東淀川教会20180121礼拝 ナホム3:1-3 マタイ4:12-16 主題「闇を凝視する」司式:金田恆孝

Pocket

このエントリーをはてなブックマークに追加

Nahum ナホム書3章1-3節
わざわいなるかな、血を流す町。その中には偽りと、ぶんどり物が満ち、略奪はやまない。
むちの音がする。車輪のとどろく音が聞える。かける馬があり、走る戦車がある。
騎兵は突撃し、つるぎがきらめき、やりがひらめく。殺される者はおびただしく、しかばねは山をな
す。死体は数限りなく、人々はその死体につまずく。

Matthewマタイ福音書4章12-16節
さて、イエスはヨハネが捕えられたと聞いて、ガリラヤへ退かれた。
そしてナザレを去り、ゼブルンとナフタリとの地方にある海べの町カペナウムに行って住まわれた。
これは預言者イザヤによって言われた言が、成就するためである。
ゼブルンの地、ナフタリの地、海に沿う地方、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤ、
暗黒の中に住んでいる民は大いなる光を見、死の地、死の陰に住んでいる人々に、光がのぼった」。

宣教要旨(闇を凝視する)
預言者ナホム「慰める者」の意。非道なアッシリアに対する非難ではあるが、圧制者への呪いや怒り
ではなく、世界を支配している神の怒りの声を語る。アッシリアの暴虐を通して神の「我々」への怒
りを聴き、世の闇を見つめよ、とナホムは語る。エルコシ人と記されているが、おそらくユダの領内
ではあっても、名もない辺境の、小さな村の出身者であったと思われる。
神が怒っているのは血を流す町。嘘と略奪、食料や資源の独占、
お金や武器で人々を縛り上げ、人間を奴隷化し、抵抗したり反抗する者は投獄されたり殺されて屍は
あちこちに横たわる。
「わざわいなるかな。血を流す町」 抵抗する者を殺すことが「刑罰」「正義」の名の下に堂々と繰
り返される。
「血」は神が吹き込んだいのちそのものをあらわす。
現代社会もまた、「罰」として、「死刑」と称して、人の命、血を流すことを堂々と繰り返している
。文明が作り出した最強の武器である原子力爆弾という「剣」を振りかざし「ボタンを押すぞ!」と
威嚇し合っている現実はアッシリアやイスラエルも同じである。
「 イエスはヨハネが捕えられたと聞いて、ガリラヤへ退かれた。そしてナザレを去り、ゼブルンと
ナフタリとの地方にある海べの町カペナウムに行って住まわれた」
血を流す町であることを非難し、荒ぶる為政者たちや武器を持つ者、収奪を繰り返す者たちをイエ
スより先に「町」を非難したバプテスマのヨハネが捕らえられた、ということは、逆らう者、抵抗する
者たちへの見せしめの逮捕、処刑が近づいていることを意味した。カペナウム、光の差さない町へと
逃れた、ということでしょう。現代であれば、世から見向きされない「フクシマ」「オキナワ」「獄中」と
言い換えられると思います。イエスご自身が「闇の中」へと歩み入り、立たれた、のです。

「この町は、この国は、流血の地ではないのか」この声を聴こうではないか。

○先週の出来事
弾道ミサイルの発射ボタンを握る「巨人ふたり」がにらみ合ったまま、ののしりあっている図はどうみ
ても「コミック・漫画」である。「理性は感情の付属物でしかない」としても、この悪しきコミックな
感情に周囲がどれだけブレーキをかけられるかが問われているのだろう。

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です