20240421 東淀川教会礼拝宣教要旨「人とは何者なので」詩篇8篇1−10節 マタイ福音書6章24−30節

聖書箇所

詩編8編 1-10節
指揮者によって。ギティトに合わせて。賛歌。ダビデの詩。(1)
主よ、我らの主よ 御名は全地でいかに力強いことか。あなたは天上の威厳をこの地上に置き(2)
幼子と乳飲み子の口によって砦を築かれた。敵対する者に備え 敵と報復する者を鎮めるために。(3)
あなたの指の業である天を あなたが据えた月と星を仰ぎ見て、思う。(4)
人とは何者なのか、あなたが心に留めるとは。人の子とは何者なのか、あなたが顧みるとは。(5)
あなたは人間を、神に僅かに劣る者とされ 栄光と誉れの冠を授け(6)
御手の業を治めさせ あらゆるものをその足元に置かれた。(7)
羊も牛もことごとく、また野の獣(8)
空の鳥、海の魚 潮路をよぎるものまでも。(9)
主よ、我らの主よ 御名は全地でいかに力強いことか。(10)

マタイによる福音書6章 24-30節
「誰も、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を疎んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(24)
「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また体のことで何を着ようかと思い煩うな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。(25)
空の鳥を見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。まして、あなたがたは、鳥よりも優れた者ではないか。(26)
あなたがたのうちの誰が、思い煩ったからといって、寿命を僅かでも延ばすことができようか。(27)
なぜ、衣服のことで思い煩うのか。野の花がどのように育つのか、よく学びなさい。働きもせず、紡ぎもしない。(28)
しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。(29)
今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。(30)

 

宣教要旨 「人とは何者なので」

人類は言葉や文字を生み出す以前から、大自然の中で地上を流浪・遊牧しつつ、全ての前提である“神”と対話し続けてきた。移動し交流する民たちが自分達の“神”イメージを言葉や画や像で表すことは「偶像化」であり不遜であり畏れ控えなければならなかった。それがイスラエルの信仰やキリスト教の中でも「神の名をみだりに唱えてはならない」「偶像崇拝禁止」など、史的に変型されものが残っている。信仰とは、“神あっての大自然”、“神あっての生命・人”という「大前提」に生かされ生きる姿勢そのものを指している。
 国家が生じた古代オリエント文明から地中海沿岸に舞台が移るとメソポタミアは表舞台から切り捨てられ、舞台が地中海周辺へ。更にはアルプスの北に舞台が移るとギリシャは切り捨てられ西欧中世史が始まり、封建領主から近代資本主義国家社会へ移行し、科学的精神(啓蒙的・実証的・合理的精神)が重視され、歴史も人類も先進諸国を中心に発展進歩している、という、人間の「意識」中心の“西欧中心史観”、更には経済システムを基盤とする唯物史観が人々の「意識」を牽引した。そこからは後進国、未開の地、辺境の文化などは見放されてきた。神との対話から始まった宗教はそれぞれの国家と密接に結びつき、民族意識や国家秩序安寧の重要なツールとしてその役割を果たしてきた。
 “神”をイデー、概念として広めるのに役立ったのが初期キリスト教。パウロの「神は愛なり」の宣教は“神”を知的理解のために概念化したのであり、イメージとしての「偶像化」でもあった。それは同時に“信仰した者が救われる”「選民思想」を生み出し、神は契約した者を救わなければならないという“神契約”と、人の傲慢をも生み出すことにもなったわけです。

 「愛は地球を救う」の標語のもと、神に代わって地球環境保護、自然保護や好きな動物保護などに奔走する人々の心に、「信仰」を利用した自分の感情の絶対化、更には神に近づこうとする傲慢さを感じてしまうのです。

 本日の聖書箇所は、傲慢になりがちな「人」が、被造物の中で神に愛される特別な存在ではないどころか、愚かな、罪深い存在であることを言い表し、謙遜・謙虚さを呼びかけていると感じられます。イエスの宣教も、“神の子”として生かされている「人」への、親なる神への謙虚さを呼びかけていると感じられます。

20240414 東淀川教会礼拝宣教要旨「乳飲み子こそ」イザヤ書11章8節 マタイ福音書21章15-16節

聖書箇所

イザヤ書 11章 8節
乳飲み子はコブラの穴に戯れ 乳離れした子は毒蛇の巣に手を伸ばす。

イザヤ書49章 14-15節
しかし、シオンは言った。「主は私を見捨てられた。わが主は私を忘れられた」と。
女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎内の子を憐れまずにいられようか。たとえ、女たちが忘れても 私はあなたを忘れない。

イザヤ書65章 20節
そこにはもはや、数日の命の乳飲み子も 自らの寿命を満たさない老人もいなくなる。

マタイによる福音書21章 15-16節
しかし、祭司長たちや律法学者たちは、イエスがなさった不思議な業を見、また、境内で子どもたちが叫んで、「ダビデの子にホサナ」と言うのを聞いて腹を立て、
イエスに言った。「子どもたちが何と言っているか、聞こえるか。」イエスは言われた。「聞こえる。『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美の歌を整えられた』とあるのを、あなたがたはまだ読んだことがないのか。」

詩編8編 2-3節
主よ、我らの主よ 御名は全地でいかに力強いことか。あなたは天上の威厳をこの地上に置き 幼子と乳飲み子の口によって砦を築かれた。敵対する者に備え 敵と報復する者を鎮めるために。

宣教要旨「乳飲み子こそ」

 乳飲み子、と聞いてどんなイメージを持たれるでしょうか。
2,30年前頃まで、赤ちゃんにお母さんがおっぱいを与えている風景は決して珍しいものではありませんでしたが、殆ど見かけなくなりましたね。まさに、無条件にほっこりする、平和の象徴のような風景ですが、見かけなくなったのは時代が平和じゃなくなったからなのでしょうね。(まさか、母親が赤ちゃんへの授乳のためにおっぱいをだすことが卑猥だとか猥褻だとか、遅れている!とか非難する人がいるのでしょうか?)

 イザヤの口を通して語られ、イエスも語っている“乳飲み子”とは、もっとも神さまに近い存在であり、人の子が自然と調和しており、自然とともに神さまに活かされている平和を表現しています。
 意図的に神を礼拝している大人たちではなく、乳飲み子や幼子こそが神さまに活かされていることを喜び、与えられた自然を喜び、その仕草や発する声が神を讃美している、とイエスは語ります。だからイエスの祈りは「アッバ」という幼児語で始まるのです。

 乳飲み子や幼子が毒蛇(マムシやハブなど)と遊ぶ、戯れるなど、自然から遠ざかってしまった現代の人からは絶対あり得ない絵図なのでしょうが、古代パレスチナや日本の幼門時代だったらあり得たんじゃないかなと思います。第一、毒蛇の毒は攻撃のためにあるのではなく、防衛のためです。乳飲み子と友だちになれそうな気もします。また、縄文土器にも蛇やカエルが大切なタンパク源だっただろうことを感じます。

余談ですが、縄文時代から続いてきたであろう諏訪大社の神事に、神さまからいただいた鹿の頭を並べて感謝を献げる儀式のほか、生きたカエルを捕まえて串刺しにして奉納する儀式があり、それに対して「自然保護団体」が“カエルちゃんを殺すなんて残酷”と抗議し続けているようなのです。youtubeで見ることができます。彼等は自分達を、「自然を守る戦士である」と傲慢にも思い込んでいるようですが、カエルをいただき感謝を献げる自然との関係こそ自然を守り自然から守られることであるのに、それが全く理解できないのでしょう。

 人間たちが作り出す上下関係やお金持ちと貧乏人との関係、強い者が弱い者を虐げ続けている地上に、神が、虐げられている人々の列の最後尾(しんがり)に立たれる、神の国が近づいているビジョンをイザヤもイエスも語っています。立派な、長いお祈りをする大人ではなく、乳飲み子こそが神さまにもっとも近い、人類の希望、平和の象徴なのです。

戦闘準備や目的不明な万博、賭博場建築には予算が付き、子育て支援や被災者支援には予算がつかない昨今。子どもの出生率が下がり続けているこの国。乳飲み子がお母さんのおっぱいを飲む姿が町から消えた現代都市は、希望が消えかかっているコンクリートジャングルなのでしょう。

 主イエスとともに、「アッバ・・・」と祈りたい。

20240407 東淀川教会礼拝宣教要旨「神のイメージ」イザヤ書29章13−20節 マルコ福音書7章6-8節

聖書箇所

イザヤ書29章 13〜20節

主は言われた。「この民は口で近づき 唇で私を敬うが その心は私から遠く離れている。彼らは私を畏れるが 人間の戒めを教えられているにすぎない。(13)

それゆえ、私は再びこの民を 驚くべき業によって驚かす。この民の知恵ある者の知恵は滅び 悟りある者の悟りは隠される。」(14)

災いあれ、謀を主に深く隠す者に。彼らの所業は闇の中にある。彼らは言う。「誰が我らのことを見ているか。誰が我らのことを知っているか。」(15)

あなたがたの考えは逆様だ。陶工が粘土と同じに見なされるだろうか。造られた者が、それを造った者に言えるだろうか 「彼が私を造ったのではない」と。陶器が陶工に言えるだろうか 「彼には分別がない」と。(16)

しばらくすればレバノンは果樹園に変わり 果樹園は森と見なされる。(17)

その日には 耳の聞こえない者が書物の言葉を聞き取り 見えなかった者の目が暗黒と闇から解かれて 見えるようになる。(18)

へりくだる者たちは主によって前にも増して喜び 貧しい人々は イスラエルの聖なる方によって喜び躍る。(19)

暴虐な者はうせ、嘲る者は滅び 悪事をたくらむ者はすべて絶たれる。(20)

マルコによる福音書7章 6〜8節

イエスは言われた。「イザヤは、あなたがた偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は唇で私を敬うが その心は私から遠く離れている。(6)

空しく私を崇め 人間の戒めを教えとして教えている。』(7)

あなたがたは、神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」(8)

(参考)イザヤ書6章 04ー11節

その呼びかける声によって敷居の基が揺れ動き、神殿は煙で満ちた。

私は言った。「ああ、災いだ。私は汚れた唇の者 私は汚れた唇の民の中に住んでいる者。しかも、私の目は 王である万軍の主を見てしまったのだ。」

すると、セラフィムの一人が私のところに飛んで来た。その手には祭壇の上から火箸で取った炭火があった。

彼はそれを私の口に触れさせ、言った。「見よ、これがあなたの唇に触れたので 過ちは取り去られ、罪は覆われた。」

その時、私は主の声を聞いた。「誰を遣わそうか。誰が私たちのために行ってくれるだろうか。」私は言った。「ここに私がおります。私を遣わしてください。」

主は言われた。「行って、この民に語りなさい。『よく聞け、しかし、悟ってはならない。よく見よ、しかし、理解してはならない』と。

この民の心を鈍くし 耳を遠くし、目を閉ざしなさい。目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず 立ち帰って癒やされることのないように。」

私は言った。「主よ、いつまでですか。」主は言われた。「町が荒れ果て、住む者がいなくなり 家には人が絶え その土地が荒れ果てて崩れ去る時まで。」

宣教要旨 「神のイメージ」

 自然条件とともに移動し、定住しない民たちの神観と、定住し土地を所有し拡張と利権を図る民たちの神観とは全く異なります。移動・遊牧の民にとって神は自然そのものであり、壮大な神秘であり、畏れ、慄き、敬い、感謝し、究極は運命を委ねる他ない対象です。(この二つの違いを、日本の縄文文化と弥生文化の違いにも感じています。)

 定着・土地所有の民にとっての神イメージは、民族の守護神、護国豊穣の神イメージが基本となり、国家の争いの中にあってはそれぞれの軍神に変わります。

 イスラエル12部族が一つの軍事国家となり、弱体化し南北に分かれた後も、どの強い国家と軍事同盟を結ぶかで国内が紛糾していました。預言者イザヤは、遊牧民・神とともに移動する民としての神イメージを持ち続けた預言者だったと感じます。遊牧生活には戻れないにしても、他の国、他の民族と争って自国の安寧を図ることは神の御心ではないと語り続けました。武器を農具に作り替えよ、と叫び続けました。

 人間はどこまでも恐怖とエゴの綯い交ぜ(ないまぜ)です。緊張関係においては「なおさら」です。自己や利害関係が一致する自分達を中心として神を、更には、自分たちの言葉や論理や価値観で理解しようとします。自分達以外の、敵対する者や第三者の立場に立って理解したり考えようとすることはまず不可能です。それに対してイザヤは『聞け。しかし理解するな』『見よ。しかし悟るな』と呼びかけます(イザヤ書6章9-10節)。いわば「頭で答えを導き出すな」「何をすべきかではなく、何をしてはならないかを考えなさい」「それがわからなければ何もするな」「眠っていなさい」みたいな言葉です。

 イザヤの言葉を引用するイエスは、神殿の指導者、支配者たちに都合のいい言い伝えを、神の言葉、神の言い伝え、守られるべき律法として人々に守らせようとしている、と語り、その偽善性をわかりやすく語っています。

 土地や自然を所有し、民族や国の利害や便利のために開発し独占的に利用することで、富める国と貧しい国が二極化し、軍事力による利権と安寧(平和)の確保争いが今日も「戦争」として続いていると考えられます。いま、この国では、『交戦権をもたない憲法の下では独立国家ではない』から『交戦権を持つべき』へ舵を切ろうとしているように感じられます。

 今こそ、イザヤの『聞け。しかし理解するな』『見よ。しかし悟るな』の言葉に耳を傾け、イエスの声に心を傾けたいと願います。

 

20240331 復活節第1主日礼拝 (イースター)ルカ福音書24章1-12節 「夜明け前」 向井武子牧師

聖書箇所

ルカによる福音書24章 1〜12節
そして、週の初めの日、明け方早く、準備をしておいた香料を携えて墓に行った。(1)
すると、石が墓から転がしてあり、(2)
中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。(3)
そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに立った。(4)
女たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。(5)
あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられた頃、お話しになったことを思い出しなさい。(6)
人の子は、必ず罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活する、と言われたではないか。」(7)
そこで、女たちはイエスの言葉を思い出した。(8)
そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。(9)
それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいたほかの女たちであった。女たちはこれらのことを使徒たちに話した。(10)
しかし、使徒たちには、この話がまるで馬鹿げたことに思われて、女たちの言うことを信じなかった。(11)
しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。(12)

 

担当  向井武子牧師のご紹介

 東淀川教会は医師であり牧師であった菱川侃一牧師のもと、1959年3月29日のイースターに生まれました。今日はここ東淀川教会の65歳の誕生日でもあります。

 本日のイースター礼拝は、金田が主任牧師となるまえに、向井憘夫牧師とともにこの教会を主任牧師として導いておられた向井武子先生が福音宣教を担当してくださいます。

 2024年3月 ウクライナでもパレスチナのガザでも大量殺人が繰り返されています。この国でも人間関係は更に疎遠となり、“お互いさま”の心は失われ、責められたり裁かれたりすることに怯える心が蔓延しています。

 人を「敵」として殺すことにも、「刑罰」として殺すことにも「義」はありません。償いも和解も、互いが主に生かされていればこそ可能です。

 向井先生は大きな犯罪を犯し死刑囚となった若者と、ともに悔い改めと和解への道を探るために養子縁組をし、支え続け、死刑廃止を社会に訴え続けてこられました。

 ご病気の療養中ではありますが、東淀川教会イースター礼拝に「夜明け前」と題して主イエスからのメッセージを取り次いでいただきます。

 

向井武子牧師 宣教 2024年3月31日イースター礼拝 説教題「夜明け前」 ルカ福音書24章1−12節

 本日のテキストは主イエスの苦難と、壮絶な「十字架の死」という出来事から三日目の、まだ明けやらぬ、漆黒の闇が辺りを覆っている頃の出来事です。皆さんもキリスト教に触れたり、聖書を読んだりして、聖書には「躓きの石」がいっぱいあることを知っておられると思います。例えば、イエスの処女降誕とか、様々な奇跡物語とか、本日の聖書箇所のように、死んだイエスが生き返ったとか。死者が生き返ったとは「躓きの石」の中でも最大級の石(墓穴を塞ぐほどの大きな石)です。この「躓きの石」が原因で、教会や信仰生活から去っていった人も多くいることでしょう。

 

 私たち人間は、生まれた時から死に至るまで、死を恐れ、死を考えないようにしながら、実は死に向かって人生の旅をしています。「死んだらおしまいだ」これが私たちが人生経験から得ている知識、答えです。ある学者は「人間は死んだら分解されゴミになって土に還る」と言います。しかし今日のテキストはこうした私たちの考えとは真逆の出来事を伝えています。しかもその出来事を伝えたのは女性たちであり、しかも四つの福音書全てに登場する女性はマグダラのマリアでした。

 主イエスの時代は女性は社会の人数の中に入りませんでした(今も多くあることです)。蔑まれ、「無能力者」とされ、男性とは対等に扱われませんでした。その中でもマグダラのマリアは、七つの悪霊に取り憑かれていたとテキストは記録していますが、今日的に言えば心身ともに深い病の中にいたということでしょう。その心身の病を主イエスによって癒やされ、生まれたことと生きる喜びを取り戻した女性です。

 余談になるかもしれませんが、男性の弟子たちは、主イエス誕生の時も、主イエスの十字架刑の時も、そして復活の時も、その存在の陰をひそめています。霞んでいます。言い方を変えれば舞台の中央には女性たちだけなのです。

 主イエスは、世の中で大切な人として扱われず、小さくされ、見放され、見捨てられた人、病や障害や重荷を負う人、ちいさなこどもたちに近づき、「小さき者、貧しい者こそ幸い」と宣言され、存在の「かけがえのなさ」を取り戻させ、神の栄光を示してくださいました。神の御心も主イエスの信仰思想も、この世の価値観、考えとは逆転しているのです。テキストを読めばそのことが解ります。

 マグダラのマリアたちも、その人生経験によって「死がいのちの終わり・全ての終わり」と考えていました。だからイエスが十字架で殺された出来事に怒り、悲しみつつも、遺体の葬りとお別れを行うために墓を訪れています。しかし、そこで目撃したことは、こうした女たちの考えを打ち砕く出来事でした。

 私たちの人生経験の上に立った思い、理解を打ち破る、打ち砕くのが神の出来事であり、それを信じることが信仰である、とするなら、信仰とは「理解不能な、とっぴなことを信じること」なのでしょうか。そうではありません。神のなさることは全て私たち一人ひとりへの神の愛から出ていることなのです。

 主イエスの復活とはどんな神の愛なのでしょう。それは私たち全てを「罪と死」から救い出そうとされる神の愛です。人の罪を明らかにするのは正当なキリスト教だけです。「罪と死」は表裏一体となって私に迫ってきます。罪とは①神との関係と②人との関係とに現れます。聖書・テキストは罪を問い罪に答える本です。

罪とは「的を外すこと」 的とは神です。

私たちを創造し愛してくださる神に背いて、神から目を反らしていきること。「神ありのとき」を神なしで生きることです。

②人との関係では、自分や自分たちだけをかけがえのない大切な存在として生きる自己中心的な生き方であり考え方です。ローマ人への手紙8章に描かれている人間の姿です。

 私たちを愛して止まない神が、私たちが罪により滅んでいくのを放っておくことがおできにならなかったのです。だからこそただ一人の御子イエスを私たちにお与えになられた。主イエスは神の使命をその身に受けて私たちの元に来てくださったのです。

 

 悲しみに暮れて墓を訪れたマグダラのマリアや女性たちが見たものは、墓が空だったという事実です。ここで天使の「主は蘇られた」とのメッセージを聞き、彼女たちは信じた。信じたからこそこの出来事を使徒たちや仲間たちに伝えずにおれなかた。「伝えずにはおられない」溢れる思い。それが「宣教」です。

 ここで女性たちは悲しみからの方向転換をします。十字架の死からの勝利宣言を携えて女性たちは宣教に走り出します。そして幾度も語り聞かせたことでしょう。

しかし使徒たち、男の仲間たちは信じなかった。大きな石に躓いたのです。「女たちの言うことは馬鹿げたこと(ナンセンス)だと、信じようとはしなかった。十字架刑ですべては終わったと思ったからです。

 主イエスは、「私は復活である。あなたはこれを信じるか」と迫ります。私たちはイエスの「迫り」に答えなければなりません。

 私たちも大きな石に躓くかも知れません。でも躓いてもいいのです。が、躓いたままで終わってはいけません。諦めてはいけないのです。躓きつつ祈り、聖書を読み、礼拝に出席し、聖書の言葉を聞いていくのです。聖霊が、復活のイエスが私たちを導いてくださいます。

ヨハネの黙示録21章3−5節 

「そして、私は玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となる。神自ら人と共にいて、その神となり、目から涙をことごとく拭い去ってくださる。もはや死もなく、悲しみも嘆きも痛みもない。最初のものが過ぎ去ったからである。」

すると、玉座におられる方が言われた。「見よ、私は万物を新しくする。」また言われた。「書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である。」(警告と道しるべ)

 私たちはもはや死に向かって、滅びに向かって、神に目を背けたまま歩いているのではありません。主イエスはご自身の復活という事実で「復活とは何か」を示してくださった。それが「復活の初穂となられた」という言葉の意味です。

 私たちは主イエスの全生涯を追いつつ、今も私たちの前を歩んでくださる復活の主イエスを追いつつ、希望に満ちて人生の旅を、自分の死を超えて生きるのです。

(祈祷)

 復活の主なるイエス・キリスト。あなたの十字架の元で礼拝に集うことが出来たことを感謝いたします。わたしたちは度々迷い、疑い、躓く者ですが、死人の中から蘇られた主イエスの跡を追いながら希望に生きることを得させてください。どのような人間の思想も立ち入らせることのないあなたの真理に活かしてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

20240324 東淀川教会礼拝 宣教要旨「分断・立ちはだかる血縁」マタイ10章12章マルコ3章

聖書箇所

マタイによる福音書10章 34-36節
「私が来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。
私は敵対させるために来たからである。人をその父に 娘を母に 嫁をしゅうとめに。こうして、家族の者が敵となる。

マタイによる福音書12章 46-50節
イエスがまだ群衆に話しておられるとき、その母ときょうだいたちが、話したいことがあって外に立っていた。
そこで、ある人がイエスに、「御覧なさい。お母様とごきょうだいたちが、お話ししたいと外に立っておられます」と言った。
イエスはその人にお答えになった。「私の母とは誰か。私のきょうだいとは誰か。」
そして、弟子たちに手を差し伸べて言われた。「見なさい。ここに私の母、私のきょうだいがいる。
天におられる私の父の御心を行う人は誰でも、私の兄弟、姉妹、また母なのだ。」

マルコによる福音書3章 20-22節
イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。
身内の人たちはイエスのことを聞いて、取り押さえに来た。「気が変になっている」と思ったからである。
エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。
———

「分断・立ちはだかる血縁」担当・金田恆孝

 ローマ帝国から統治を赦されているヘロデ王や他の領主たち、神殿祭司などの支配者たちによる、イエスたちの難民救済活動や大食事会などの「神の国運動」を危険視し、これを潰そうとする活動は執拗に行われていたわけです。

 イエスに親族を利用して引き離して連れ戻し、気がフレた者・異常者として排除(隔離・現代なら精神病院収容?)しようとしたことの一端が福音書から伝わってきます。イエスだけではなく、仲間たちにも、参加する無名の協力者たちに対しても、このような「引き剥がし工作」は激しく続いていたと思われます。

 イエスたちの時も、初期のキリスト教会にも、迫害・妨害工作が続いていたことを伝えるために、福音書の記者は、初期のキリスト教会を守るために「父、母、子ども、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうと、これを憎まないなら、私の弟子ではありえない」というニュアンスのコメントをイエスの言葉として記述したと思われます。現代風に表現すれば、“イエスたちは統一協会やオウム真理教のような危険なカルト集団である”、“悪魔の手先であるイエスにマインドコントロールされているから、親族総掛かりで連れ戻し、頭がおかしくなっているから精神病院に入れるか、指定場所に隔離しなければならない。”、“なにもせず放置したら、親族も協力・加担していると見做されて、罪に問われる”というような恫喝が行われただろうことは充分予測できます。だから母マリヤもイエスの兄弟たちも手はずを整えてやってきていたと思われます。それは今日も行われている、精神病院への強制入院措置と本質的に同じことです。

 親族・家族による拉致、連行には失敗したわけですが、おそらく母マリアはイエスたちの活動を確かめるため、その場に残り、やがてその活動全体を理解し、活動を支える側に回ったと思われます。

 イエスたちの活動の特色として、「病んでいる=汚れている=祭司から証明書をもらうまでは一緒に食事をしてはならない」とされている人々を癒やし、人間関係に戻す行為が続いていましたが、一方では、貨幣経済から排除され飢えている大人たちやこどもたちとの「食事会」を頻繁に行っていました。私たち東淀川教会の“聖餐式”も、この食事会の延長にあります。

 「家族」「家庭」「親族」などの言葉に“暖かさ”、“良いもの”のイメージを感じられる人たちは、幸せな人々の部類に入るのでしょう。暖かさなどをまったく感じない人々もいますし、更には「家族」や「家」から深い傷を負わされた人々もいます。コンクリートの壁に囲まれ外側からは見えにくい現代社会の家庭のほうがより深刻だと思います。

 イエスの言葉に「やもめ」が頻繁に現れますが、「家・一族」から排除された婦人や子どもだけでなく、孤児もハンディを負った人々も多くいたとはずです。「二匹の魚と五つのパン」運動は、そこに誰でも参加することができ、誰も排除しない、互いの顔を見合わせながら分かち合い、腹一杯食べることの出来る時と場所は「神の国」の始まりであり、そこに集うお互いが親であり仲間であり兄弟姉妹だったと思われます。「持っている・持っていない」を、“お互いさま”の感覚でカバーし合える人間関係が生まれていたと思われます。

 ロシアでコンサートホールが襲撃され100名以上が死亡したとのニュースが流れていました。最終兵器を後ろに隠し持ったままロケットやドローンによる襲撃・戦争が続いている今。分断工作も続いています。イエスの時代の“引き剥がし”分断工作だけでなく、万里の長城、東西ベルリンの壁、ハンガリーとセルビアの壁、イスラエルの分離壁、トランプ大統領によるメキシコ国境の壁、等々、いつの時代も「分断・敵対工作」はありますが、これに対抗できる工作は何でしょうか。
  
 日本では結婚する割合も子どもの出生率も精子や卵子の活動も下がり続け、“結婚はコスパが悪い”など、家庭作りに夢を持てない若者の感覚も広がっていると感じます。「誰でもがありのまま誰も排除せず食卓を囲み飢えを満たし合える関係作り」がイエスの提案だったと思います。

 精神病院を廃止したイタリアのように、日本でも、分断に抗して、収容場所としての精神病院を終わらせ、重度精神障害者を地域で職種を超えて支え合おうとするACT(Assertive Community Treatment)活動が広がっており、これに“神の国運動”の一端として希望を感じています。聖餐式は主イエスを中心とした食事会。教会もこの活動の拠点になればと主に願います。

☆ACTについてご興味がある方に一冊の図書をご紹介します。医療関係者でなくても読める、なるほど!の書です。
「精神医療の専門性・治すとは異なるいくつかの試み」近田真美子著 医学書院 2000円

先週の出来事

 モスクワ郊外のコンサートホールで起きた襲撃事件。百名以上が死亡とのこと。武装集団による襲撃のようだが、ロシア側集団なのかウクライナ側かそれ以外の集団なのかは不明なまま。ただ、戦時下であることを忘れて音楽を楽しもうと集まっていた人々に、戦時下の、殺し合いを続けている当事国の国民であること、戦場は限定されていないことを突きつけている攻撃と感じます。日本は交戦権が連合国・米国から与えられなかった国。米国の交戦権に従属させられているのでしょう。“日本は憲法9条を変え、主権国として交戦権を取り戻すべき”と主張している人々もいますが、武装化しても、かつての“竹槍”以上の意味はないのでしょう。被爆国であり交戦権をもたない国の住民だからこそ出来ることを主イエスに祈り求めたい。

20240317 東淀川教会受難節第5主日礼拝 宣教要旨「王様は(みっともない)裸じゃないか」マタイ福音書5章27−32節

聖書箇所

マタイ福音書5章 27-32節

「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。 (27節)
しかし、私は言っておく。情欲を抱いて女を見る者は誰でも、すでに心の中で姦淫を犯したのである。 (28節)
右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨てなさい。体の一部がなくなっても、全身がゲヘナに投げ込まれないほうがましである。(29節) 
右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨てなさい。体の一部がなくなっても、全身がゲヘナに落ちないほうがましである。」 (30節)
「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と言われている。 (31節)しかし、私は言っておく。淫らな行い以外の理由で妻を離縁する者は誰でも、その女に姦淫の罪を犯させることになる。離縁された女と結婚する者も、姦淫の罪を犯すことになる。」(32節)

 

宣教要旨「王様は(みっともない)裸じゃないか」

 イスラエルでもっとも理想的な王であり信仰の模範はダビデでした(メシアはダビデの末裔から生まれるという伝承の起点)。実際は王権を握ると人口調査とともに徴兵制を敷き、強い軍事国家を築きました(今日のイスラエル・シオニズム問題?)。部下の妻(バト・シェバ)を奪い(籠絡され)、夫である部下(ウリア)を戦場で死なせた。バト・シェバから生まれた次の王ソロモンが兄弟姉妹の権力争いを勝ち抜き王位に就き、領土を広げ、経済発展と神殿を中止とした栄華を誇った。ソロモンの死後、その子どもたちも権力争いに明け暮れ、民族の分裂と亡国を招いた。
 イエスが生まれた頃は、ローマ帝国の間接支配のもと、ユダヤの王様はヘロデ大王(十人の妻と多数の子どもで大奥を築いた)で、ローマ帝国の手先としてイスラエルのローマ化、従属国化を計った。その後息子ヘロデ・アンティパスがガリラヤ地方の領主であったとき、兄弟の妻ヘロディアを奪って自分の妻としたために、バプテスマのヨハネから批判され、ヨハネを牢獄にいれた。その後、妻へロディアと娘サロメの計略でヨハネを処刑した。ヘロデ親子は神殿建築で人々の人気を得ようとしたが、神への信仰はなかった。マタイのような取税人たちを使ってローマと自分達への税金(みかじめ料ショバ代)を取り立てていた。人々は神殿税と取税人が取り立てる税金の両方に苦しんでいた。外交や政治に関することはローマ(江戸幕府?)の間接支配のもと、神殿とヘロデ大王の息子たちに四分割された領主(藩主?)たちとの合議で行われていた。社会の諸関係法、民法、社会倫理、何が悪であり何が罪か、などの規則や判断については、神殿政治に丸投げされていた。律法で人々を縛りながら、人頭税や神殿税を取り立てることが第一義で、律法を神殿支配者やヘロデ領主や役人たちや軍人に適応することはなかった。その状況下でイエスの言葉を、支配者たちに投げつける言葉として、再度聞き直したい。(支配者たちは自分達のみっともない堕落した裸をさらけ出しているではないか!)
 ローマ帝国とヘロデの息子たち領主と神殿政治の関係は、戦後の米国の世界戦略、属国としての敗戦国日本との関係によく似ていると感じます。主権を持たない傀儡政権の政治家たちは必然的に堕落し、民衆への責任を放棄し、自分たちとセクトの維持と富の蓄積に奔走する。今日の日米合同委員会問題、保守政党議員のパーティティ集金、キックバックの問題もよく似ていると思います。

 

先週の出来事

ネットのニュースやテレビや新聞などで「戦争」のニュースがどんどん流れ込んできます。キリスト者でもクリスチャンでも、わたしのようなイエスチャンでも隠れキリシタンであっても、“聖書に親しんだだけ”の人であったとしても、特にイスラエルとパレスチナの戦闘状態のニュースはこころが•(多少なりとも)痛むと思います。1993年8月ノルウェーで開かれたオスロ会議でイスラエルのラビン首相とPLOのアラファト議長との間で停戦の合意がなされ、9月にもホワイトハウスで、米国クリントン大統領の仲介のもと、話し合いのための「停戦」が世界に向けて表明されました。希望の火が灯ったはずでした。が、1995年11月にラビン首相がイスラエルの若者による銃弾で死亡したとき、「絶望」の輪が広がりました。現在のイスラエルのネタニヤフ首相と、あのときラビン首相を射殺した若者の姿が重なってしまいます。「やつらだけは決して許せない」… ここを乗り越える道を、神の声を聴こうとしている人々、神を畏れる人々、わたしたちは見いだせないのでしょうか。「祈りましょう」でごまかし続けるわけにはいきません。

20240310 東淀川教会受難節第四主日礼拝 宣教要旨「あなたがたは神の子ではないか」マタイ福音書5章13-16節 週報2858

聖書箇所 マタイによる福音書5章 13-16節

「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられようか。もはや、塩としての力を失い、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。 
あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。 
また、灯をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家にあるすべてのものを照らすのである。 
そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かせなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、天におられるあなたがたの父を崇めるようになるためである。」

宣教題「あなたがたは神の子ではないか」

地の塩(あなた方は地の塩である) イエスは人の体について、また、医学的な知識に長けていた。神から与えられている体の神秘的な働きについて語っている。 
 タンパク質や糖分がエネルギー源(右手の役割)であれば、塩は体の半分以上の水分をコントロール(左手の役割)している。生命の維持に欠かせない塩。
塩が不足すると、循環不全、血圧低下、脱水症状、ショック症状や立ちくらみ、むくみなどが起こり、新陳代謝も衰える。人が身体を動かす時、脳からの命令が信号として神経細胞を伝わり、この信号を伝える働きをするのが塩の成分ナトリウムイオン。細胞浸透圧の調整。塩化マグネシウムの抗炎症・抗菌作用。塩化カリウムは筋力の保持。
 塩の役割 食べ物の味付けの基本。更に、食べ物の余分な水分を抜き、雑菌から食べ物の腐敗を防ぎ保存状態を保つ役割。人の体を守る役割として、危険な雑菌を清め炎症を鎮め代謝を促し人々の「元気」を支え調整する役割をイエスは知っていた。
 ※死海の塩水中では、30%以上の塩分があるが、その内容は、塩化ナトリュウムは僅か5.5%、それに対して塩化マグネシュウムは33.3%、塩化カリュウム24.3%などがあるとされている。死海で採れる塩は古代ローマ帝国の兵士に給与として支払われていたと伝えられる。また、シルクロードを通ってアジアに運ばれたとても貴重な品だった。

「あなた方は世の光である」は「あなた方は神の子である」の言い換え。
原始キリスト教団は「イエスこそ唯一の神の子」という教義を中心に据えようとした。そのため、イエスの「あなた方は神の子」というメッセージが背後に回された。「あなたこそ神の子」という“持ち上げ”、神格化のメッセージに対して「私は人の子」と切り返していたと思われます。
排除され疎外され日陰や闇に置かれがちなあなた方は、自分自身をそのように扱ってはならない。自分を隠そうとしてはならない。神に命を吹き込まれ、生かされているありのままの今の姿を輝かせなさい。あなたの輝きが、あなたと共に生きている周りの人々をも輝かせることになる。あなたがたにいのちを吹きこんだ神を讃美しつつ天に召されるその時まで、今を生かされ(活かされ)続けよ、というメッセージそのものです。

20240303 東淀川教会受難節第三主日礼拝 宣教題「ポジショニング・マウンティング」マルコ10章35−45節 週報2857

聖書箇所

マルコによる福音書10章 35~45節
ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」 イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、 二人は言った。「栄光をお受けになるとき、私どもの一人を先生の右に、一人を左に座らせてください。」 イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているのか、分かっていない。この私が飲む杯を飲み、この私が受ける洗礼(バプテスマ)を受けることができるか。」 彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたは、私が飲む杯を飲み、私が受ける洗礼(バプテスマ)を受けることになる。 
しかし、私の右や左に座ることは、私の決めることではない。定められた人々に許されるのだ。」
ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。 そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、諸民族の支配者と見なされている人々がその上に君臨し、また、偉い人たちが権力を振るっている。 しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者となり、 あなたがたの中で、頭になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。 
人の子は、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

宣教要旨「ポジショニング・マウンティング」

 イエスたちの神の国運動はいわば“(力も富も信用もない)貧しい者こそ幸い”な社会作りだったと感じるのです。運動が起こると誰が上か下か、組織的秩序・権力関係、社会的な影響力の大小などが意識され、セクトが生まれ、仲間たちを出し抜いてでも上下関係のポジション取リ(マウント取り)が図られる。天にまで届くバベルの塔が完成しそれを見た人々が唯一の王権を恐れ敬い、地上から権力争い、戦争はなくなる…という神話は文明と一体の幻想なのでしょう。
 世界支配を目論むナチスドイツが原子爆弾を手にする前に米国が持てば、ヒトラーも諦めるだろう、とアインシュタインがルーズベルト大統領に送った原子爆弾開発を勧める手紙が、広島・長崎に投下された原子爆弾を生み出したという見方もある。戦後、物理学者の学会で湯川秀樹氏に会ったアインシュタインは涙を流しながら日本に謝罪したと伝えられる。彼が核分裂・核融合の開発競争に明け暮れる西欧の物理学者の一人に送った手紙「神はサイコロ遊びをしない」と、応答の手紙「神でもないあなたが神の行いを決めるべきではない」が、これに携わる学者たちが感じていただろう「パンドラの箱」を開けることへの恐怖と、理論を真っ先に実験し実証したい学者の性(さが)のせめぎ合いが感じられます。
 独国・米国の原子爆弾開発競争の物理科学者たち(NHKバタフライエフェクト)
1920年代ドイツのゲッチンゲン大学物理学研究室
○ ヴェルナー・ハイゼンベルグ へのヒトラーの指示 原子爆弾開発計画に非協力。サボタージュ。1941年米国軍部はハイゼンベルグ暗殺を計画。未遂。終戦時イギリスM16に軟禁される。
○ ロバート・オッペンハイマー ユダヤ人 マンハッタン計画 ニューメキシコ州ロスアラモス国立研究所110㎢ エンジニア2500名職員1万名 二つの原子爆弾製作 広島長崎の実情を知り原子爆弾不使用意見を表明。「赤狩り」対象。水爆開発に反対し推進派の科学者と対立。
○ 仁科芳雄 帰国後理化学研究所仁科芳雄研究室によるサイクロトロン・原子爆弾開発(海軍・陸軍それぞれからの依頼)GHQにより研究成果は廃棄。
学者たちにユダヤ人、ユダヤ系移民がとても多い。ディアスポラとして迫害の中を生きてきた人々の強さと、現代のパレスチナにおけるイスラエル問題、ソ連のウクライナ侵攻、覇権争いの舞台裏で牙を磨き続ける最終兵器と、それに怯える現代社会。
人間の「知覚」に基づく「知的欲求」は限りなく広がろうとし、強者たる人間たちの欲求や便利のために利用してきた。精子や卵子すら冷凍保存し遺伝子検査の結果、望む時期に望む子供を望むかたちで得ることすら可能になりつつある。歴史を「人類の進歩」と捉える歴史観とともに失ってきた「神への畏れ」を取り戻すこと、最終兵器廃絶は可能なのでしょうか。パンドラの箱に残る「希望」を幻視したい。

20240225 東淀川教会受難節第二主日礼拝 宣教要旨「運命を重ねる」列王記上17章 列王記下4章 マルコ1章 週報2856

聖書箇所

列王記上17章 17-24節(サレプタのやもめ)
これらの出来事の後、この家の女主人の息子が病気になった。病気は大変重く、その子はついに息絶えた。
彼女はエリヤに言った。「神の人、あなたは私と何の関わりがあるというのですか。あなたは私の過ちを思い起こさせ、息子を死なせるために来られたのですか。」
しかしエリヤは、「子どもを私によこしなさい」と言って、彼女の懐から息子を受け取り、自分が泊まっている階上の部屋に抱いて上がり、寝台に寝かせた。
そして主に叫んだ。「わが神、主よ、私が身を寄せているこのやもめにまで災いをもたらし、その子を死なせるおつもりですか。」
彼は子どもの上に三度身を重ね、主に叫んだ。「わが神、主よ、どうかこの子の命を元に戻してください。」   
主はエリヤの願いを聞き入れ、その子の命を元に戻されたので、その子は生き返った。


列王記下4章 32-36節(シュネムの女)
エリシャが家に着いてみると、子どもは死んで、寝台の上に横たわっていた。
彼は中に入って戸を閉め、二人だけになって主に祈った。
そして寝台に上がって子どもの上に身を伏せ、自分の口をその口に、目をその目に、手をその手に重ねてかがみ込むと、子どもの体は暖かくなった。
それから彼はまた起き上がって、家の中をあちこち歩き回り、再び寝台に上ってかがみ込んだ。すると、子どもは七回くしゃみをして、目を開いた。


マルコによる福音書1章 40−45節
さて、規定の病を患っている人が、イエスのところに来て、ひざまずいて願い、「お望みならば、私を清くすることがおできになります」と言った。
イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「私は望む。清くなれ」と言われると、
たちまち規定の病は去り、その人は清くなった。
イエスは、彼を厳しく戒めて、すぐに立ち去らせ、
こう言われた。「誰にも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めた物を清めのために献げて、人々に証明しなさい。」
しかし、彼は出て行って、大いにこの出来事を触れ回り、言い広め始めた。それで、イエスはもはや表立って町に入ることができず、外の寂しい所におられた。

宣教要旨「運命を重ねる」

(感染と集団免疫)
 偉大な預言者と慕われたエリア、エリシャ。子を病で失った二人の母の絶望を聞き届け、行った「わざ」は、亡くなった子と体を重ねる、一体化でした。それは“病を行為者に感染させ移す”ことであり、“運命をひとつにする”ことでした。
 一般常識でも律法でも、原因不明の病や伝染病などの患者に近づくことも死者に直接触れることも忌むべき行為でした。イエスの病める者への行いは、預言者の「わざ」を受け継ぐものであり、“直接触れる”、“接触する”行為でしたし、手当てし癒やしつつ、死にゆく人とも触れ続けていたと思われます。
 世の最後尾に立ち、細大の歎きを癒やす神のわざを代行しているだけなのですが、癒やされた者が「イエスの行った奇跡」として、神を崇めずイエスを崇め、大騒ぎしたため、行動的な病める者たちに追われ続ける羽目にもなったようです。
 現代、コロナウィルスの変異は続いていますが、「集団免疫」についての研究と議論が続いているようです。ウィルス感染の広がりによって、集団や交流する人々の中に、抗体も広がっていく、免疫力も高まっていく、というものです。医学的・人工的に免疫力を高めようとするのがワクチンです。免疫力が強ければ良いのかというとそうではなく、強くしすぎると自身の細胞にも攻撃を仕掛けてアレルギー疾患や自己免疫疾患を起こしてしまうし、弱すぎると感染によって重症化してしまうようです。人間も自然の中の生き物です。生物学の福岡伸一氏の言葉を借りれば、自然との「動的平衡」・バランスの中に答えがあるのでしょう。
 良きもの(食べ物も身を守る衣類も身を横たえる場所も)分かち合い、弱い者同士が支え合う、自分よりもより弱い者を支え合う、病すら分かち合うことを恐れない、信仰の先人たちが多くいたことも、イエスのわざとともに心に留め続けたい。

20240218 東淀川教会礼拝宣教要旨「旧約と新約との隔たり」出エジプト記20章1-20節

本日の聖書箇所

出エジプト記20章 1-20節
それから神は、これらすべての言葉を告げられた。「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。
①あなたには私をおいてほかに神々があってはならない。
②あなたは自分のために彫像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水にあるものの、いかなる形も造ってはならない。それにひれ伏し、それに仕えてはならない。私は主、あなたの神、妬む神である。私を憎む者には、父の罪を子に、さらに、三代、四代までも問うが、私を愛し、その戒めを守る者には、幾千代にわたって慈しみを示す。
③あなたはあなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。主はその名をみだりに唱える者を罰せずにはおかない。
④安息日を覚えて、これを聖別しなさい。六日間は働いて、あなたのすべての仕事をしなさい。しかし、七日目はあなたの神、主の安息日であるから、どのような仕事もしてはならない。あなたも、息子も娘も、男女の奴隷も、家畜も、町の中にいるあなたの寄留者も同様である。主は六日のうちに、天と地と海と、そこにあるすべてのものを造り、七日目に休息された。それゆえ、主は安息日を祝福して、これを聖別されたのである。
⑤あなたの父と母を敬いなさい。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えてくださった土地で長く生きることができる。⑥殺してはならない。
⑦姦淫してはならない。
⑧盗んではならない。
⑨隣人について偽りの証言をしてはならない。
⑩隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛とろばなど、隣人のものを一切欲してはならない。」 モーセは民に言った。「恐れてはならない。神が来られたのは、あなたがたを試みるためである。神への畏れをあなたがたの目の前に置き、あなたがたが罪を犯さないようにするためである。」

 

宣教要旨「旧約と新約の隔たり」

ユダヤ教にあってキリスト教にないもの。ヤハウェ(主)「ヤーダー」(知る)
キリスト教にあってユダヤ教にないもの。「アガペー」(愛)「キリスト」(救い主)
※「さて、人は妻エバを知った。彼女は身籠もってカインを産み、『わたしは主によって男の子を得た』と言った。創世記4章1節
「知った」(ヤーダー)が新約における「愛した」と同じ意味です。

 イエスはイスラエル(ユダヤ)人であり、現代の私達が言う“旧約聖書”が示すユダヤ教の中に生きた人であり、旧約聖書に基づいて神からのメッセージを示し、十字架の上で殺された人。
 旧約聖書では「神」は万物と全ての生命の「親」であり、言葉で表現したり、書き表すことができない、讃美しつつも畏れるしかない対象。人間には理解の及ばない神中心の世界観がそこにある。仏教の“色即是空・空即是色”も、人間の知覚や認識をこそ空としており、これによく似ている。
 それに対してイエス以降のキリスト教では、自分が一番大事な、人間中心の世界観。人間が神を信仰する(契約する・服従する・告白する)ことが神を喜ばすことができる、という「関係概念」で理解するようになった。イエスが伝えた神と民(人)との関係を、「モーセの十戒」から拾い出してみます。
「わたしは主、あなたの神」とは、神が全ての生命と人々の親・肉親、という血縁的な感覚があります。イエスの神を呼ぶ言葉「アッバ」もそうです。親は全ての「命」も「人」も「あなた」も「子」として知って(ヘブライ語、ヤーダー)いるが、「人」は親を知ろうとしないし畏れない。神を「父」、民を「娘」で表現する場合もありますが、肉親関係の言葉で表現されます。「知る」(ヤーダー)がギリシャ語「アガペー」に該当します。

「神の名をみだりに唱えてはならない」とは、頭の中で理解したつもりになったり、一片の被造物が創造者を言葉や概念で表現する傲慢さを示す。人は神を知る(ヤーダー)ことはできない、という「わきまえ」が大前提です。
安息日は全ての束縛からも義務からも主従関係からも解放されて近親者とともに親なる神に生かされていることを祝う日。テーマは“解放”です。
「父母を敬え」は、父なる神・母なる神」の関係イメージ、神理解が重なっており、「あなたの子を知れ(愛せよ)」と同じ意味になります。
「殺すな」は「神の子」を殺すという神への反逆を禁じています。
「姦淫」の禁止とは「神が与えた人の性を他人が奪ったり支配してはならない」の意味で、自分から体を売る娼婦業、男娼は禁止していませんでした。人や物の略奪も禁止。偽証・嘘で隣人を貶めることの禁止。最後の「隣人の家を欲してはならない」とは本来、お隣の民族やや国を襲って人や物を奪うことであり、戦争禁止を表します。
 西欧に広まったキリスト教は人間の意識を中心とした神理解となったことを記憶に留め続けたいと思います。

 

先週の出来事

 豚から人への臓器移植の記事がいくつか流れている。その背景には、中国に腎臓などの臓器を買いにいくことが困難になってきている裏事情があるようです。
※「臓器収奪―消える人々 中国の生体臓器ビジネスと大量殺人、その漆黒の闇」
ガットマン,イーサン【著】中国で年間二千人の臓器移植ビジネス。その多くがウィグル民族や少数民族出身の死刑囚からのもの。そして、なんと大枚をはたいて臓器移植を求め中国に渡っている人の最も多いのが日本人。昨今は世界からの批判が集まり、「豚」からの臓器移植か模索されているとのこと。『千と千尋』の豚に変えられた両親が思い浮かんだ。これが今の「日本人」の実像なのだろう。