東淀川教会20180923 礼拝 エレミヤ18:4-6 マタイ10:34-36 宣教「駄目作品を粘土に戻す主」

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旧約聖書 Jeremiah エレミヤ書
18-4 And when the vessel that he made of the clay was marred in the hand of the potter,
he made it again another vessel, as seemed good to the potter to make it.
18-5 Then the word of Jehovah came to me, saying, 18-6 O house of Israel,
cannot I do with you as this potter? saith Jehovah.
Behold, as the clay in the potter’s hand, so are ye in my hand, O house of Israel.
18-21 Therefore deliver up their children to the famine, and give them over to the power of the sword;
and let their wives become childless, and widows; and let their men be slain of death,
and their young men smitten of the sword in battle.

粘土で造っていた器が、その人の手の中で仕損じたので、彼は自分の意のままに、それをもってほかの器を造った。
その時、主の言葉がわたしに臨んだ、「主は仰せられる、イスラエルの家よ、この陶器師がしたように、
わたしもあなたがたにできないのだろうか。
イスラエルの家よ、陶器師の手に粘土があるように、あなたがたはわたしの手のうちにある。
それゆえ、彼らの子どもたちをききんに渡し、彼らをつるぎの刃に渡してください。彼らの妻は子を失い、
また寡婦となり、男は疫病にかかって死に、若い者は、戦争でつるぎに殺されますように。

新約聖書 Matthew マタイ福音書10章34-36節
Think not that I came to send peace on the earth: I came not to send peace, but a sword.
For I came to set a man at variance against his father, and the daughter against her mother, and the daughter
in law against her mother in law: and a man’s foes shall be they of his own household.

地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。
わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。
そして家の者が、その人の敵となるであろう。

宣教題「駄目作品を粘土に戻す主」
紀元前600年頃のパレスチナにおけるユダ王国の混迷状態があった。自らの歩み方も進む方向も忘れ、
南の王国に従属するのか、北の王国に付き従うか、権力や戦力や財力をすべての判断基準とし、神への信仰は、
民たちを支配し従属させるための律法となる。まことに神の声を聴こうとする者はほとんどいなくなる。
「全身全霊で神と向き合う」イスラエルの姿は失われていた。その姿は現在のこの国の姿ととてもよく似ている。
「“神が我々のために存在している”などと思ってもみるな。神はこの民の傲慢さを徹底して打ち砕かれる」と語る。
そのためには、神など恐れもしないバビロンの王をすら、この民を打つ鞭として用いられる、と預言した。
陶工potterは作品vesselが傷つけばmarred、作品を粘土clayに戻して作りかえる、という。
「この国の民はかくあらねばならぬ」と、様々な糸でそこに住む人々の心を縛り上げていく。それと対応して
「家族は、父は、母は、娘は、息子は、かくあらねばならない」という“縛り”がどんどん強まっていく。
子どもが飢饉に襲われ、邪魔な家族は座敷牢に閉じ込められ、女は子を失い、男は疫病にかかり、
若い者は戦争で殺されていく…。
イエスの言葉「わたしが来たのは、平和ではなく剣を投げ込むためである。
息子と父を、娘と母を、嫁と姑を仲違いさせるためである」とは、その脳天気な傲慢さゆえに、
神の怒りを気づこうともしないイスラエルの民に語ったエレミヤの言葉と重なる。
祈りとは、わたしのお願いを神に伝えることが第一ではなく、
静寂の中に声なき神の声を聴こうとする真剣な思いから始まる。
まずその姿勢を日常生活の中で取り戻していきたい。そして礼拝に向かいたい。

○先週の出来事
仙台市で21才の若者がエアガンとナイフで交番を襲い、 ナイフで警官を刺し、彼自身はもう一人の警官に射殺された。
「反乱と自殺」という言葉が心に浮かぶ。弱い者たちを殺して国の指導者に褒められようとした事件、
子どもたちをたくさん殺して「死刑」で死のうとした事件とやや異なるが、私たちの周りで確実に「テロ」は広がっている。

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