東淀川教会20180114礼拝 エレ27:1-6 ヨハネ3:3-5 主題「過ちを認めくびきを負う」司式:金田恆孝

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礼拝worship
前奏prelude~招詞invitation~讃美hymn~主の祈りLord’s Prayer~使徒信条Apostles Creed ~交唱alternately Pray~Bible~讃美hymn~Message~讃美hymn~
聖餐式Holy communion~Thanks hymn~献金 donation~頌栄doxology~祝祷Benediction

1月(招詞invitation)
七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。申命5:14
the seventh day is a sabbath unto Jehovah thy God: in it thou shalt not do any work,

Jeremiahエレミヤ書27章1ー6節
ユダの王ヨシヤの子ゼデキヤが世を治め始めたころ、この言葉が主からエレミヤに臨んだ。すなわち主はこうわたしに仰せられた、「綱と、くびきとを作って、それをあなたの首につけ、エルサレムにいるユダの王ゼデキヤの所に来た使者たちによって、エドムの王、モアブの王、アンモンびとの王、ツロの王、シドンの王に言いおくりなさい。
彼らの主君にこの命を伝えさせなさい、『万軍の主、イスラエルの神はこう仰せられる、あなたがたは主君にこのように告げなければならない。
わたしは大いなる力と伸べた腕とをもって、地と地の上にいる人と獣とをつくった者である。そして心のままに地を人に与える。いまわたしはこのすべての国を、
わたしのしもべであるバビロンの王ネブカデネザルの手に与え、また野の獣をも彼に与えて彼に仕えさせた。

Johnヨハネ福音書3章3-5節
彼らはまたエルサレムにきた。そして、イエスが宮の内を歩いておられると、祭司長、律法学者、長老たちが、みもとにきて言った、「何の権威によってこれらの事をするのですか。だれが、そうする権威を授けたのですか」。「一つだけ尋ねよう。それに答えてほしい。そうしたら、何の権威によって、わたしがこれらの事をするのか、あなたがたに言おう。ヨハネのバプテスマは天からであったか、人からであったか、答えなさい」。

宣教要旨(過ちを認めくびきを負う)
預言者Jeremiahエレミヤは神からのことばに従い、牛や馬をつなぐ横木(くびき)を自分の首にかけ、つながれた奴隷のように町の中を歩き、涙ながらに人々に語りかけた。
「恐ろしいことに、エルサレムはバビロンに包囲されている。神は、私たちの罪のために、私たちを罰するために、バビロンを用いようとしている。何度も警告したのに、誰も聞こうとしなかった。もはや神の罰を逃れることはできない。私たちは、受けるべきものを受けなければならない。むしろ神の前に潔く膝をかがめ、バビロンから受ける苦しみというくびきを担がなければならない。」
いつの間にか軍事力に頼り、王に従い、「敵に勝つことが正義」だと思い込むようになっていたイスラエル。傲慢になり、神の御心に心を傾けることをやめてしまっていた。そのイスラエルを神が罰しようとしている。その罰から逃れることはできない。むしろ進んで過ちを認め、罰を受けようではないか、とエレミヤは奴隷の姿となり人々に訴えた。
1945年 壊滅的な被害を受け敗戦したとき、単に「敵に負けた」のではなく、そもそも我々日本人一人一人があまりに大きな過ちを犯したのだ、戦争に勝つことが正義だとして、「敵」を作り出し、殺戮を繰り返してきたのは罪であり、過ちであったとする告白が生まれ広がった。まさに“神の声”を聴いたのだ。それは「憲法」として,「原爆死没者
慰霊碑」に銘まれた決意として、結実した。『過ちは二度と繰り返しません』という“くびき”を負う生き方を選択した。現代。何が過ちであったか、いかなる罪を犯したのかがあまりにも風化してしまった。イエスの言葉は、「我らイスラエルの過ちを告げ知らせたヨハネの言葉は天からのものだったのか、個人的な言葉だったのか」の問いかけに敵対者たちは答えられなかった。いま、私たちの過ち、愚かさを再び知るために、神に罰せられるために、再び「戦争」に向かおうとしているのだろうか。

○先週の出来事
トランプ大統領の他国に対する「憎悪」発言が止まらない。「理性は感情の付属物」なの
だろうが、付属物がなさ過ぎる。
従軍慰安婦問題であれ、尖閣諸島問題であれ、日本の為政者も理性を失っているように見える。「ヘイト」の同盟軍なのか。

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