東淀川教会20180422礼拝 出エ2:11-15マルコ3:7-12 主題「群衆の無責任さと怖さ」司式:金田恆孝

礼拝worship
前奏prelude~招詞invitation~讃美hymn~主の祈りLord’s Prayer~使徒信条Apostles Creed ~交唱alternately Pray~Bible~讃美hymn~Message~讃美hymn~
聖餐式Holy communion~Thanks hymn~献金 donation~頌栄doxology~祝祷Benediction

4月の聖句(招詞invitation)
イエス・キリストは言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」ヨハネ20:21
Jesus therefore said to them again, Peace be unto you: as the Father hath sent me, even so send I you.

旧約聖書出エジプト記2章11~15節
モーセが成長して後、ある日のこと、同胞の所に出て行って、そのはげしい労役を見た。彼はひとりのエジプトびとが、同胞のひとりであるヘブルびとを打つのを見たので、 左右を見まわし、人のいないのを見て、そのエジプトびとを打ち殺し、これを砂の中に隠した。
次の日また出て行って、ふたりのヘブルびとが互に争っているのを見、悪い方の男に言った、「あなたはなぜ、あなたの友を打つのですか」。彼は言った、「だれがあなたを立てて、われわれのつかさ、また裁判人としたのですか。エジプトびとを殺したように、あなたはわたしを殺そうと思うのですか」。モーセは恐れた。そしてあの事がきっと知れたのだと思った。 パロはこの事を聞いて、モーセを殺そうとした。
しかしモーセはパロの前をのがれて、ミデヤンの地に行き、井戸のかたわらに座していた。

新約聖書 マルコ福音書3章7-12節
それから、イエスは弟子たちと共に海べに退かれたが、ガリラヤからきたおびただしい群衆がついて行った。またユダヤから、エルサレムから、イドマヤから、更にヨルダンの向こうから、ツロ、シドンのあたりからも、おびただしい群衆が、そのなさっていることを聞いて、みもとにきた。
イエスは群衆が自分に押し迫るのを避けるために、小舟を用意しておけと、弟子たちに命じられた。それは、多くの人をいやされたので、病苦に悩む者は皆イエスにさわろうとして、押し寄せてきたからである。
また、けがれた霊どもはイエスを見るごとに、みまえにひれ伏し、叫んで、「あなたこそ神の子です」と言った。
イエスは御自身のことを人にあらわさないようにと、彼らをきびしく戒められた。

応唱 我らの祈り(Our pray)
(司会者)
全ての始まりΑアルファであり 終わりΩオメガであり 唯一onlyであり 全てallであり 今の主であり永遠の主であり 神の息から始まり神に帰る「いのち」の主であり
全ての闇を照らす まことの光である神さま
(会衆)
『聖なる 聖なる 聖なる主よ』 ×3回 (holy)

(司会者)
聖母マリアを通して我らに与えられた救い主キリスト・イエス その十字架の元に集うことができたことを感謝致します
(会衆)
『主の恩寵(おんちょう)に感謝』×3回 (grace)

(司会者)
私は「言葉」と「思い」と「行い」によって多くの罪を犯し 更に心を頑なにし 傲慢であったこと そして 自分自身を愛する如く 隣人を愛せなかったことを告白致します
(会衆)
『我が罪を赦し給え』×3 (forgive my sins)

(司会者)
主の求める生け贄は打ち砕かれたこころ 主は悔い改め 帰ってきた放蕩息子を受け入れ あなたの御国を思い出した盗賊を捨てられず 罪を告白した者を友とし
汚れた心を洗い 新しい霊を注いでくださいました 主のあわれみに感謝します
(会衆)
『主よあわれみ給え キリストよ あわれみ給え』×3回(Mercy)

(司会者)
いと高きところに栄光神にあれ 地にある神の民に平和あれ 我らの主 天にいます主 全能の父なる神よ  神の一人子 救い主キリスト・イエスよ
神の御ちからであり 神の息である聖霊よ あなたを崇め あなたに感謝し 讃美します
(会衆)
『グローリア グローリア グローリア』 (gloria)×3回 Amen Amen Amen

宣教題「群衆の無責任さと怖さ・集団のルシファー効果」
「ルシファー効果」とは、『es』という映画(普通の人が囚人側と看守側に分かれて二週間を過ごすという実験)にもなった「スタンフォード監獄実験」を行ったアメリカの心理学者「フィリップ・ジンバルド」が提唱した概念で、どんな人間でも周囲の同調圧力によって善人から悪人に変わってしまう可能性を孕んでいるというもの。

人間には「善と悪」という対極した2つの面が、「陰と陽」の関係のように刻み込まれているといわれる。善良な人が悪人(怪物)に変貌することはとても簡単で、また悪人が善良な人(英雄)に変貌することも可能である。人は、素質に関わりなく、おかれている状況や、環境、集団心理によって簡単に善人から悪人へと変貌するこのメカニズムに「ルシファー効果」という言葉が名づけられた。ルシファーとは、旧約聖書「イザヤ書」14章12節にあらわれる「輝く者が天より墜ちた」という比喩表現に端を発し(これはもともと、イスラエルを攻撃するバビロニア王、アッシリア王について怒りを込めて表現したもの)、キリスト教の教父たちの時代には、神に創造された者が堕ちて悪魔となることを示すものと解釈され、サタンと結託して神に反逆を企てる堕天使、「悪魔」の名前として用いられるようになったもの。

人は集団の中で「大勢の中の一人」という匿名性が保証されている・責任が分散されているといった状態におかれると、自己規制意識が低下し、『没個性化』が生じる。その結果、情緒的・衝動的・非合理的行動が現われ、また周囲の人の行動に感染しやすくなり、道徳性が低下し、暗示にかかりやすくなり、思考が単純になり、感情的な動揺が激しくなり、大きな力を持っているという錯覚に陥り、集団として熱狂し暴走しやすくなる。ぴんとこなくっても、戦時下の日本や、統一協会、オウム真理教などを思い浮かべただけでも了解しやすいことがら。

エジプトで奴隷状態だったヘブライ人への虐待を目撃したモーセは、悪辣なエジプト人をこっそり殺してしまうが、後日、ヘブライ人同士の喧嘩をいさめようと仲裁に入るが、「同じヘブライ人でありながら、エジプト人を殺したように俺を殺すのか?」と逆ギレされ、かつ、エジプト王に密告されて「逃亡者」となった。

イエスのもとに、エルサレムから、あちこちからあらゆる病気や障害をもっている人々が続々と集まってきた。ひとり一人と向かい合って癒やしていたイエスに対し、個々の人ではなく、群衆が押し寄せる。「けがれた霊どもはイエスを見るごとに、みまえにひれ伏し、叫んで「あなたこそ神の子です」と言った」とありますが、イエスについての神の子という吹聴は更に多くの群衆を招き、「イエスよ、この群衆にエネルギーを奪われ、押しつぶされよ!」というメッセージとなる。たとえひとり一人が病気や障害を抱えていたとしても、群衆化してしまった群の怖さは計り知れない。イエスは沖に浮かべた小舟から語りかけるなどの距離を保った。群衆との、この距離の保ち方は非常に重要で、一歩間違えると取り返しの付かない事態を招くことになりやすい。主イエスの「間の取り方」に学びたい。

礼拝終了

先週の出来事
○先週の出来事
◎ハラスメントというカタカナ語が巷に溢れている。セクハラ、パワハラ、モラハラ、マタハラ、ドクハラ、スモハラ、ジェンハラ、アカハラ、… が、グループで個人を虐めるグループハラスメントがあまり叫ばれない。「いじめ」で済まされてしまう。こっちの方が、大人でも子どもでも深刻な現実なのに。グループ・ハラスメント、「グルハラ」を浸透させたい、と思う。

東淀川教会20180415礼拝 イザヤ35:1-7ルカ6:6-11 主題「萎えた者を土俵に立てて」司式:金田恆孝

礼拝worship
前奏prelude~招詞invitation~讃美hymn~主の祈りLord’s Prayer~使徒信条Apostles Creed ~交唱alternately Pray~Bible~讃美hymn~Message~讃美hymn~
聖餐式Holy communion~Thanks hymn~献金 donation~頌栄doxology~祝祷Benediction

4月の聖句(招詞invitation)
イエス・キリストは言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」ヨハネ20:21
Jesus therefore said to them again, Peace be unto you: as the Father hath sent me, even so send I you.

旧約聖書 Prophet Isaiah イザヤ書35章1-7節
35-1 荒野と、かわいた地とは楽しみ、さばくは喜びて花咲き、さふらんのように、
35-2さかんに花咲き、かつ喜び楽しみ、かつ歌う。これにレバノンの栄えが与えられ、カルメルおよびシャロンの麗しさが与えられる。彼らは主の栄光を見、われわれの神の麗しさを見る。
35-3 あなたがたは弱った手を強くし、よろめくひざを健やかにせよ。
35-4 心おののく者に言え、「強くあれ、恐れてはならない。見よ、あなたがたの神は報復をもって臨み、神の報いをもってこられる。神は来て、あなたがたを救われる」と。
35-5 その時、目しいの目は開かれ、耳しいの耳はあけられる。
35-6その時、足なえは、しかのように飛び走り、おしの
舌は喜び歌う。それは荒野に水がわきいで、さばくに川が流れるからである。
35-7 .焼けた砂は池となり、かわいた地は水の源となり、
山犬の伏したすみかは、葦、よしの茂りあう所となる。

新約聖書 Luke ルカ福音書6章6-11節
6-6 また、ほかの安息日に会堂にはいって教えておられたところ、そこに右手のなえた人がいた。
6-7律法学者やパリサイ人たちは、イエスを訴える口実を見付けようと思って、安息日にいやされるかどうかをうかがっていた。
6-8 イエスは彼らの思っていることを知って、その手のなえた人に、「起きて、まん中に立ちなさい」と言われると、起き上がって立った。
6-9 そこでイエスは彼らにむかって言われた、「あなたがたに聞くが、安息日に善を行うのと悪を行うのと、命を救うのと殺すのと、どちらがよいか」。
6-10 そして彼ら一同を見まわして、その人に「手を伸ばしなさい」と言われた。そのとおりにすると、その手は元どおりになった。
6-11そこで彼らは激しく怒って、イエスをどうかしてやろうと、互に話合いをはじめた。

宣教要旨(萎えた者を土俵の上に立たせ)
イザヤ書35章。破壊され荒廃し、毒に満ちた地上が今、色鮮やかに回復する姿、ビジョンが活き活きと描き出されている。花も虫も動物も喜び歌うようになると。そして「滅亡」におののく人間のこころに、「強くあれ!」の神の祝福が聞こえてくる、というのだ。眼の働きが萎え、耳の働きが萎え、体のあちこちが、心が萎えている者の「萎え」が解きほぐされ、力がわき上がり、自然の動植物たちと一緒に、いのちを活かす神を讃美するようになる、というのだ。こんなビジョンは決して失いたくない、変わってほしくない美しいビジョン、「絵」だ。
ルカ福音書6章。イエスは集会所のような会堂でモーセ五書、預言者の書、律法について等々、その紐解き、解説をしていたようです。多くの人々が「ナザレのイエスの話が聴きたい」と求めたのでしょう。
集まった人々の中に紛れ込んでいた右手の萎えている者がいた。「萎えている」とは、現代風に言えば“機能障害”か。眼が萎え、耳が萎え、頭が萎え、内蔵が萎え、手足が萎え、皮膚が萎え、こころが萎える…といろんな使い方、理解の仕方ができる。「じじ・ばばになって、みーんな萎えちまった…」みたいな。萎えが部分的に激しいと、それは「罪の結果」「ケガレている」「ケガレが伝染する」などと“萎えが目立たない”人々から露骨に排除されていたことが聖書から伝わってくる。現代社会では、この“いちじるしいケガレ”を敷居で為切られたところに、保護という名目で隔離することが“福祉政策”と呼ばれてきた。どこかが萎えてしまって回復しそうにないものは「ケガレ」とみなされた。
そんな右手の萎えた者(ケガレ)を、イエスはみんなの真ん中に立たせ(土俵の上に立たせ)、「私の言うとおりにしなさい。手を伸ばしなさい」と命じられ、すると萎えて動かなかった手が動き出して伸びた、とあります。排除され萎縮していた存在が皆の中央に招き出され、もつれて働けなくなっていた神経や筋肉が、萎えさせていたものが取り払われ、イエスのことばにしたがって動き出した、ってことでしょうか。
そもそも安息日とは、働かなければ生きられない奴隷状態からの解放であり、この世で何かをしなければ、ひとの食事の用意をしなければならない、食べたものの消化をしなければならない、あらゆる義務、労働からの解放が始まり。それを人を縛る律法にひっくり返したのは誰だ!とのイエスのことばが聞こえてくるような気がする。さて現代にワープ。土俵に「やもめ」も「おやま」も「うまずめ」も「おかま」も「山姥」も、みーんな上げて「相撲甚句」のBGMで、天岩戸開きのための、アマノウズメの鄙猥なダンスをしたら、女神、天照大神を喜ばせる神事になるのでは、と思われる。
 

 

こころの臨床20180410  キーワード「修験道 相撲 修行が足らん!」文責:金田恆孝

女性T市長が「なぜ市長である私が土俵に上がれないのか!」と…。

性差云々以前に、“エラソーに”と感じてしまう。市職員のリーダーであっても公僕でしょ?

女はケガレている、という「戯れ言・ざれごと」を本気のものとするならば、女から産まれた人間はすべてケガレていることになる。

女はケガレて…云々のルーツは、修験道の中から生まれた戯れ言がどうやらルーツらしい。

古来、日本の山には女神がいて、マタギなどが山に入るには身を洗い、女神の好物であるオコゼの干し物を持参し、山中の儀式では、山に初めて入った若者が裸になってそのいちもつに御幣を巻き付けて踊った、という伝承が残っているほど、女神信仰は古来からあった。修験道の修行のレベルで、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間などがあり、その修羅行の中に「相撲」があり、現在の相撲のルーツでもある。

煩悩を脱却し、解脱・験力を目指す若き修験者にとって、色欲などの煩悩・妄想が邪魔で仕方なかった様子。そこで“おんなはケガレている”という方便を生みだして煩悩を迂回して乗り越えようとしたらしい。ディオゲネスの手淫の知恵があれば良かったのにと思うがそれも修行の邪魔だったか。本音は“修行の邪魔”ということらしいが、この戯れ言に対しては、一言主ではないが、一言『修行が足らん!』ですむ話しだと思われる。

東淀川教会20180418礼拝 レビ19:16-18マタイ5:42-48 主題「凸凹がえらそうに!」司会:金田恆孝

礼拝worship
前奏prelude~招詞invitation~讃美hymn~主の祈りLord’s Prayer~使徒信条Apostles Creed ~交唱alternately Pray~Bible~讃美hymn~Message~讃美hymn~
聖餐式Holy communion~Thanks hymn~献金 donation~頌栄doxology~祝祷Benediction

4月の聖句(招詞invitation)
イエス・キリストは言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」ヨハネ20:21
Jesus therefore said to them again, Peace be unto you: as the Father hath sent me, even so send I you.

主題「凸凹がえらそうに!」
レビ記19章の語る律法とは「隣人の悪口を言うな」「隣人の悪は忠告すべき。悪に巻き込まれるな」「害する隣人に仕返しせずお互い様と許せ」に要約できる。「神」を、全ての世界の上にある「天」で表現し、天のもとで、お互いのダメさ、弱さを前提に「調和」を目指すアジア的な感覚と感じられる。
この律法(法律)を利用して「上」にいる特権階級が「下」にいる民衆を操作し、裁き、罰し、重荷を負わせる行いについての厳しいイエスの批判があった。
「敵を憎み、同胞である隣人を愛せよ」とは、国や上(おかみ)が作り出した法ではないか。「敵」も「汚れた人々(アムハーレツ・非人)も異邦人も、「神の似姿」たる人間ではないか。人間は差別を生みだすが、神は全てのいのちを祝福しているではないか。おばかで愚かな人間、自分たちの傲慢さを理解しつつ、神のもとでの調和(平安)を目指そうではないか… そんなメッセージが聞こえてくる。

エゴの固まり、餓鬼でもある「こども」が身につける「知恵」のひとつが『見つからなければ「悪」ではない』。今日の為政者の姿?
『天知る 地知る 我が知る』とは、自我(セルフ・自分と向き合う気)が目覚め、強い者に媚び、弱い者を虐める自分や、見て見ぬふりをする自分に気付き、自己嫌悪・自分を羞じる心が生じる。そこから、どんな凸凹な人間であっても、誰に対しても同じ態度で人間に接しようとするスタンス・姿勢が生じてくる。そこが自我の目覚めであり、思春期の葛藤の始まりでもある。
「こころ」は「頭」にある、という現代医療が生みだした「信仰」が蔓延し、記憶力や判断力の差で人間が序列化されていく現代。青少年と接していて、本来の「自我」が目覚めなくなっていると感じられる現代社会。
こころの別表記である「精神」とは、神の気(スピリッツ)、精を宿している人間のこころ、の意味が込められており、聖書の「神の似姿」という理解と底通している。“元気”も、神さま、「天」からいただいている「気」を表現している。「信仰」や「宗教」への抵抗がますます強くなっている現代の中で、「天」のこころを取り戻せるだろうか。

○先週の出来事
◎自衛隊の日報が隠されてきた。隠すには理由があり、そこに書かれている悲惨な現実、住民と敵とが区別つけられず現地の人々を攻撃してしまった記録などは“隠したい”現実に違いない。イラクに派遣され帰還し自殺した自衛隊員29名という現実は直視しなければならない。

東淀川教会20180107礼拝 サム上3:8-11 ヨハネ3:3-5 主題「主の声を聴く望み」司式:金田恆孝

礼拝worship
前奏prelude~招詞invitation~讃美hymn~主の祈りLord’s Prayer~使徒信条Apostles Creed ~交唱alternately Pray~Bible~讃美hymn~Message~讃美hymn~
聖餐式Holy communion~Thanks hymn~献金 donation~頌栄doxology~祝祷Benediction

2018年聖句
渇いている者には、わたしが命の水の泉から価なしに飲ませよう。黙示21:6
I will give unto him that is athirst of the fountain of the water of life freely.

1月の聖句(招詞invitation)
七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。申命5:14
the seventh day is a sabbath unto Jehovah thy God: in it thou shalt not do any work,

First Samuelサムエル記上3章8-11節
主はまた三度目にサムエルを呼ばれたので、サムエルは起きてエリのもとへ行って言った、「あなた
がお呼びになりました。わたしは、ここにおります」。その時、エリは主がわらべを呼ばれたのであ
ることを悟った。そしてエリはサムエルに言った、「行って寝なさい。もしあなたを呼ばれたら、『
しもべは聞きます。主よ、お話しください』と言いなさい」。サムエルは行って自分の所で寝た。
主はきて立ち、前のように、「サムエルよ、サムエルよ」と呼ばれたので、サムエルは言った、「し
もべは聞きます。お話しください」。その時、主はサムエルに言われた、「見よ、わたしはイスラエ
ルのうちに一つの事をする。それを聞く者はみな、耳が二つとも鳴るであろう。
Johnヨハネ福音書3章3-5節
イエスは答えて言われた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を
見ることはできない」。
ニコデモは言った、「人は年をとってから生れることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎に
はいって生れることができましょうか」。
イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の
国にはいることはできない。

主題要旨(主の声を聴く望み)
預言者であり最後の士師(裁き司)でもあったサムエル。神に用いられることだけを願った一生であ
ったが、政治的な駆け引きに疎く、肉親には疎んじられ、彼自身が報われることのない一生だった。
その彼が少年の頃、神に声をかけられた箇所。
主はきて立ち、前のように、「サムエルよ、サムエルよ」と呼ばれたので、サムエルは言った、「
しもべは聞きます。お話しください。」サムエル記上3章10節

いわゆる“幻聴”と異なるのは、名が呼ばれることだろう。“他の誰でもない。お前に告げる”と
いうことだ。それに対して、主からの声と確信し、“しもべは聴きます。お話しください”と応答す
る。そこでこそ一対一の対話が成立することになる。
幻聴の場合は対話は成立しない。一方的に、時と場もわきまえず勝手に喋ってくる。迷惑この上な
い。「あなたは誰か」の問いかけに応えようともしない厄介な場合が多い。

イエスは答えて言われた「よくよくあなたに言っておく。
だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」。
ヨハネ福音書3章3節
新しく生れるとはどういうことか。何が変わるというのか。
イエスのメッセージはシンプルである。これまでの「生きる
」という姿勢から「生かされる」という根本的な姿勢の180度の転換である。自分を生かそうとして
くださる主に心と体を預け、ひたすら「生かされる」ことに徹しようとする。それが、「新しく生れ
る」ということであろう。

生かされるには、新しく生れるには、何よりも大切なのは、自分自身を生かそうとする“声”を聴
くことである。
「私はここに居ます。主よ、お話しください」との発言が何時どこででも出来るよう心掛けたい

先週の出来事
〇初詣という文化が生れたのは、たかだか明治中期からとのこと。それをさも昔から、という心理操
作がなされたのは、万世一系の天皇というすり込みとセットで行われたらしい。
いかに現代の私たちが明治以降の「心理操作」に誘導されたか、今もされているかを思い知らされる

東淀川教会20180114礼拝 エレ27:1-6 ヨハネ3:3-5 主題「過ちを認めくびきを負う」司式:金田恆孝

礼拝worship
前奏prelude~招詞invitation~讃美hymn~主の祈りLord’s Prayer~使徒信条Apostles Creed ~交唱alternately Pray~Bible~讃美hymn~Message~讃美hymn~
聖餐式Holy communion~Thanks hymn~献金 donation~頌栄doxology~祝祷Benediction

1月(招詞invitation)
七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。申命5:14
the seventh day is a sabbath unto Jehovah thy God: in it thou shalt not do any work,

Jeremiahエレミヤ書27章1ー6節
ユダの王ヨシヤの子ゼデキヤが世を治め始めたころ、この言葉が主からエレミヤに臨んだ。すなわち主はこうわたしに仰せられた、「綱と、くびきとを作って、それをあなたの首につけ、エルサレムにいるユダの王ゼデキヤの所に来た使者たちによって、エドムの王、モアブの王、アンモンびとの王、ツロの王、シドンの王に言いおくりなさい。
彼らの主君にこの命を伝えさせなさい、『万軍の主、イスラエルの神はこう仰せられる、あなたがたは主君にこのように告げなければならない。
わたしは大いなる力と伸べた腕とをもって、地と地の上にいる人と獣とをつくった者である。そして心のままに地を人に与える。いまわたしはこのすべての国を、
わたしのしもべであるバビロンの王ネブカデネザルの手に与え、また野の獣をも彼に与えて彼に仕えさせた。

Johnヨハネ福音書3章3-5節
彼らはまたエルサレムにきた。そして、イエスが宮の内を歩いておられると、祭司長、律法学者、長老たちが、みもとにきて言った、「何の権威によってこれらの事をするのですか。だれが、そうする権威を授けたのですか」。「一つだけ尋ねよう。それに答えてほしい。そうしたら、何の権威によって、わたしがこれらの事をするのか、あなたがたに言おう。ヨハネのバプテスマは天からであったか、人からであったか、答えなさい」。

宣教要旨(過ちを認めくびきを負う)
預言者Jeremiahエレミヤは神からのことばに従い、牛や馬をつなぐ横木(くびき)を自分の首にかけ、つながれた奴隷のように町の中を歩き、涙ながらに人々に語りかけた。
「恐ろしいことに、エルサレムはバビロンに包囲されている。神は、私たちの罪のために、私たちを罰するために、バビロンを用いようとしている。何度も警告したのに、誰も聞こうとしなかった。もはや神の罰を逃れることはできない。私たちは、受けるべきものを受けなければならない。むしろ神の前に潔く膝をかがめ、バビロンから受ける苦しみというくびきを担がなければならない。」
いつの間にか軍事力に頼り、王に従い、「敵に勝つことが正義」だと思い込むようになっていたイスラエル。傲慢になり、神の御心に心を傾けることをやめてしまっていた。そのイスラエルを神が罰しようとしている。その罰から逃れることはできない。むしろ進んで過ちを認め、罰を受けようではないか、とエレミヤは奴隷の姿となり人々に訴えた。
1945年 壊滅的な被害を受け敗戦したとき、単に「敵に負けた」のではなく、そもそも我々日本人一人一人があまりに大きな過ちを犯したのだ、戦争に勝つことが正義だとして、「敵」を作り出し、殺戮を繰り返してきたのは罪であり、過ちであったとする告白が生まれ広がった。まさに“神の声”を聴いたのだ。それは「憲法」として,「原爆死没者
慰霊碑」に銘まれた決意として、結実した。『過ちは二度と繰り返しません』という“くびき”を負う生き方を選択した。現代。何が過ちであったか、いかなる罪を犯したのかがあまりにも風化してしまった。イエスの言葉は、「我らイスラエルの過ちを告げ知らせたヨハネの言葉は天からのものだったのか、個人的な言葉だったのか」の問いかけに敵対者たちは答えられなかった。いま、私たちの過ち、愚かさを再び知るために、神に罰せられるために、再び「戦争」に向かおうとしているのだろうか。

○先週の出来事
トランプ大統領の他国に対する「憎悪」発言が止まらない。「理性は感情の付属物」なの
だろうが、付属物がなさ過ぎる。
従軍慰安婦問題であれ、尖閣諸島問題であれ、日本の為政者も理性を失っているように見える。「ヘイト」の同盟軍なのか。

東淀川教会20180121礼拝 ナホム3:1-3 マタイ4:12-16 主題「闇を凝視する」司式:金田恆孝

Nahum ナホム書3章1-3節
わざわいなるかな、血を流す町。その中には偽りと、ぶんどり物が満ち、略奪はやまない。
むちの音がする。車輪のとどろく音が聞える。かける馬があり、走る戦車がある。
騎兵は突撃し、つるぎがきらめき、やりがひらめく。殺される者はおびただしく、しかばねは山をな
す。死体は数限りなく、人々はその死体につまずく。

Matthewマタイ福音書4章12-16節
さて、イエスはヨハネが捕えられたと聞いて、ガリラヤへ退かれた。
そしてナザレを去り、ゼブルンとナフタリとの地方にある海べの町カペナウムに行って住まわれた。
これは預言者イザヤによって言われた言が、成就するためである。
ゼブルンの地、ナフタリの地、海に沿う地方、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤ、
暗黒の中に住んでいる民は大いなる光を見、死の地、死の陰に住んでいる人々に、光がのぼった」。

宣教要旨(闇を凝視する)
預言者ナホム「慰める者」の意。非道なアッシリアに対する非難ではあるが、圧制者への呪いや怒り
ではなく、世界を支配している神の怒りの声を語る。アッシリアの暴虐を通して神の「我々」への怒
りを聴き、世の闇を見つめよ、とナホムは語る。エルコシ人と記されているが、おそらくユダの領内
ではあっても、名もない辺境の、小さな村の出身者であったと思われる。
神が怒っているのは血を流す町。嘘と略奪、食料や資源の独占、
お金や武器で人々を縛り上げ、人間を奴隷化し、抵抗したり反抗する者は投獄されたり殺されて屍は
あちこちに横たわる。
「わざわいなるかな。血を流す町」 抵抗する者を殺すことが「刑罰」「正義」の名の下に堂々と繰
り返される。
「血」は神が吹き込んだいのちそのものをあらわす。
現代社会もまた、「罰」として、「死刑」と称して、人の命、血を流すことを堂々と繰り返している
。文明が作り出した最強の武器である原子力爆弾という「剣」を振りかざし「ボタンを押すぞ!」と
威嚇し合っている現実はアッシリアやイスラエルも同じである。
「 イエスはヨハネが捕えられたと聞いて、ガリラヤへ退かれた。そしてナザレを去り、ゼブルンと
ナフタリとの地方にある海べの町カペナウムに行って住まわれた」
血を流す町であることを非難し、荒ぶる為政者たちや武器を持つ者、収奪を繰り返す者たちをイエ
スより先に「町」を非難したバプテスマのヨハネが捕らえられた、ということは、逆らう者、抵抗する
者たちへの見せしめの逮捕、処刑が近づいていることを意味した。カペナウム、光の差さない町へと
逃れた、ということでしょう。現代であれば、世から見向きされない「フクシマ」「オキナワ」「獄中」と
言い換えられると思います。イエスご自身が「闇の中」へと歩み入り、立たれた、のです。

「この町は、この国は、流血の地ではないのか」この声を聴こうではないか。

○先週の出来事
弾道ミサイルの発射ボタンを握る「巨人ふたり」がにらみ合ったまま、ののしりあっている図はどうみ
ても「コミック・漫画」である。「理性は感情の付属物でしかない」としても、この悪しきコミックな
感情に周囲がどれだけブレーキをかけられるかが問われているのだろう。

東淀川教会20180128礼拝 イザヤ61:1-5 ルカ4:16-30 主題「選民思想とは何か」司式:金田恆孝

礼拝worship
前奏prelude~招詞invitation~讃美hymn~主の祈りLord’s Prayer~使徒信条Apostles Creed ~交唱alternately Pray~Bible~讃美hymn~Message~讃美hymn~
聖餐式Holy communion~Thanks hymn~献金 donation~頌栄doxology~祝祷Benediction

1月の聖句(招詞)
七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。申命5:14
the seventh day is a sabbath unto Jehovah thy God: in it thou shalt not do any work,

イザヤ書61章1-5節
主なる神の霊がわたしに臨んだ。これは主がわたしに油を注いで、貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね、わたしをつかわして心のいためる者をいやし、捕われ人に放免を告げ、縛られている者に解放を告げ、主の恵みの年とわれわれの神の報復の日とを告げさせ、また、すべての悲しむ者を慰め、シオンの中の悲しむ者に喜びを与え、灰にかえて冠を与え、悲しみにかえて喜びの油を与え、憂いの心にかえて、さんびの衣を与えさせるためである。こうして、彼らは義のかしの木ととなえられ、主がその栄光をあらわすために植えられた者ととなえられる。
彼らはいにしえの荒れた所を建てなおし、さきに荒れすたれた所を興し、荒れた町々を新たにし、世々すたれた所を再び建てる。外国人は立ってあなたがたの群れを飼い、異邦人はあなたがたの畑を耕す者となり、ぶどうを作る者となる。

ルカ福音書4:16-30節
それから言われた、「よく言っておく。預言者は、自分の郷里では歓迎されないものである。
よく聞いておきなさい。エリヤの時代に、三年六か月にわたって天が閉じ、イスラエル全土に大ききんがあった際、そこには多くのやもめがいたのに、エリヤはそのうちのだれにもつかわされないで、ただシドンのサレプタにいるひとりのやもめにだけつかわされた。
また預言者エリシャの時代に、イスラエルには多くのらい病人がいたのに、そのうちのひとりもきよめられないで、ただシリヤのナアマンだけがきよめられた」。
会堂にいた者たちはこれを聞いて、みな憤りに満ち、立ち上がってイエスを町の外へ追い出し、その町が建っている丘のがけまでひっぱって行って、突き落そうとした。しかし、イエスは彼らのまん中を通り抜けて、去って行かれた。

宣教要旨(選民思想とは何か)
人間は古代より人種や言語や宗教・文化の違いによって自分の属する種族・民族を他の種族から分け、排他的なセクトになりやすい。それがセクトとしてより強い軍事力をもち、経済力を持っていればなおさら排他性が強まるのは容易に想像できる。更に固有の「信仰」がより強いプライドを中心とした選民意識と排他的信仰理解を生み出すことになる。
預言者イザヤが語る神の御心は、こういったプライドをベースとした選民意識を放棄させるメッセージだった。
神ご自身が貧しい人々、財産・経済力や軍事力を持たない人々、それらから阻害されている人を
その苦しみから解放しようとしている。悲しんでいる者に喜びを与えようとしている。主に用られる民は、主の働きを担う人のことだと言うのです。

イエスが会堂(教会)で、イザヤ書を通して「貧しい者をこそ恵もうとしている神の御心」を伝え、「豊かなイスラエル」ではなく、貧しい立場の異邦人、低く見做されている「貧しい人々」をこそ主は恵もうとしていることを伝えたとき、会堂にいたプライドの高いイスラエルの人々すべてが怒り出し、イエスを町から排除し、崖から突き落とそうとした、とあります。
社会的弱者、貧しさ、生きにくさは、「強者」たちが作り出したもの。強者こそ弱者に仕える者となること、弱者と強者との垣根が取り払われていくことが主に仕えることであると、イエスは語り続けた。が、その宣教は、既得権としての選民思想でプライドを保っている人々にとっては許せない宣教だった。

20世紀を経た現代社会もまた、より激しい経済格差を生み出し、人間たちが住めなくなるほどの軍事力競争に明け暮れ、「貧しい者」はますます増大したまま、二度と愚かな戦争を繰り返してはならない決意から生まれた平和憲法を改憲し、軍事国家としての国体に人々を従属させようとしている。主の御心に従うことはそれぞれがどうあるべきかを主に願い求めたい。

○先週の出来事
「憲法に明記し、自衛隊に感謝しよう!」などのメッセージとともに、おおっぴらに「改憲」が叫ばれ始めた。巨大な大衆心理誘導がマスコミを巻き込んで広がっている。こんな時こそ、「醒めていなさい」のイエスの言葉を心に保ちたい。

東淀川教会20180204礼拝 ミカ7:11-14 ヨハネ4:4-9 主題「人間のつくる城壁」司式:金田恆孝

礼拝worship
前奏prelude~招詞invitation~讃美hymn~主の祈りLord’s Prayer~使徒信条Apostles Creed ~交唱alternately Pray~Bible~讃美hymn~Message~讃美hymn~
聖餐式Holy communion~Thanks hymn~献金 donation~頌栄doxology~祝祷Benediction

2月の聖句(招詞)
御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。申命30:14
the word is very nigh unto thee, in thy mouth, and in thy heart, that thou may do it.

ミカ書7章11-14節
あなたの城壁を築く日が来る。その日には国境が遠く広がる。その日にはアッスリヤからエジプトま
で、エジプトからユフラテ川まで、海から海まで、山から山まで、人々はあなたに来る。
しかしかの地はその住民のゆえに、そのおこないの実によって荒れはてる。
どうか、あなたのつえをもってあなたの民、すなわち園の中の林にひとりおるあなたの嗣業の羊を牧
し、いにしえの日のようにバシャンとギレアデで、彼らを養ってください。
あなたがエジプトの国を出た時のように、わたしはもろもろの不思議な事を彼らに示す。
ヨハネ福音書4:4-9節
新約聖書 ヨハネ福音書4:6-9
そこにヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れを覚えて、そのまま、この井戸のそばにすわってお
られた。時は昼の十二時ごろであった。
ひとりのサマリヤの女が水をくみにきたので、イエスはこの女に、「水を飲ませて下さい」と言われ
た。弟子たちは食物を買いに町に行っていたのである。
すると、サマリヤの女はイエスに言った、「あなたはユダヤ人でありながら、どうしてサマリヤの女
のわたしに、飲ませてくれとおっしゃるのですか」。これは、ユダヤ人はサマリヤ人と交際していな
かったからである。

宣教要旨(人間のつくる城壁)
四面楚歌、敵に囲まれて攻められ、エルサレムのどこにも希望を見いだすことはできない、滅びる
しかないと思われる状況の中で預言者ミカは一つのビジョンを見る。
あなたの城壁を築く日が来る。その日には国境が遠く広がる。 その日にはアッスリヤからエ
ジプトまで、エジプトからユフラテ川まで、海から海まで、山から山まで、人々はあなたに来る。
7:11
争いの絶えなかったパレスチナ一帯だが、人々が北から南から、西の果てから東の端まで、人々が
主の元に集まってくる。その人々の長い長い列が城壁となる。それまでに王たちが定めた国境は消え
たり、どんどん遠くに広がっていく…国の争いも民族の争いも消え失せていく。主なる神が不思議な
わざをなされる…そのようなビジョンだったと思われる。
ミカの見たビジョンは今日も実現してはいない。がこの人間の長い「列」が既成の城壁のかわりに
人々を守るものとなり、人と人とを分け隔てる国境を消していくものとなるならば、この長い行列は
、まさに今日でいう「デモ」である。永続的なデモであろう。

イエスがサマリアの女のもとにきて、「水を飲ませてほしい」と懇願する。異邦人のやもめに養わ
れたエリアのことが思い出される。 やもめやカラスに養われる預言者が、神の御心を表していた。
イエスがサマリアの女に養われることを願う。弟子たちから見れば、人間たちが作り出した力の上下
関係、敵対心、排除、などの人間関係の構造がひっくり返り始めていることをイエスを通して感じて
いることとなる。 今日ではそれは「革命」と呼ばれる。
どんなに絶望的な悲惨な状況であろうと、混沌が支配する現実であろうと、究極の理想の状況を思
い描いて主に祈ることは放棄したくはない。「主よ。来たりませ!」

○先週の出来事
十四人の委員が11回も事前にチェックした京大入試試験で出題ミスが見つかったとのこと。完璧な誤
謬なき設問を作ろうとすること自体が傲慢であり、「知」を計ることはクイズ番組とは異なる。大学
のあり方そのものが根本から変わらなければならないのは自明であろう。

東淀川教会20180211礼拝 ナホム2:11ルカ4:33-37主題「悪霊の正体を見極める」司式:金田恆孝

礼拝worship
前奏prelude~招詞invitation~讃美hymn~主の祈りLord’s Prayer~使徒信条Apostles Creed ~交唱alternately Pray~Bible~讃美hymn~Message~讃美hymn~
聖餐式Holy communion~Thanks hymn~献金 donation~頌栄doxology~祝祷Benediction

2月(招詞)
御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。申命30:14
the word is very nigh unto thee, in thy mouth, and in thy heart, that thou may do it.

Nahum ナホム書2章11節
万軍の主は言われる、見よ、わたしはあなたに臨む。わたしはあなたの戦車を焼いて煙にする。つる
ぎはあなたの若いししを滅ぼす。わたしはまた、あなたの獲物を地から断つ。あなたの使者の声は重
ねて聞かれない。

Lukeルカ福音書4章33-37節
すると、汚れた悪霊につかれた人が会堂にいて、大声で叫び出した、
「ああ、ナザレのイエスよ、あなたはわたしたちとなんの係わりがあるのです。わたしたちを滅ぼし
にこられたのですか。あなたがどなたであるか、わかっています。神の聖者です」。
イエスはこれをしかって、「黙れ、この人から出て行け」と言われた。すると悪霊は彼を人なかに投
げ倒し、傷は負わせずに、その人から出て行った。
みんなの者は驚いて、互に語り合って言った、「これは、いったい、なんという言葉だろう。権威と
力とをもって汚れた霊に命じられると、彼らは出て行くのだ」。
こうしてイエスの評判が、その地方のいたる所にひろまっていった。

宣教要旨(悪霊の正体を見極める)
イエスの宣教に対して、ガリラヤの会堂にいた、悪霊に取り憑かれた者が大声で叫びだした、という
。イエスのことばが「悪霊」を追い詰めていたのでしょう。「なぜ追い詰めるのか、ほっといてくれ
ないのか、なぜおれたちを殺そうとするのか、神の聖者だからか!」と滅ぼされることに脅えてパニ
ックを起こしているようです。“悪霊にだって生きる権利はあるんだ!”と叫んでいるようにも聞こ
えます。
イエスは「黙れ!この人から出て行け!」 Hold thy peace, and come out of him.と命じられま
す。死ね!でも、滅びよ!でもなく、「この人から出て行け!」です。
明らかに、「この人」と取り憑いている「もう一人の誰か」を分離しようとしています。「離れなさ
い」「帰るべき所に帰りなさい」というニュアンスを感じます。「取り憑いているもう一人の誰か」
に対して生きる権利を認め尊重しているように思われます。
この取り憑いているもう一人の誰かを、本人から切り離して見極める眼をどうしたら得られるのでし
ょうか。脅えて咆哮する誰かはライオンの叫びに似ています。
ナホム書
ししのすみかはどこであるか。若いししの穴はどこであるか。そこに雄じしはその獲物を携え行き、
その子じしと共にいても、これを恐れさせる者はない。
吼えるライオンも子どもを養おうとしている… ナホム書において、滅びるべきニネベの町として
読むのではなく、子じしと自分を養う親じしの姿をしっかりみすえて、互いがともに生きられる姿を
探りながら、分離させて帰るべきところに帰す、新たな居場所に行かせる働きを学びたい。
悪霊Evil spirit を見極める眼と、悪霊へのやさしさが求められている。

○先週の出来事
平昌、冬季オリンピックの開会式。報道される絵を前提とした、これでもかとばかりの視覚的な演出
が目立った。どうせならCGFですべて作って、番組として完成したビデオを配信するだけにしたら良
いと思う。