとの新たな出会い、そこで起こった新たなことがらと、自己中心の理解、自己中心の信仰とがぶっつかってパニックを起こしたとき、Oh My God !と叫び、「自己中」から離れられなくなったのでしょう。できることならば、「信じられない自分が信じられない!」と告白すべきだったのでしょう。

 自分によって、ポンコツの頭を司令塔にして生きるのではなく、神さまによって命を吹きこまれ、流され、その時まで生かされることをありのまま受け入れるのが「信」であり信仰なのでしょう。これまでもそうだったように、自分が新たに変えられる、変わる、更に新たな生き方へと押し出されることを畏れず、風任せで歩みたい。

先週の出来事
 EU連合諸国がロシアのウクライナ侵攻を非難し、ロシアの安い石炭、液化ガスなどへの依存、輸入を止めてロシアに圧力をかけようとしている中で、日本は損益重視で輸入を続けようとしている様子。「笑顔だが何を考えているか不明な日和見日本人」イメージは続くのだろう。

20220403 宣教要旨「戦争の大義は作られる」詩篇23:1-6 エゼキエル34:8-10 ヨハネ福音書10:11-15 担当 金田恆孝

本日の聖書箇所(聖書協会共同訳)

詩編/23 1-6
賛歌。ダビデの詩。主は私の羊飼い。私は乏しいことがない。
主は私を緑の野に伏させ憩いの汀に伴われる。
主は私の魂を生き返らせ 御名にふさわしく、正しい道へと
導かれる。たとえ死の陰の谷を歩むとも 私は災いを恐れない。
あなたは私と共におられ  あなたの鞭と杖が私を慰める。

私を苦しめる者の前で あなたは私に食卓を整えられる。
私の頭に油を注ぎ 私の杯を満たされる。

命あるかぎり 恵みと慈しみが私を追う。
私は主の家に住もう 日の続くかぎり。

エゼキエル書34章 8-10節
私は生きている――主なる神の仰せ。
私の群れは牧者がいないため、略奪に遭い、あらゆる野の獣の
餌食となっているというのに、私の牧者は群れを尋ね求めも
しない。牧者はわが身を養うが、私の群れを養わない。
それゆえ、牧者よ、主の言葉を聞け。主なる神はこう言われる。私は牧者に立ち向かう。私は彼らの手から私の羊の群れを
尋ね求め、彼らに群れを養わせない。牧者は二度とわが身を
養えなくなる。私は彼らの口から私の群れを救い出す。
私の群れが彼らの餌食となることはない。

ヨハネによる福音書10章 11-15節
私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。
羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを
見ると、羊を置き去りにして逃げる。
――狼は羊を奪い、また追い散らす。――
彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。
私は良い羊飼いである。私は自分の羊を知っており、
羊も私を知っている。
それは、父が私を知っておられ、私が父を知っているのと
同じである。私は羊のために命を捨てる。

宣教の要旨「戦争の大義は作られる」
 “争うことなく奪うことなく戦うことなく”生かされることと生きることがひとつになっている姿が「羊」で描かれます。羊の群れが「主」と仰ぐ神によって緑の野に守られ伏し、憩いの汀へと導かれます。(詩篇23) 先ほどご一緒に歌いました②編41番「主は我が飼い主」は長い間、キリスト教世界で、日本で、歌い継がれてきた讃美歌でしょう。映画「戦場のメリークリスマス」の中でも歌われていました。

 かつてフィリピンで、一般家庭に置かれている礼拝の対象としての「子どものイエス像」セントニーニョに出会いました。スペインの支配に対して激しく抵抗したラプ・ラプ等のちからを削ぐために子どものイエスを教えた、というのが有力な説ですが、フィリピンで出会った人たちの“飾らない笑顔” “屈託のない柔らかさ”の象徴だと感じました。

 聖書に戻ります。イスラエルの指導者たちは国力拡大に明け暮れ、武器を持たない羊・民たちを守らず導かず、争いを起こし、他国の捕囚となるままにしたゆえ、主が新たな牧者となられる(新たな牧者・メシアを立てる)。(エゼ34章)

 日本は敗戦を機に、二度と戦争を引き起こさないための憲法を手にした。前文が憲法全体を規定しています。
 …われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する…われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する…
 戦争の放棄を宣言する憲法9条は「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」(イザヤ書2章4ー5節)決意にそのまま重なります。現在のこの国の第一政治課題は、如何なる大義が作られようと、「戦争に加担しないために今何が必要か」であるべきです。

 2022年の現在、世界は約0.1㎛サイズのウィルス旋風の続く中、ロシアがウクライナに侵攻し今も戦闘が続いている。日本の指導者たちが憲法と非戦の誓いを心新たに守り、平和のために停戦・終戦を呼びかけるべきでしょうが、逆の方向(憲法改正 沖縄の軍備増強)が目論まれている現実があります。

 武器も力も何の権限ももたないイエスが、主なる神に羊たちの牧者として立てられた。復活し、再びガリラヤから歩み始めたイエスは、今も戦争遂行者たちから羊を守るために命を捨て続けておられると思います。
 日本が「一億火の玉」の呼びかけで戦争に突入していったときの心理誘導は、陸軍大将東条英機の、後ろに下がることも逃げることも許さないメッセージに象徴される。『恥を知る者は強し。常に郷党(きょうとう)家門の面目を思ひ、愈々(いよいよ)奮励(ふんれい)してその期待に答ふべし、生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿(なか)れ』。

恥も辱めも汚名も罵声も恫喝も放屁で逃げましょう。「正義の戦争」「名誉の戦死」など大義・正義には気をつけましょう。        

 この戦争で今も命を奪われている人々の傍らにイエスが立っておられることを信じ、えげつない惨禍に抗議しつつ、復活の主イエスと共に歩みたい。

先週の出来事

○国連人権高等弁務官事務所がロシアによるウクライナ侵攻による死者8000名近く。負傷者17800名と発表。
「東淀川教会」として被害者支援のため、日本キリスト教協議会を通して本日までの集計分25000円を送金しました。