東淀川教会 20180520礼拝 列王Ⅱ2:19 マルコ9:49-50 主題「火で塩付けされた人間」宣教:金田恆孝

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5月の聖句
信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。ヘブル11:1
Now faith is assurance of things hoped for, a conviction of things not seen.

旧約聖書 
「そのとき、主はソドムとゴモラの上に、硫黄の火を天の主のところから降らせ、これらの町々と低地全体と、その町々の
住民と、その地の植物をみな滅ぼされた。ロトのうしろにいた彼の妻は、振り返ったので、塩の柱になってしまった。」
(創世記 19:24-26)
「あなたの穀物のささげ物にはすべて、塩で味をつけなければならない」(レビ記 2:13)
また水の悪い土地で「この町は住むのには良いのですが、水が悪く、この土地は流産が多いのです。」「新しい皿に塩を盛って、私のところにそれをもって来なさい」水の源のところに行って、塩をそこに投げ込んで言った。「主はこう仰せられる。『わたしはこの水をいやした。ここからは、もう、死も流産もおこらない。』 こうして、水は良くなり、今日に至っている。」(列王記 II 2:19-22)
「あなたの生まれは、あなたが生まれた日に、水で洗ってきよめる者もなく、へその緒を切る者もなく、塩でこする者もなく、布で包んでくれる者もいなかった」(エゼキエル書 16:4)

新約聖書 Mark マルコ福音書9:49-50
For every one shall be salted with fire.
人はすべて火で塩づけられねばならない。
Salt is good: but if the salt have lost its saltness, wherewith will ye season it? Have salt in yourselves, and be at peace one with another.塩はよいものである。しかし、もしその塩の味がぬけたら、何によってその味が取りもどされようか。あなたがた自身の内に塩を持ちなさい。そして、互に和らぎなさい」。

宣教題「火で塩付けされた人間」「潮(塩)垢離」(しおごり)といって海水を浴びて身を清めたり、海水を沸した「塩湯」(えんとう)が、病気治療や無病息災のために用いられるといった風習は日本各地にもあった。
塩気が食べ物の腐敗を防ぐことは古代より知られており、貝殻をそのまま海水で沸騰させて食べるなど、食べ物の味付けの最初は塩だったにちがいない。体の中の筋肉や神経細胞が働くためにも塩分は不可欠。空気・水・塩は古代より人間が「生かされ守られ支えられている」ことを実感する“象徴”だった。
「地の塩」「世の光」はひとつにつながったイエスの言葉として、「キリスト者のプライド」を支えるものとして読まれることが多いと思われる。キリストに招かれたあなた方は地の塩であり世の光なのだ、という読み方。が、マルコ福音書はマタイやルカのそれとはやや違うニュアンスでイエスの言葉を伝えているように思われる。「人はすべて火で塩づけられねばならない」とは、もともと楽園を追放され、この世の荒野で苦労して生き、危険を顧みず子を産み育て死んでいく人間は、火で塩付けされ守られている、という人間理解が根本にあったのではないか。

「塩が水の悪い地を清め、生き物を守る」列王Ⅱ2:19の記事や、「永遠の塩の契約」民数18:19が指し示しているのは、塩は人間への祝福であると同時に、
塩の働きを保つことが人間の神との約束であり、この普遍的に神より与えられている「塩の役割」を決して失ってはならない、との含意がそこにあると思われる。
世の光・地の塩を一つのつながりで編集し理解しようとする読み方は、迫害されるキリスト者を励まし強めるものだったに違いない。が、イエスが語った塩にまつわる話は、それ自体単独の話だったと思われる。
イエスの「7の70倍許せ」の無茶っぽい話も、それを「許す」という人間の意思の課題としてではなく、“塩の働きを保て”の言葉として理解すると、「互いに和らぎなさい」のことばとともに新たに私たちに今日の課題として迫ってくる。

応唱 我らの祈り(Our pray)
(司会者)
全ての始まりΑアルファであり 終わりΩオメガであり 唯一onlyであり 全てallであり 今の主であり永遠の主であり 神の息から始まり神に帰る「いのち」の主であり
全ての闇を照らす まことの光である神さま
(会衆)
『聖なる 聖なる 聖なる主よ』 ×3回 (holy)

(司会者)
聖母マリアを通して我らに与えられた救い主キリスト・イエス その十字架の元に集うことができたことを感謝致します
(会衆)
『主の恩寵(おんちょう)に感謝』×3回 (grace)

(司会者)
私は「言葉」と「思い」と「行い」によって多くの罪を犯し 更に心を頑なにし 傲慢であったこと そして 自分自身を愛する如く 隣人を愛せなかったことを告白致します
(会衆)
『我が罪を赦し給え』×3 (forgive my sins)

(司会者)
主の求める生け贄は打ち砕かれたこころ 主は悔い改め 帰ってきた放蕩息子を受け入れ あなたの御国を思い出した盗賊を捨てられず 罪を告白した者を友とし
汚れた心を洗い 新しい霊を注いでくださいました 主のあわれみに感謝します
(会衆)
『主よあわれみ給え キリストよ あわれみ給え』×3回(Mercy)

(司会者)
いと高きところに栄光神にあれ 地にある神の民に平和あれ 我らの主 天にいます主 全能の父なる神よ  神の一人子 救い主キリスト・イエスよ
神の御ちからであり 神の息である聖霊よ あなたを崇め あなたに感謝し 讃美します
(会衆)
『グローリア グローリア グローリア』 (gloria)×3回 Amen Amen Amen

礼拝終了

先週の出来事
オウムによるサリン事件実行犯への処刑が迫っている。政局が混迷しているときだからこそ、為政者たちは、悪人征伐の執行者として民の前でその委託された威信をあらわそうとする。
ヒトラーであろうと、アサハラであろうと、「殺人」を「刑罰」としてはならない。

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