逃亡者の夢 ~こんな夢を見た~

「逃亡者の夢 1」

地形も道路もわからぬ古い街のなか 喘ぎながら彷徨っている 表路地 裏路地 さび付いた非常階段のわき

逃げるように すり抜けるように 何度も人とぶつかりながら 怒鳴られながら すみませんを繰り返しながら

どこか 休み安らげる場所を目指しているようだ 昔から そうだったと思いながら 逃げている

ただガキの頃のほうが 逃げていることを 周囲から気づかれないことが多かった らくだったと 思いながら逃げている

警察やら やくざやら 特定の人から追われているのではない

「後ろを振り向いてはならない…」 振り向いて 追う者の正体を確かめたことはない

何から逃げているのかわからないから より苦しいのだ、と

ふと立ち止まって オレは何から逃げているのかと 自分に問いかけ うしろを振り返りそうになったところで 目が覚めた
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『後ろを振り返ってはなりません』 各地に残るこの伝承は逃亡者の心構えを伝えていると感じられる。「後ろ」は振り切らなければならないもの。何から何故逃げているのかを考えたり確かめたりしてはならない。

物心ついたときから、隠れられることの安心感を感じていた。 たとえばそれは絶対に侵入されることのない物置小屋の中であったり、川にかかる幅広な滝の裏側であったり、あるいは下からは見えない樹の上だったり。たとえば使われていない洞穴だったり。
正邪の区別もないまま、ある「秘密」を持てることはたしかに“宝物”であった。支離滅裂な、三次元を超えた空想(狂気)の世界にこころを解き放つこともできた。それも20世紀とともに終わった。“影の世界”は確実に追放されている。

中学生の頃、ようやくわが家に入った白黒テレビで、「逃亡者」をずっと家族で熱心に観ていた。「リチャード・キンブル」という名前は脳裏にしっかりと銘まれている。逃亡し続ける「やるせないこころ」は、父にも母にも私にも共通の、武力・権力・支配や謀略・陰謀などから逃げ続けてきた、日本住民共通に抱いている「トラウマ」ともつながっているように思う。

日本国の住民は、まだ一度も、自分の手で「民主主義」を勝ち取ったことはない。戦争にかり出され、死に直面し、壕に隠れていた異国の女子どもを生きたまま谷底に放り込んだ経験を持つ父親たちも、敗戦とともに故郷に帰り、戦死した仲間の墓をこっそり訪れながらも、国に文句ひとつ言わず、山を開墾して田圃づくりに黙々と励んだ。父が汗水流して開墾した山田は子どもであったわたしにとっても誇りだったが、やがてお国の減反政策によってわずかな保証と引き替えに木を植えることになってしまった。それでもなにひとつ文句も言わずに、時代に流されていった父の姿は、この国の農民の姿そのものだったと思う。生き方全体が「逃亡」の姿勢だと思う。

ブラジルの山岳民族で「ララムリ」と呼ばれる走る民族のドキュメントを見たとき、スペインなどの侵略者と戦うことを避け、支配され奴隷となることを拒み、山に登り、岩稜を走り続ける生活スタイルを守ることが自分や家族や仲間たちを守る方法だったのだということがよく理解できた。日本でも明治5年の修験道禁止令までは、一説によれば、数十万人の人々が世俗の秩序を離れ、山で生きることが出来たという。

21世紀、現代社会は、すべてのひとが“正々堂々”と、表の世界で、死角のないところで、見張られながら、相互監視し合いながら、言葉狩りしながら、紫煙狩りしながら、「影」や「闇」を持たさずに、作らせずに、“絵に描いた餅”のように、生きることを強制されている。監視カメラは至るところに設置され、スマホは常時位置情報とともに接続され、“善意”と書かれたお面(ペルソナ)をつけた大人たちが、保護のためと称し、隠れようとする子どもたちやおとなたちを追い回している。加害性は無くとも、ヘルメットやシートベルトによって自身の体を「社会秩序」に縛り付けることに抵抗感を覚えず、それが最低限のマナーとなっている。影を持てなくなったこどもたちは、透明な「トランスワールド」を嗅ぎ当てて逃亡していく。

子どもたちはかなり以前から逃亡を開始している。おとなたちとの、心を通わせる「ことば」を拒否し始めている。おとなたちの交わす肉声や言葉使いに反応できず、耳を塞ぎ、ウエブで流れる「マシン合成音声」や「初音ミク」の歌声に心が“共感”できる。それは、肉体を持った異性になんら関心を持てず、フィギュアで作られた異性やキャラクターにのみ心がときめくことと同じ道筋である。彼らと心を通わせるため、その「トランスワールド」に歩み出す、あるいは、あちらからの「信号」を受け、交信できるちからが、見守ろうとするおとなたちに求められている。

 

 

東淀川教会 20180520礼拝 列王Ⅱ2:19 マルコ9:49-50 主題「火で塩付けされた人間」宣教:金田恆孝

5月の聖句
信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。ヘブル11:1
Now faith is assurance of things hoped for, a conviction of things not seen.

旧約聖書 
「そのとき、主はソドムとゴモラの上に、硫黄の火を天の主のところから降らせ、これらの町々と低地全体と、その町々の
住民と、その地の植物をみな滅ぼされた。ロトのうしろにいた彼の妻は、振り返ったので、塩の柱になってしまった。」
(創世記 19:24-26)
「あなたの穀物のささげ物にはすべて、塩で味をつけなければならない」(レビ記 2:13)
また水の悪い土地で「この町は住むのには良いのですが、水が悪く、この土地は流産が多いのです。」「新しい皿に塩を盛って、私のところにそれをもって来なさい」水の源のところに行って、塩をそこに投げ込んで言った。「主はこう仰せられる。『わたしはこの水をいやした。ここからは、もう、死も流産もおこらない。』 こうして、水は良くなり、今日に至っている。」(列王記 II 2:19-22)
「あなたの生まれは、あなたが生まれた日に、水で洗ってきよめる者もなく、へその緒を切る者もなく、塩でこする者もなく、布で包んでくれる者もいなかった」(エゼキエル書 16:4)

新約聖書 Mark マルコ福音書9:49-50
For every one shall be salted with fire.
人はすべて火で塩づけられねばならない。
Salt is good: but if the salt have lost its saltness, wherewith will ye season it? Have salt in yourselves, and be at peace one with another.塩はよいものである。しかし、もしその塩の味がぬけたら、何によってその味が取りもどされようか。あなたがた自身の内に塩を持ちなさい。そして、互に和らぎなさい」。

宣教題「火で塩付けされた人間」「潮(塩)垢離」(しおごり)といって海水を浴びて身を清めたり、海水を沸した「塩湯」(えんとう)が、病気治療や無病息災のために用いられるといった風習は日本各地にもあった。
塩気が食べ物の腐敗を防ぐことは古代より知られており、貝殻をそのまま海水で沸騰させて食べるなど、食べ物の味付けの最初は塩だったにちがいない。体の中の筋肉や神経細胞が働くためにも塩分は不可欠。空気・水・塩は古代より人間が「生かされ守られ支えられている」ことを実感する“象徴”だった。
「地の塩」「世の光」はひとつにつながったイエスの言葉として、「キリスト者のプライド」を支えるものとして読まれることが多いと思われる。キリストに招かれたあなた方は地の塩であり世の光なのだ、という読み方。が、マルコ福音書はマタイやルカのそれとはやや違うニュアンスでイエスの言葉を伝えているように思われる。「人はすべて火で塩づけられねばならない」とは、もともと楽園を追放され、この世の荒野で苦労して生き、危険を顧みず子を産み育て死んでいく人間は、火で塩付けされ守られている、という人間理解が根本にあったのではないか。

「塩が水の悪い地を清め、生き物を守る」列王Ⅱ2:19の記事や、「永遠の塩の契約」民数18:19が指し示しているのは、塩は人間への祝福であると同時に、
塩の働きを保つことが人間の神との約束であり、この普遍的に神より与えられている「塩の役割」を決して失ってはならない、との含意がそこにあると思われる。
世の光・地の塩を一つのつながりで編集し理解しようとする読み方は、迫害されるキリスト者を励まし強めるものだったに違いない。が、イエスが語った塩にまつわる話は、それ自体単独の話だったと思われる。
イエスの「7の70倍許せ」の無茶っぽい話も、それを「許す」という人間の意思の課題としてではなく、“塩の働きを保て”の言葉として理解すると、「互いに和らぎなさい」のことばとともに新たに私たちに今日の課題として迫ってくる。

応唱 我らの祈り(Our pray)
(司会者)
全ての始まりΑアルファであり 終わりΩオメガであり 唯一onlyであり 全てallであり 今の主であり永遠の主であり 神の息から始まり神に帰る「いのち」の主であり
全ての闇を照らす まことの光である神さま
(会衆)
『聖なる 聖なる 聖なる主よ』 ×3回 (holy)

(司会者)
聖母マリアを通して我らに与えられた救い主キリスト・イエス その十字架の元に集うことができたことを感謝致します
(会衆)
『主の恩寵(おんちょう)に感謝』×3回 (grace)

(司会者)
私は「言葉」と「思い」と「行い」によって多くの罪を犯し 更に心を頑なにし 傲慢であったこと そして 自分自身を愛する如く 隣人を愛せなかったことを告白致します
(会衆)
『我が罪を赦し給え』×3 (forgive my sins)

(司会者)
主の求める生け贄は打ち砕かれたこころ 主は悔い改め 帰ってきた放蕩息子を受け入れ あなたの御国を思い出した盗賊を捨てられず 罪を告白した者を友とし
汚れた心を洗い 新しい霊を注いでくださいました 主のあわれみに感謝します
(会衆)
『主よあわれみ給え キリストよ あわれみ給え』×3回(Mercy)

(司会者)
いと高きところに栄光神にあれ 地にある神の民に平和あれ 我らの主 天にいます主 全能の父なる神よ  神の一人子 救い主キリスト・イエスよ
神の御ちからであり 神の息である聖霊よ あなたを崇め あなたに感謝し 讃美します
(会衆)
『グローリア グローリア グローリア』 (gloria)×3回 Amen Amen Amen

礼拝終了

先週の出来事
オウムによるサリン事件実行犯への処刑が迫っている。政局が混迷しているときだからこそ、為政者たちは、悪人征伐の執行者として民の前でその委託された威信をあらわそうとする。
ヒトラーであろうと、アサハラであろうと、「殺人」を「刑罰」としてはならない。

20180527東淀川教会 礼拝 Genesis創世記4:9-12 MK4:21-22 主題「ともしびの主イエス」 宣教:金田恆孝 

5月の聖句信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。

ヘブル11:1Now faith is assurance of things hoped for, a conviction of things not seen.

宣教題「ともしびの主イエス」candle flame旧約聖書 創世記Genesis4:9-12And Jehovah said unto Cain, Where is Abel thy brother? And he said, I know not: am I my brother’s keeper?And now cursed art thou from the ground, which hath opened its mouth to receive thy brother’s blood from thy hand;  when thou tillest the ground, it shall not henceforth yield unto thee its strength; a fugitive and a wanderer shalt thou be in the earth.

主はカインに言われた、「弟アベルは、どこにいますか」。カインは答えた、「知りません。わたしが弟の番人でしょうか」。主は言われた、「あなたは何をしたのです。あなたの弟の血の声が土の中からわたしに叫んでいます。今あなたはのろわれてこの土地を離れなければなりません。この土地が口をあけて、あなたの手から弟の血を受けたからです。あなたが土地を耕しても、土地は、もはやあなたのために実を結びません。あなたは地上の放浪者となるでしょう」。

新約聖書 マルコ福音書Mark 4:21-22And he said unto them, Is the lamp brought to be put under the bushel, or under the bed, and not to be put on the stand? For there is nothing hid, save that it should be manifested; neither was anything made secret, but that it should come to light.

また彼らに言われた、「ますの下や寝台の下に置くために、あかりを持ってくることがあろうか。燭台の上に置くためではないか。なんでも、隠されているもので、現れないものはなく、秘密にされているもので、明るみに出ないものはない。宣教題「ともしびとしてのイエス」ナザレのイエスと呼ばれた男の活動は、ユダヤ教各派からも神殿政治からも王からも危険人物として警戒されていたことは間違いない。そのもとに集った人々、弟子達からイエスに対し、敵対する人々からの攻撃を避けるため、危険の度合いを減らすため、更に、一緒にいる人々のグループを守るための提言はかなりなされていたはずである。そのために、イエスの行動・言葉を激しく諫めた弟子もいた。「地の塩、世の光」として、イエスに従っている人々に向かって語られたイエスの言葉として、或いはイエスに従う者たちのアイデンティティ・プライドを確かめる言葉として、まとめて語られることが多い箇所だが、やはり、マルコ福音書が伝える如く、いつでも消えそうな、でも隠れることのできない「ともしび」の寓話は、危険から隠れて活動しようとする弟子達に向けられたイエス自身の言葉として理解するのがもっとも自然だと思われる。自らの信念によってではなく、ただ神のことばによってのみ用いられることにのみ専念していたイエスにとって、いつ吹き消されるかわからない「ろうそくの灯」のような存在であれ、隠れること、逃げ続けることはありえなかったに違いない。「風前のともしび」であればこそ、闇の中で輝かさなければならなかった。「神の前でなにものも隠れることはできない」という確信は、創世記での最初の殺人、兄カインが弟アベルをこっそり殺した事件でも宣言されている。弟の殺害を隠そうとするカインに対し、「アベルの血を受け取った大地が兄カインの罪を証言している」という主のことばにそれは如実にあらわされている。イエスがご自身とその働きを「風前のともしび」に譬えられたことは、「弱さ」しか誇るものがない私たちを強めてくださるイエスの生きた「ことば」となるから不思議である。

○先週の出来事責任は私にある、と言いながら「私は悪事を指示していない」、選手がかってに忖度しただけ、と無罪を主張する日大アメフトの主将も、私は指示していない、役人が勝手に忖度しただけと言い続けるどこかの国の首相もまったく同じ「漫画」にしか見えない。

東淀川教会 20180513礼拝 民数20:9-12 マタイ5:10-12 主題「たったひとことで」宣教:金田恆孝

5月の聖句
信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。ヘブル11:1
Now faith is assurance of things hoped for, a conviction of things not seen.

旧約聖書 Numbers 民数記20章9-12節
モーセは命じられたように主の前にあるつえを取った。
モーセはアロンと共に会衆を岩の前に集めて彼らに言った、「そむく人たちよ、聞きなさい。われわれがあなたがたのためにこの岩から水を出さなければならないのであろうか」。
モーセは手をあげ、つえで岩を二度打つと、水がたくさんわき出たので、会衆とその家畜はともに飲んだ。
申命記Deuteronomy 32章49-51節
「あなたはエリコに対するモアブの地にあるアバリム山すなわちネボ山に登り、わたしがイスラエルの人々に与えて獲させるカナンの地を見渡たせ。
あなたは登って行くその山で死に、あなたの民に連なるであろう。あなたの兄弟アロンがホル山で死んでその民に連なったようになるであろう。
これはあなたがたがチンの荒野にあるメリバテ・カデシの水のほとりで、イスラエルの人々のうちでわたしにそむき、イスラエルの人々のうちでわたしを聖なるものとして敬わなかったからである。
新約聖書  マタイによる福音書5章10-12節
5-10 Blessed are they that have been persecuted for righteousness’ sake: for theirs is the kingdom of heaven. 義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
5-11 Blessed are ye when men shall reproach you, and persecute you, and say all manner of evil against you falsely, for my sake.
わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。
5-12 Rejoice, and be exceeding glad: for great is your reward in heaven: for so persecuted they the prophets that were before you.
喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。

応唱 我らの祈り(Our pray)
(司会者)
全ての始まりΑアルファであり 終わりΩオメガであり 唯一onlyであり 全てallであり 今の主であり永遠の主であり 神の息から始まり神に帰る「いのち」の主であり
全ての闇を照らす まことの光である神さま
(会衆)
『聖なる 聖なる 聖なる主よ』 ×3回 (holy)

(司会者)
聖母マリアを通して我らに与えられた救い主キリスト・イエス その十字架の元に集うことができたことを感謝致します
(会衆)
『主の恩寵(おんちょう)に感謝』×3回 (grace)

(司会者)
私は「言葉」と「思い」と「行い」によって多くの罪を犯し 更に心を頑なにし 傲慢であったこと そして 自分自身を愛する如く 隣人を愛せなかったことを告白致します
(会衆)
『我が罪を赦し給え』×3 (forgive my sins)

(司会者)
主の求める生け贄は打ち砕かれたこころ 主は悔い改め 帰ってきた放蕩息子を受け入れ あなたの御国を思い出した盗賊を捨てられず 罪を告白した者を友とし
汚れた心を洗い 新しい霊を注いでくださいました 主のあわれみに感謝します
(会衆)
『主よあわれみ給え キリストよ あわれみ給え』×3回(Mercy)

(司会者)
いと高きところに栄光神にあれ 地にある神の民に平和あれ 我らの主 天にいます主 全能の父なる神よ  神の一人子 救い主キリスト・イエスよ
神の御ちからであり 神の息である聖霊よ あなたを崇め あなたに感謝し 讃美します
(会衆)
『グローリア グローリア グローリア』 (gloria)×3回 Amen Amen Amen

 

宣教要旨「たった一言で」
責められ、わずかな不備をなじられ、満座の場で嘲笑され、闇から石を投げられ、最愛の者をも迫害される…しかもそれが、身と心を注ぎだし、報いを望まず支えてきた者たちからの仕打ちであったなら、誰がその心ない仕打ち・攻撃に喜んでいられようか…。それでも主が彼らを支えよ、と命じられるなら、「なんでこんな奴らのために仕えねばならないのか!」とぼやくのは人間として当然ではないか…
神に呼び出されてイスラエル人をエジプトから導き出したのに、人々は食料や水が少ないことでモーセを責め続けた。ツインの荒野、メリバテガシュで主に言われるまま岩を叩き、水を出した。 「Hear now, ye rebels; shall we bring you forth water out of this rock?」「叛徒よ、何でおまえ達のために岩から水を湧き出させなければならないのか!」と言ってから岩を叩いたと。この時『聖なる神があなた方や動物たちのために与えた水である。』と言わなかったことを神から責められ、ネボ山からカナンの地を望みながら、モーセはカナンの地に入ることを許されず、ここで死ぬことを知らされる。
この世の強いちからにおもねず、神の国を求める人々が迫害されるときは、喜び喜べ、とイエスは言う。この世での迫害は困ったものではあるが、それ以上に、神の国の「義」が迫っているからだ、神の義が明らかになっているからだ、とイエスは言う。
核爆弾や最新兵器で相手を脅しながら軍事国家の「つばぜり合い」が進む中、日本においても「棄民政策」がますます進行し、民への「家畜化政策」も進んでいる。国家の悪政をあげつらう前に、「神の国」の義が今、立ち現れていることを、どう喜び、世にどう明らかにしていくべきなのだろうか。

礼拝終了

先週の出来事
◎北朝鮮に制裁ばかりを叫び、対話の姿勢を示さない日本に対し、朝鮮中央通信は「拉致は解決済み」と報じた。日本のリーダーは、振り上げた拳の下ろし方がわからなくなっている?

東淀川教会 20180506礼拝 イザヤ書55:1-3マタイ5:1-6 主題「神の国への招き」司式:金田恆孝

5月の聖句
信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。ヘブル11:1
Now faith is assurance of things hoped for, a conviction of things not seen.

旧約聖書 イザヤ書55章1-3節
「さあ、かわいている者はみな水にきたれ。金のない者もきたれ。来て買い求めて食べよ。あなたがたは来て、金を出さずに、ただでぶどう酒と乳とを買い求めよ。 なぜ、あなたがたは、かてにもならぬもののために金を費し、飽きることもできぬもののために労するのか。わたしによく聞き従え。そうすれば、良い物を食べることができ、最も豊かな食物で、自分を楽しませることができる。耳を傾け、わたしにきて聞け。そうすれば、あなたがたは生きることができる。わたしは、あなたがたと、とこしえの契約を立てて、ダビデに約束した変らない確かな恵みを与える。

新約聖書 マタイ福音書5章1-6節
イエスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた。そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた。「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。

応唱 我らの祈り(Our pray)
(司会者)
全ての始まりΑアルファであり 終わりΩオメガであり 唯一onlyであり 全てallであり 今の主であり永遠の主であり 神の息から始まり神に帰る「いのち」の主であり
全ての闇を照らす まことの光である神さま
(会衆)
『聖なる 聖なる 聖なる主よ』 ×3回 (holy)

(司会者)
聖母マリアを通して我らに与えられた救い主キリスト・イエス その十字架の元に集うことができたことを感謝致します
(会衆)
『主の恩寵(おんちょう)に感謝』×3回 (grace)

(司会者)
私は「言葉」と「思い」と「行い」によって多くの罪を犯し 更に心を頑なにし 傲慢であったこと そして 自分自身を愛する如く 隣人を愛せなかったことを告白致します
(会衆)
『我が罪を赦し給え』×3 (forgive my sins)

(司会者)
主の求める生け贄は打ち砕かれたこころ 主は悔い改め 帰ってきた放蕩息子を受け入れ あなたの御国を思い出した盗賊を捨てられず 罪を告白した者を友とし
汚れた心を洗い 新しい霊を注いでくださいました 主のあわれみに感謝します
(会衆)
『主よあわれみ給え キリストよ あわれみ給え』×3回(Mercy)

(司会者)
いと高きところに栄光神にあれ 地にある神の民に平和あれ 我らの主 天にいます主 全能の父なる神よ  神の一人子 救い主キリスト・イエスよ
神の御ちからであり 神の息である聖霊よ あなたを崇め あなたに感謝し 讃美します
(会衆)
『グローリア グローリア グローリア』 (gloria)×3回 Amen Amen Amen

 

宣教要旨「神の国への招き」
もともと、そもそも神が造った世界は「はなはだ良かった」という世界だった。その恵みからもれるものはひとつもなかった。全ての人々を食べさせ、互いに活かし合い、安らかに眠ることのできる自然ははじめからあった。

人間が勝手に境界線を設け、国を作って戦争をし、
武力やお金や権力と結びついた「国家」「宗教」がどんどん人々を支配し、「強い者」「弱い者」を作り出していった。
疎外された者、利用されるしかない弱者たち、救いを求める者たちに神は語りかけられる。

「さあ、渇いている者はみな水にきたれ。金のない者もきたれ。来て買い求めて食べよ。あなたがたは来て、金を出さずに、ただでぶどう酒と乳とを買い求めよ。 なぜ、あなたがたは、糧にもならぬもののために金を費し、飽きることもできぬもののために労するのか。」
なんてすごいメッセージなんだ。なんて目を醒ますメッセージなんだ。なんて確かな希望なんだ。

イザヤのメッセージと主イエスの「貧しい者は幸い」の意味が重なって伝わってくる。神が与えたもう恵み、豊かさは、現代社会、この世の富や経済とは「逆立ち」、真逆の関係となる。

主イエスの語る「幸い」こそが、時を超えた、いつの時代でも目指すことの出来る、見失いたくはない、地上と天上を超えた、誰にとっても大事な「理想」だというのが聖書のメッセージなのだ。

礼拝終了

先週の出来事
◎フィリピンのマニラ湾沿いに昨年12月に設置された旧日本軍の従軍慰安婦問題を象徴する女性像が、撤去されていた。日本側からのアプローチによるものだが、加害者意識のない「愚かなる者」等が、あまりに愚かなことをする。

 

 

東淀川教会20180429礼拝 出エ9:22-24マルコ3:14-19 主題「覚醒させる雷の声」司式:金田恆孝

礼拝worship
前奏prelude~招詞invitation~讃美hymn~主の祈りLord’s Prayer~使徒信条Apostles Creed ~交唱alternately Pray~Bible~讃美hymn~Message~讃美hymn~
聖餐式Holy communion~Thanks hymn~献金 donation~頌栄doxology~祝祷Benediction

4月の聖句(招詞invitation)
イエス・キリストは言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」ヨハネ20:21
Jesus therefore said to them again, Peace be unto you: as the Father hath sent me, even so send I you.

旧約聖書 Exodus出エジプト記9章22-24
主はモーセに言われた、「あなたの手を天にむかってさし伸べ、エジプトの全国にわたって、エジプトの地にいる人と獣と畑のすべての青物の上に雹を降らせなさい」。
モーセが天にむかってつえをさし伸べると、主は雷と雹をおくられ、火は地にむかって、はせ下った。こうして主は、雹をエジプトの地に降らされた。そして雹が降り、雹の間に火がひらめき渡った。雹は恐ろしく大きく、エジプト全国には、国をなしてこのかた、かつてないものであった。

新約聖書 Markマルコ福音書3章14-19
そこで十二人をお立てになった。彼らを自分のそばに置くためであり、さらに宣教につかわし、また悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。こうして、この十二人をお立てになった。そしてシモンにペテロという名をつけ、またゼベダイの子ヤコブと、ヤコブの兄弟ヨハネ、彼らにはボアネルゲ、すなわち、雷の子という名をつけられた。つぎにアンデレ、ピリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルパヨの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、それからイスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである。

宣教題「覚醒させる雷の声」

エジプトで奴隷状態でありながら、「支配と服従」が長く続き、物質的な豊かさにあまえ、奴隷である自分たちを変えようとしなかったヘブライ人の彼らにモーセが遣わされた。
「モーセが天にむかってつえをさし伸べると、主は雷と雹をおくられ、火は地にむかって、はせ下った。こうして主は、雹をエジプトの地に降らされた。そして雹が降り、雹の間に火がひらめき渡った。雹は恐ろしく大きく、エジプト全国には、国をなしてこのかた、かつてないものであった」と。雷と雹はまさに「まどろみの煉獄」の中にいる彼らに「衝撃と覚醒」をもたらすものだったと思われます。

イエスが、中心的に一緒に働く仲間を募った場面です。ギリシャ語でペテロ、ヘブライ語でシモンをアラム語でケファ(岩)と呼んだ、とあります。神に向かって岩の上に立つ姿勢、或は、自分たちの働きを、さまよう人々を支える「岩」で表現し、弟子たちに伝えたとも感じられます。
更に、ヤコブと兄弟のヨハネをボアネルゲ、雷の子らと呼ばれた、とあります。雷、雷鳴は、神からの大声、というイメージがありました。地上の岩をも震撼させ、人々を覚醒させる激しいパワーを示していると思われます。

イエスが、「悔い改めよ、神の国は近づいた」と語るとき、神の国の接近とは、例えば「夜明け」のような、穏やかな希望に満ちたイメージではなく、むしろ、雷のような、圧倒的な、岩を砕くような恐ろしい力が地上に落ちて鳴り響く、すべての被造物が震撼し覚醒するようなイメージで語られたのではなかったか。だから、大きな災難を覚悟しなければならない「岩・雷」だったのではないか。

現代日本社会もまさに「まどろみの煉獄」のまっただ中と表現されていいと思われる。自分たち自身が変わろうとしない、変えようとしない民に向かって雷や雹が雷鳴とともに下ってくるとき、「変わろうとしない」我々であることそれ自体を「悔い改め」なければならない、という「今の神からのメッセージ」をイエスから受け取りたい。

先週の出来事
◎北朝鮮と韓国の軍事境界線を、両代表が手を取り合って双方向に超えた。単なる政治的なパフォーマンスに止まらず、双方の人々が自由に往来し、境界線が単なる記念物になるという「瓢箪から駒」が実現して欲しいと祈る。