東淀川教会20181021 礼拝 詩編5:1-2 マルコ1:40-45 司式 牧仕 金田恆孝


旧約聖書 詩篇5章1-2節
5:1主よ、わたしの言葉に耳を傾け、わたしの嘆きに、み心をとめてください。
5:2わが王、わが神よ、わたしの叫びの声をお聞きください。
わたしはあなたに祈っています。
Give ear to my words, O Lord, consider my meditation.
Hearken unto the voice of my cry, my King, and my God: for unto thee will I pray.

新約聖書 マルコ福音書 Mark 1.40-45
1:40ひとりのらい病人が、イエスのところに願いにきて、ひざまずいて言った、「みこころでしたら、きよめていただけるのですが」。 1:41イエスは深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわり、「そうしてあげよう、きよくなれ」と言われた。 1:42すると、らい病が直ちに去って、その人はきよくなった。 1:43イエスは彼をきびしく戒めて、すぐにそこを去らせ、こう言い聞かせられた、 1:44「何も人に話さないように、注意しなさい。ただ行って、自分のからだを祭司に見せ、それから、モーセが命じた物をあなたのきよめのためにささげて、人々に証明しなさい」。 1:45しかし、彼は出て行って、自分の身に起ったことを盛んに語り、また言いひろめはじめたので、イエスはもはや表立っては町に、はいることができなくなり、外の寂しい所にとどまっておられた。しかし、人々は方々から、イエスのところにぞくぞくと集まってきた。
40 A man with leprosy[a] came to him and begged him on his knees, “If you are willing, you can make me clean.”
41 Jesus was indignant.[b] He reached out his hand and touched the man. “I am willing,” he said. “Be clean!” 42 Immediately the leprosy left him and he was cleansed.

宣教題「イエスの執り成し(とりなし)」
 重い皮膚病を(おそらく長い長い間)患っていた者の言葉。この「みこころでしたら」は、誰の心を指している?
 イエスに向かって、「イエスよ、あなたががわたしに“清くなってほしい”と願ってくださるのなら、わたしは清まるはずです」という意味なのだろうか。

 ここで使われているギリシャ語の解釈とか、該当するヘブライ語、ないしはアラム語から、皮膚病の者とイエスがどのような対話をしたかを細やかに調べていく方法は、学術的な一つの方法なのだろうが、山の一部の樹を丹念に調べ上げても、山と山の木々全体を調べたことにはならない。むしろ、樹にこだわることにより、山全体が見えなくなる、という事態が起こる可能性が大きいのではないか。むしろ、山全体から、ここで彼は、イエスの「みこころ」ではなく、「神のみこころ」を求めていると思われる。

神さまの御心に依ってこの苦しい病、人々から忌み嫌われる病がもたらされたのなら、肉体の重荷、差別の重荷を負わせたのなら、同じく神さまの御心により、神の御手のわざにより、この皮膚病が清まる、重荷を回復させ、差別していた者たちが自分たちの行いを恥じる、それがみこころではないか。イエスよ、あなたが私の祈りを神のもとに届けてくださり、その神の御手のわざをあなたに代行して(執り成して)ほしい、という意味だったと感じられるのです。
この「私」を用いて、神が御手のわざを為された。重荷を負わせる・重荷を担わせる、重荷を取り除く・回復させる、その全体を通して、神さまとの対話が続きます。こころの中で起こる神との激しい、辛辣な対話、取っ組み合い(イスラエル)、激しい感情を乗り越え御手のわざについて思い巡らしてこそ、悟りが与えられます。この理解。悟りにより、自分がこの世に命を吹き込まれ、運命を与えられ、今日までを生かされてきたことの意味、肉体が弱り滅んでいくこと、天に還っていく日が近づくことの意味が深められていくんだと思うのです。
「3.死ぬるも死の おわりならず 生けるもいのちの またきならず」  讃美歌478番

○先週の出来事
「アメリカ・ファースト」を叫ぶトランプ大統領。まさに国体第一、本音で言えば民主主義は邪魔、ということ。日本もまた国家(国体)第一主義にひた走っている。やはり民主主義は、敗戦したがゆえに受け入れざるを得なかった借り物で、国民がその手で勝ち取ったものではなかった。民主主義はついに根付けなかったのだろう。民主主義って何?の問いに、じぶんのことばで答得られる人間が、わたしを含め、どれほどいるのだろうか。


東淀川教会20181014 礼拝 列王記上18:25-28 マタイ7:15-16 宣教題「羊の皮を纏った狼」 司式 金田恆孝

旧約聖書 kings 1 列王記上18章25-28節
18-25 And Elijah said unto the prophets of Baal, Choose you one bullock for yourselves, and dress it first; for ye are many; and call on the name of your god, but put no fire under.
18-26 And they took the bullock which was given them, and they dressed it, and called on the name of Baal from morning even until noon, saying, O Baal, hear us. But there was no voice, nor any that answered.
And they leaped about the altar which was made.
18-27 And it came to pass at noon, that Elijah mocked them, and said, Cry aloud; for he is a god: either he is musing, or he is gone aside, or he is on a journey, or peradventure he sleepeth and must be awaked.
18-28 And they cried aloud, and cut themselves after their manner with knives and lances, till the blood gushed out upon them.

そこでエリヤはバアルの預言者たちに言った、「あなたがたは大ぜいだから初めに一頭の牛を選んで、それを整え、あなたがたの神の名を呼びなさい。ただし火をつけてはなりません」。
彼らは与えられた牛を取って整え、朝から昼までバアルの名を呼んで「バアルよ、答えてください」と言った。しかしなんの声もなく、また答える者もなかったので、彼らは自分たちの造った祭壇のまわりに踊った。昼になってエリヤは彼らをあざけって言った、「彼は神だから、大声をあげて呼びなさい。彼は考えにふけっているのか、よそへ行ったのか、旅に出たのか、または眠っていて起されなければならないのか」。
そこで彼らは大声に呼ばわり、彼らのならわしに従って、刀とやりで身を傷つけ、血をその身に流すに至った。

宣教題「羊の皮をまとった狼たちよ」
『羊の皮を纏った狼たちに気をつけなさい』とは、イエスが常々語っていたことです。「神様に従順な、優しい、純潔な指導者」面をしたお偉い人に、けっして気を許したり阿ったりすべきではない。「みなさんのために、みなさんを正しい方向に導くために、働いている」なんて言葉も決して信じちゃだめだよ、というイエスのメッセージなのですが、マタイ福音書の編集者も、ルカ福音書の編集者も、“善い人と悪い人との見分け方”みたいな話の中にこの鋭いイエスのメッセージを紛れ込ませてしまっていると思われます。l“善い人はいない 神を求める人は誰もいない”詩篇14 が現実です。
預言者エリヤが対決したのは、安全安心発展の象徴(偶像)を拠り所にするバール信仰(アハブ王の妃イゼベルがフェニキアから持ち込んで流布させた)でした。アハブ王にとって、信仰とは、自らの権力と権威と徴税による富とを保証する“お守り”でした。
バール教のご利益信仰VS神の業の対決を諮ったエリヤの行いは、退路を断った、文字通り命がけの「かけ」でした。その結果、演出されたバール信仰の“熱狂”により依存させられていた人々が、熱狂(カルト)から目覚め始めました。これが北イスラエル王国の滅亡につながったのです。
演出された熱狂がどれほど恐ろしいものかは、ナチスドイツ、日本帝国の歴史を少し学んだだけでも明らかです。
現代社会もまた、壊れたバベルの塔(国体)を再構築しようと目論む人々が、お金や軍事力や経済力を偶像とするバール信仰に人々を依存させようとし、その最前線で働くのが「羊の皮を装った狼たち」なのでしょう。社会的弱者の前に立ちはだかる役人たちも、国家資格を持つ専門家たちも、羊の皮をかぶっているように見えます。気を付けましょう。

○先週の出来事
日本は北朝鮮からのミサイルが怖いという。韓国は日本から輸入される放射能で汚染された食品が怖いという。
怖くない、怖くない!だから食べて応援しよう!などと宣伝しながら、世界的な安全基準をかってに引き上げた為政者たち。そしてそこに群がる依存者たちのほうがはるかに怖いと思う。

東淀川教会20181007 礼拝 箴言16:1-3 マルコ4:24-25 宣教「量る秤は誰の手に」

旧約聖書 箴言Proverbs 16篇1-3節 11節
16-1 The plans of the heart belong to man; But the answer of the tongue is from Jehovah.
All the ways of a man are clean in his own eyes; But Jehovah weigheth the spirits.
Commit thy works unto Jehovah, And thy purposes shall be established.

16-11 A just balance and scales are Jehovah’s;
All the weights of the bag are his work.

心にはかることは人に属し、舌の答は主から出る。
人の道は自分の目にことごとく潔しと見える、しかし主は人の魂をはかられる。
あなたのなすべき事を主にゆだねよ、そうすれば、あなたの計るところは必ず成る。
16-11
正しいはかりと天びんとは主のものである、袋にあるふんどうもすべて彼の造られたものである。

新約聖書 マルコ福音書 Mark 4章24-25節
4-24 And he said unto them, Take heed what ye hear:
with what measure ye mete it shall be measured unto you; and more shall be given unto you.
4-25 For he that hath, to him shall be given: and he that hath not,
from him shall be taken away even that which he hath.

また彼らに言われた、「聞くことがらに注意しなさい。あなたがたの量るそのはかりで、
自分にも量り与えられ、その上になお増し加えられるであろう。
だれでも、持っている人は更に与えられ、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう」。

宣教題「量る秤は誰の手にある?」
この箇所は、他の箇所と繋げて「人が他者を(一方的に、或いは、自分の基準で)裁いてはならない」という、
倫理的な説教として語られることが多い。
正しいはかりと天びんとは主のものである、袋にあるふんどうもすべて彼の造られたものである。箴言6章11節
イエスの語る「量る秤」とは、何が正しい律法であるのか、とか、人間のもつ秤が主の秤に叶っているかどうか等の
議論とは違う。
ここでイエスが突きつけていることばは、「様々なことを勝手に法として決め、
人々に押しつけてくるのは誰だ」ということだろう。
“量る秤を持っている者たちは更に富み、量る秤を持てない者たちは更に奪われている”という
時の本質を突きつけていると思われる。
今風に言えば、司法、立法(律法)、行政を手にしている者たち、民たちを恣意的に支配できる者たちが、
自分たちの目には丸太が入っているくせに、民たちの目にはゴミが入っているなどと民を裁こうとする。
民たちを量る、その秤で自分たちを量ろうなどとは決してしない。
まさに全体主義国家を目指している現代社会の為政者たちの姿と重なる。
「民主主義は間違っている」などと公言してはばからない為政者たちも目立ち始めている。
「強い軍事国家でなければ、国を守れない」と富国強兵を目指した明治政府の姿に戻ろうとしてる。

もはや、私たち市井の民たちは、国家が管理する「ライフライン」に必死にしがみつき、
病院のベッドの上で体中をライフラインの「チューブ」に繋がれ、
生命与奪権をもつ医師に延命措置をお願いする権利を確保しようとしている患者の姿にも思える。

あの戦時下において、天皇を中心とした軍事国家に「No」を表現できたキリスト者はほんの一握りだった。
今という時代、私たちは「奪われている者たち」から目を背け、大きな力、長いものに自分から巻かれながら、
保身をはかるところから一歩外れることはできないのだろうか。

○先週の出来事
堺市から東淀川教会に通ってこられていた間瀬絹代さんが、千里の方へ無事引っ越しされました。

◎天皇と臣民の関係を民に唱えさせる「教育勅語」の復活を文科省担当大臣が示唆した、国民総動員体制を夢見るお馬鹿さんたちがなぜこんなに元気なのだろう?

東淀川教会20180930 礼拝 出エ21:1-2 マタイ5:38-41 宣教「敵味方を超える」

旧約聖書 出エジプト記21章1-2節
21-1 Now these are the ordinances which thou shalt set before them.
21-2 If thou buy a Hebrew servant, six years he shall serve: and in the seventh he shall go out free for nothing.
21-23 But if any harm follow, then thou shalt give life for life,
21-24 eye for eye, tooth for tooth, hand for hand, foot for foot,
21-25 burning for burning, wound for wound, stripe for stripe.
21-27 And if he smite out his man-servant’s tooth, or his maid-servant’s tooth, he shall let him go free for his tooth’s sake.

これはあなたが彼らの前に示すべきおきてである。
あなたがヘブルびとである奴隷を買う時は、六年のあいだ仕えさせ、七年目には無償で自由の身として去らせなければならない。
しかし、ほかの害がある時は、命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足、焼き傷には焼き傷、傷には傷、打ち傷には打ち傷を
もって償わなければならない。
また、もしその男奴隷の一本の歯、またはその女奴隷の一本の歯を撃ち落すならば、その歯のためにこれを自由の身として去らせなければならない。

新約聖書 Matthew マタイ福音書5章38-41節
5-38 Ye have heard that it was said, An eye for an eye, and a tooth for a tooth:
5-39 but I say unto you, resist not him that is evil: but whosoever smiteth thee on thy right cheek,
turn to him the other also.
5-40 And if any man would go to law with thee, and take away thy coat, let him have thy cloak also.
5-41 And whosoever shall compel thee to go one mile, go with him two.

『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、
ほかの頬をも向けてやりなさい。
あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。
もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。

宣教題「敵味方を超えるために」
強者による弱者の支配・被支配関係は、内心としては対立関係を内包しており、敵味方の関係を創り出す。
自国民と外国人(異邦人)との関係も民族的な敵対関係を内包している。
出エジプト記の21章は、この対立関係をいかに小さくしていくかというテーマを追求しているといえる。
7年目の奴隷解放も、怪我をさせた奴隷の解放も同様のテーマに基づく。
「目には目を、歯には歯を」の報復規定は、どんどん膨れあがっていく報復感情を抑え、
「目には目以上の、歯には歯以上の報復をしてはならない」という規定に変わっていく。
イエスは、報復拡大を防ぎ、対立を小さくしていくための律法を踏まえながら、
対立する両者の壁を打ち砕いていくための大胆かつ困難な道を示している。
その一つが、右のほほを打たれたら左のほほを差し出せ。
下着に困ってあなたの下着を盗ろうとする者があれば、下着と上着を与えよ。
1マイル進むという行為をあなたに強制してくる者があれば、その者と一緒に2マイル進め、と。

相手のほほをひっぱたく行為の背景には相当の怒りをあなたに向けているに違いない。
ならば相手の怒りを受け止める姿勢を示せ。
下着を盗るほど困っている隣人ならば、下着と上着くらい分かち合え。
仕事や行為をあなたに強制する者あれば、強制する者と一緒に倍の仕事や行為を一緒に行え。
感情的な憎しみや貧富の格差や宗教的な偏見など、対立を深める要因は山ほどある。
が、対立の壁を低くし、やがて打ち砕いていくためには、
先ずしっかり接近し、相手の怒りを受け止めながら、理解し合うための努力を積み重ねなければならない、と
イエスは語っていると思われる。

○先週の出来事
堺市から東淀川教会に通ってこられていた間瀬絹代さんが、千里の方へ引っ越してこられます。本日午後引っ越し予定です。礼拝に通われる負担がかなり軽減されます。良かった。良かった。

東淀川教会20180923 礼拝 エレミヤ18:4-6 マタイ10:34-36 宣教「駄目作品を粘土に戻す主」

旧約聖書 Jeremiah エレミヤ書
18-4 And when the vessel that he made of the clay was marred in the hand of the potter,
he made it again another vessel, as seemed good to the potter to make it.
18-5 Then the word of Jehovah came to me, saying, 18-6 O house of Israel,
cannot I do with you as this potter? saith Jehovah.
Behold, as the clay in the potter’s hand, so are ye in my hand, O house of Israel.
18-21 Therefore deliver up their children to the famine, and give them over to the power of the sword;
and let their wives become childless, and widows; and let their men be slain of death,
and their young men smitten of the sword in battle.

粘土で造っていた器が、その人の手の中で仕損じたので、彼は自分の意のままに、それをもってほかの器を造った。
その時、主の言葉がわたしに臨んだ、「主は仰せられる、イスラエルの家よ、この陶器師がしたように、
わたしもあなたがたにできないのだろうか。
イスラエルの家よ、陶器師の手に粘土があるように、あなたがたはわたしの手のうちにある。
それゆえ、彼らの子どもたちをききんに渡し、彼らをつるぎの刃に渡してください。彼らの妻は子を失い、
また寡婦となり、男は疫病にかかって死に、若い者は、戦争でつるぎに殺されますように。

新約聖書 Matthew マタイ福音書10章34-36節
Think not that I came to send peace on the earth: I came not to send peace, but a sword.
For I came to set a man at variance against his father, and the daughter against her mother, and the daughter
in law against her mother in law: and a man’s foes shall be they of his own household.

地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。
わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。
そして家の者が、その人の敵となるであろう。

宣教題「駄目作品を粘土に戻す主」
紀元前600年頃のパレスチナにおけるユダ王国の混迷状態があった。自らの歩み方も進む方向も忘れ、
南の王国に従属するのか、北の王国に付き従うか、権力や戦力や財力をすべての判断基準とし、神への信仰は、
民たちを支配し従属させるための律法となる。まことに神の声を聴こうとする者はほとんどいなくなる。
「全身全霊で神と向き合う」イスラエルの姿は失われていた。その姿は現在のこの国の姿ととてもよく似ている。
「“神が我々のために存在している”などと思ってもみるな。神はこの民の傲慢さを徹底して打ち砕かれる」と語る。
そのためには、神など恐れもしないバビロンの王をすら、この民を打つ鞭として用いられる、と預言した。
陶工potterは作品vesselが傷つけばmarred、作品を粘土clayに戻して作りかえる、という。
「この国の民はかくあらねばならぬ」と、様々な糸でそこに住む人々の心を縛り上げていく。それと対応して
「家族は、父は、母は、娘は、息子は、かくあらねばならない」という“縛り”がどんどん強まっていく。
子どもが飢饉に襲われ、邪魔な家族は座敷牢に閉じ込められ、女は子を失い、男は疫病にかかり、
若い者は戦争で殺されていく…。
イエスの言葉「わたしが来たのは、平和ではなく剣を投げ込むためである。
息子と父を、娘と母を、嫁と姑を仲違いさせるためである」とは、その脳天気な傲慢さゆえに、
神の怒りを気づこうともしないイスラエルの民に語ったエレミヤの言葉と重なる。
祈りとは、わたしのお願いを神に伝えることが第一ではなく、
静寂の中に声なき神の声を聴こうとする真剣な思いから始まる。
まずその姿勢を日常生活の中で取り戻していきたい。そして礼拝に向かいたい。

○先週の出来事
仙台市で21才の若者がエアガンとナイフで交番を襲い、 ナイフで警官を刺し、彼自身はもう一人の警官に射殺された。
「反乱と自殺」という言葉が心に浮かぶ。弱い者たちを殺して国の指導者に褒められようとした事件、
子どもたちをたくさん殺して「死刑」で死のうとした事件とやや異なるが、私たちの周りで確実に「テロ」は広がっている。

東淀川教会20180916礼拝 イザヤ59:1-2 ルカ6:20-22 宣教「もはや革命」

旧約聖書 Isaiah イザヤ書
59-1 見よ、主の手が短くて、救い得ないのではない。その耳が鈍くて聞き得ないのでもない。
59-2 ただ、あなたがたの不義があなたがたと、あなたがたの神との間を隔てたのだ。
またあなたがたの罪が主の顔をおおったために、お聞きにならないのだ。
61-1
主なる神の霊がわたしに臨んだ。これは主がわたしに油を注いで、貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね、
わたしをつかわして心のいためる者をいやし、捕われ人に放免を告げ、縛られている者に解放を告げ、
61-2 主の恵みの年とわれわれの神の報復の日とを告げさせ、また、すべての悲しむ者を慰め、
61-3シオンの中の悲しむ者に喜びを与え、灰にかえて冠を与え、悲しみにかえて喜びの油を与え、憂いの心にかえて、
さんびの衣を与えさせるためである。
こうして、彼らは義のかしの木ととなえられ、主がその栄光をあらわすために植えられた者ととなえられる。

新約聖書 ruke ルカによる福音書
6-20 And he lifted up his eyes on his disciples, and said, Blessed are ye poor: for yours is the kingdom of God.
6-21 Blessed are ye that hunger now: for ye shall be filled. Blessed are ye that weep now: for ye shall laugh.
6-22 Blessed are ye, when men shall hate you, and when they shall separate you from their company, and reproach you, and cast out your name as evil, for the Son of man’s sake.
6-23 Rejoice in that day, and leap for joy: for behold, your reward is great in heaven; for in the same manner did their fathers unto the prophets.

そのとき、イエスは目をあげ、弟子たちを見て言われた、「あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ。
神の国はあなたがたのものである。
あなたがたいま飢えている人たちは、さいわいだ。飽き足りるようになるからである。
あなたがたいま泣いている人たちは、さいわいだ。笑うようになるからである。
人々があなたがたを憎むとき、また人の子のためにあなたがたを排斥し、ののしり、
汚名を着せるときは、あなたがたはさいわいだ。
その日には喜びおどれ。見よ、天においてあなたがたの受ける報いは大きいのだから。
彼らの祖先も、預言者たちに対して同じことをしたのである。

宣教題「これはもはや革命」
貧富の格差は、勤勉や才能や努力の格差に依るものではないのは誰にでもわかること。
地位や社会的な力ある者はより富み、それらがなく、貧しい者は貧しいまま更に奪われ、格差は広がっていく。
富める者は社会的な正義を求めることはなく、貧しい者は衣食住と、社会的な正義に飢え渇く。
これは現代社会、地球レベルでみても、軍事力の大きな、経済的にも富める国の富める、世界の25%の人々と、
軍事力も経済力も持てない貧しい国の、世界の75%の貧しい人々との大きな格差、
いわゆる「世界の南北問題」は厳然たる事実である。
この国、先進国側の日本では餓死や難民問題などは目立たず世界の現実はわかりにくくなっていますが、
それでも「貧しい人」=「社会的な弱者」はとても生きにくい、厳しい現実を耐えなければならないのは変わりません。
行政機関や企業の「障害者の雇用義務」を行政各省が率先して誤魔化していたことは、
「福祉」という表看板を隠れ蓑にして、
国力にならない人たちを「生かさず殺さず」目立たぬ所に押しやる政策の表れでしょう。
ナザレのイエスが語られた「貧しい者は幸い」とのメッセージは、イザヤ書のメッセージとともに、
貧しい人々の助けを求める祈り、社会的な公正、人間的な「義」を求める祈りが神さまを動かす、
神さまとともに働く人々が広がっていく、というメッセージ、福音なのだと思います。
国や社会行政に依存するのではなく、互いが互いをかけがえのない隣人として、
ともに神さまから生かされる道を求めるようになる、
そんな「主に賜る平和」のビジョンを描きたいと願います。

○先週の出来事
太平洋や大西洋で大型台風の同時、連続発生が続いている。
気象の変動をすべて地球温暖化で説明しようとするのは無理がある。すべからく「天気」なのだから、
「天」の「気」をどう読み取るかが重要なのだろう。ともかくも、天は怒っている、そんな気はする。

東淀川教会20180909礼拝 詩編16:5-9 マルコ4:22-25節 宣教「量る秤」

旧約聖書 Psalms 詩編16篇
16-5 Jehovah is the portion of mine inheritance and of my cup: Thou maintainest my lot.
16-6 The lines are fallen unto me in pleasant places; Yea, I have a goodly heritage.
16-7 I will bless Jehovah, who hath given me counsel; Yea, my heart instructeth me in the night seasons.
16-8 I have set Jehovah always before me: Because he is at my right hand, I shall not be moved.
16-9 Therefore my heart is glad, and my glory rejoiceth; My flesh also shall dwell in safety.

主はわたしの嗣業、またわたしの杯にうくべきもの。あなたはわたしの分け前を守られる。
測りなわは、わたしのために好ましい所に落ちた。まことにわたしは良い嗣業を得た。
わたしにさとしをさずけられる主をほめまつる。夜はまた、わたしの心がわたしを教える。
わたしは常に主をわたしの前に置く。主がわたしの右にいますゆえ、わたしは動かされることはない。
このゆえに、わたしの心は楽しみ、わたしの魂は喜ぶ。わたしの身もまた安らかである。

新約聖書 Mark マルコ福音書 4章22-25節
4-22 For there is nothing hid, save that it should be manifested; neither was anything made secret, but that it should come to light.
4-23 If any man hath ears to hear, let him hear.
4-24 And he said unto them, Take heed what ye hear: with what measure ye mete it shall be measured unto you; and more shall be given unto you.
4-25 For he that hath, to him shall be given: and he that hath not, from him shall be taken away even that which he hath.

なんでも、隠されているもので、現れないものはなく、秘密にされているもので、明るみに出ないものはない。
聞く耳のある者は聞くがよい」。
また彼らに言われた、「聞くことがらに注意しなさい。あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられ、その上になお増し加えられるであろう。
だれでも、持っている人は更に与えられ、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう」。

宣教題「はかり縄を持て」 要旨
マルコ福音書でイエスの言われる「自分の量る秤で量り与えられ…」の、秤は何を意味するのだろうか。マタイやルカにおいては「ひとを裁いてはならない。人を裁くそのはかりで量り返される」という、量ることはあまりよろしくない、というニュアンスでこの箇所が解釈されることが多い。
神殿政治化したユダヤ教では、律法指導者の判断基準である「はかり」に従うことが大切で、自分自身ではかりを持つことは奨励されてはいない。マタイ福音書やルカ福音書では、派(セクト)成立にウエイトが置かれているため、はかりは指導者が持つべきであり、従うべき信者の倫理性を求める方向に流れがちである。
神ととっくみあい、「主はわたしのもの、わたしは主のもの」というイスラエルの神との関係から理解すると、わたしの「はかり縄」は持つべき、との感覚が本来であったと思われる。
「主はわたしの嗣業、またわたしの杯にうくべきもの。あなたはわたしの分け前を守られる。測りなわは、わたしのために好ましい所に落ちた。まことにわたしは良い嗣業を得た。わたしにさとしをさずけられる主をほめまつる。夜はまた、わたしの心がわたしを教える。」とは、主なる神と共有するはかり縄を至上の宝とする、という意味であろう。
すると、あかりは高いところ、燭台の上に置くべきであり、主から手に入れた「はかり縄」で、人や世が隠し秘密にしているものもすべて明るみに出る、というイエスのメッセージに繋がる。
聖書を通してこの時代、世についての「はかり縄」、神からいただいた「さとし」を求め続けたい。

○先週の出来事
台風の後の大地震に見舞われた北海道。北海道の鉄道網自体が、「赤字」「採算が取れない」を理由に廃止に動いている。この災害で、ますます廃止路線が増えることが懸念されている。
都市部の鉄道収益は、地方の赤字路線に回されるべきではないか。それが「国民の全ての足を守る鉄道」の本来の目的。そのためにも、もう一度、全部が「国鉄」に戻されるべきだと思われる。