20230129 宣教要旨「イエスの召命」イザヤ書61章1節 ルカ福音書4章21-30節 担当 金田恆孝

本日の聖句

イザヤ書61章 1節
主なる神の霊が私に臨んだ。主が私に油を注いだからである。苦しむ人に良い知らせを伝えるため 主が私を遣わされた。心の打ち砕かれた人を包み 捕らわれ人に自由を つながれている人に解放を告げるために。

ルカによる福音書4章 21-30節
そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。
皆はイエスを褒め、その口から出て来る恵みの言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」
イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うに違いない。」
そして、言われた。「よく言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。
確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、全地に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたのに、
エリヤはその中の誰のもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタにいるやもめのもとにだけ遣わされた。
また、預言者エリシャの時には、イスラエルには規定の病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンだけが清められた。」
これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、
総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。
しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。

宣教要旨「イエスの召命」

 『召命』。現代で「神さまから私はこういう命令を受けた」などの言葉を聞けば、幻覚とか妄想とか、怪しげな占い師や呪術師の妄言のように受け取られることが多いのでしょう。聖書が語る“召命”とは、士師や預言者などのリーダーを任命する場合、先に活躍していた者が新たなリーダーを任命する場合に“油を注ぐ”という儀式があったのですが、神さまから個人への指示であったことを、神に油を注がれた、と表現しました。神さまと個人の間における出来事であり、人からの神への祈り、神さまからの応答・語りかけという全身全霊を傾けた真剣な「対話」の中で起こる重大な出来事なのです。


イエスが神さまからどのような「召命」を受けたのかの一端を表現しているのがこのルカによる福音書の箇所です。イエスより700年以上前に活躍した預言者イザヤが語った「受難のメシア」「何の報いも栄誉もなく罪人として責められ、受難の末に取り去られるとりなし人」のメシア像を自身に対する召命として受け取っていたことが感じられます。 神からの召命に従うことによって自らが滅びるだろうトンデモナイ指示から、冗談じゃありませんよ、と逃げ出したヨナさんの記録(ヨナ書)を読むと、「祈り=神との対話」が、神に対する自分自身からの一方的なお願いのようなものではなく、命がけの相互的な対話であったことがわかります。イエスはなぜ逃げ出さなかったのでしょう。 “苦しむ人”“心の打ち砕かれた人”“囚われた人”の解放とは、モーセが受けた召命と同じく「奴隷解放」そのものとして理解していいと思います。

イエスの時代の奴隷とは、社会の中で自分を守るための身分もお金も人間関係も持たない“貧しい人”であり、罪人とされた人であり、「清さ」の対極に置かれた「汚れた人」であり、労苦によってしか食べ物にありつけない奴隷と同じでした。最下層の底辺があるからこそピラミッドが成り立つように、権力者や王が作り出す、奴隷あってのピラミッド型社会が形成され、王は領土や富のために戦争に明け暮れ、最下層の者たちは逃げ出すこともできす神に救いを求め続けていた。


 神が今、立ち上がり、神が世の最下層に下り、しんがりに立つ、しんがりをこそ守るというメッセージ(あなた方がこれを耳にした時、実現した)は、自分たちこそ神に近いというプライドを持っている人々の心を傷つけた。プライドは傷ついたけれど、イエスが多くの病人たちを癒しているという噂は流れており、イエスがこの村の病人たちを癒したりして、自分たちに利益をもたらすならば、お前を認めてやろうという考えもあったようです。自分や自分たちに利益のある教えや行いなら受け入れようとする姿勢をイエスは批判します。

 更に、預言者として最も有名なエリア(BC850頃)が北方の地中海に面した異教の町の、貧しい寡婦の家に遣わされ、人々から馬鹿にされ弾かれている貧しい者に対してこそ、神の子としての栄光を表されたこと、更に、預言者エリシャ(BC840頃)が癒したのは北方の異民族ナアマン王に仕えていたイスラエル難民の祈りに応えて重い皮膚病に苦しむナアマン王を癒したことなどを告げ、自分たちこそ神に選ばれた選民だと信じている、或いはそう信じたい人々のプライドを潰してしまいます。。

 当初は自分たちにとってためになる、役立つ話を聞くために集まり、イエスの、神の言葉についての教えに感心していた会堂内の人々が、怒り心頭で総立ちとなり、外に連れ出して、“山の崖から突き落とそうとした”場面は、イエスのメッセージがどれほど危険でトンデモナイ言葉として受け取られたのかを表現していますし、イエスの十字架への道がここですでに示されていたと理解できます。

 人々が、自分たちセクト(民族セクト、 宗派セクト、 国家セクトなど)の利益・不利益の感情をベースに熱狂し始めた時、セクトを包む全体主義が巨大な力となって個々人の感覚や考え方、個々人の信仰などは吹き飛ばされてしまいます。その恐ろしさは、例えば日本でも、日清戦争1894年、日露戦争1904年、日中戦争1937年、太平洋戦争終結の1945年の敗戦まで、日本民族こそ神に選ばれている、戦況が不利でも神風が吹く、という全体主義の熱狂と暴走を止めることができませんでした。 二度と戦争に加担してはならないと決意した“戦後”から77年過ぎ、二度と過ちは繰り返しませんとの誓いがほぼ忘れ去られつつあり、忘却とともに戦争への足音が近づいている昨今だからこそ、イエスのメッセージを今ここで聴きつつ、祈りつつ日々を歩みたいと願います。

先週の出来事

 海外経由のネットによる、貧困の若者を利用した闇バイトによる「連続強盗」事件。集団によるオレオレ詐欺から、闇バイトで雇った若者一人一人を駒のように動かす強盗に移行しているのでしょうか。会ったこともない人の指示を信じて将棋盤の駒になり切れる若者の想像力はどうなっているんでしょうか。 国境を超えたグローバル社会の犯罪、闇はますます広がっていくのでしょうか。

 

 

20230122 宣教要旨「マグダラのマリアは誰?」ヨハネ福音書20章11-18節 担当 金田恆孝

本日の聖書箇所

ヨハネによる福音書/ 20章 11-18節
マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中をのぞくと、
イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が、一人は頭の方に、一人は足の方に座っているのが見えた。天使たちが、「女よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「誰かが私の主を取り去りました。どこに置いたのか、分かりません。」こう言って後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。
 イエスは言われた。「女よ、なぜ泣いているのか。誰を捜しているのか。」マリアは、園の番人だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか、どうぞ、おっしゃってください。私が、あの方を引き取ります。」イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。
 イエスは言われた。「私に触れてはいけない。まだ父のもとへ上っていないのだから。私のきょうだいたちのところへ行って、こう言いなさい。『私の父であり、あなたがたの父である方、また、私の神であり、あなたがたの神である方のもとに私は上る』と。」マグダラのマリアは弟子たちのところに行って、「私は主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。

1:マルコによる福音書/ 16章 01-2節
安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。
そして、週の初めの日、朝ごく早く、日の出とともに墓に行った。

マルコによる福音書/ 16章 09節
〔イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。

 

 

宣教要旨「マグダラのマリアは誰?」

 イエスの時代。福音書では男たちの姿は描かれていますが、女たちの姿は圧倒的に少ない。イエスに最も近かった女は誰だったのでしょうか。イエスの母マリアはイエスから「婦人よ」と呼ばれました。
 イエスやその仲間たちは、男女の区別なく世の中から押し出され、より助けを必要としている、しんがりにいる人々に向かいました。イエスに働き人として派遣されたのは男たちばかりが列挙されていますが、人の数をカウントする時、大人の男の数で全体の大きさを記録しているように、基本は“男たち”の世界が記述の対象であり、12弟子も男だけとされています。女たちの働きは記録されていませんが、傷つき、病んでいる、苦しんでいる人々の治療行為や手当をしていたのは明らかであり、相手が女性の場合以外にも、女たちの働きはとても多かったはずです。四つの福音書ともに女たちの働きをあえて記さないのは、考えてみれば驚きですが、時代背景の故なのでしょうか。

 イエスたちと共に働いていた女性たちの中で、最もイエスに近かったのがマグダラのマリアだったと感じられます。彼女について書かれているのは、マグダラのマリアは7つの悪霊を追い出していただいた、イエスたちの旅と活動に付き従った、イエスの埋葬を見届けた、イエスの復活に立ち会ったことなどです。いわば12弟子以上にイエスに近かったと感じられます。正教会、英国国教会、カトリックなどによってその理解、扱いは異なりますが、12弟子と同等に重要な使徒として讃えられています。イエスの足に香油を塗った罪ある女性と同じ人物と解釈する派も、違う人物として解釈する派もあります。

 1988年のアメリカ映画「最後の誘惑」では、イエスの妻のような描き方でした。マグダラのマリアがイエスにとても近かった存在として表現されています。映画での表現は別としても、尻込みする男たちと異なり、遺体を埋葬するために出かけ、遺体がなかったため墓場の番人だと思った人に遺体の場所を尋ね、「遺体を私が引き取ります」というのは、イエスに最も近い身内の言葉のようにに聞こえます。見える姿を持たないイエスが「マリア」と語りかけると、彼女はイエスの存在を感じ「ラボニ(先生!)と叫んだというのも、その距離の近さを表しています。
 十字架までは隠されていた女たちの活動や男イエス(たち)との関係が、十字架の出来事の後には、一挙に表に現れ、しかも男たち以上の重要な働きをしています。あたかもそれまでの「男あっての社会」が十字架とともに滅び、「女あっての社会」が表に躍り出たような印象を覚えます。マタイ、マルコ、ルカにはない、ヨハネ福音書によるマグダラのマリアとイエスについての記述は、従属したり支配したり差別したりの男女関係が十字架の上で滅び、男女の違いがあるからこそ互いに尊重し補い助け合える「人」が生まれた(復活した)ことを示していると理解したいと思うのです。
 そもそも創造神話の理解ですが、「男から女が作られた」のではなく、動植物のごとく雌雄同体の「人」から男「イーシ」女「イーシャ」に分けられた、と理解する方が自然ですし、近年の生物学者(福岡伸一)から見た人間の生命理解に合っていると思われます。

 今週の出来事 

コロナ関連ウィルスを今後“インフルエンザ”ウィルス並の扱いにするとの政府コメント。でも多くの人に長い間張り付いたマスクは、外界に対する警戒感とともに外し難いペルソナ(仮面)となってしまっているような気がします。パンツとマスクを外せない人類も登場するのではないか、などと妄想してしまいます。

20230115 宣教要旨「傲慢と卑屈の迷路」イザヤ書52章12節 58章6-8節 ヨハネ福音書9章1-3節 担当 金田恆孝

本日の聖書箇所

イザヤ書52章 12節
急いで出なくてもよい。逃げるようにして行かなくてもよい。主があなたがたの前を行き イスラエルの神がしんがりとなるからだ。

イザヤ書58章 6〜8節
私が選ぶ断食とは 不正の束縛をほどき、軛の横木の縄を解いて 虐げられた人を自由の身にし 軛の横木をことごとく折ることではないのか。
飢えた人にパンを分け与え 家がなく苦しむ人々を家に招くこと 裸の人を見れば服を着せ 自分の肉親を助けることではないのか。
その時、曙のようにあなたの光は輝き出し あなたの傷は速やかに癒やされる。あなたの義があなたを先導し 主の栄光があなたのしんがりを守る。

ヨハネによる福音書9章 1〜3節
さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。
弟子たちがイエスに尋ねた。「先生、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。」
イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。

宣教要旨「傲慢と卑屈の迷路」

 天の神は最も聖なるお方であり、汚れにまみれた人間は聖なる神に近づかなければ救われない、地獄に堕ちるしかない、というような感覚は古今東西、様々な宗教に見られるものです。ユダヤ教の戒律も「聖なる方に近づく」「汚れから遠ざかる」ための戒律が中心でした。天の聖なる神に近い人々と、神から遠い、汚れた人々という上下、貴賤のイメージは強固な感覚だったと思われます。文明の発生ともに生まれたピラミッドは、そのまま強者・弱者、富んだ者と貧しい者の上下関係、貴賤の社会構造でした。

 神は、人間たちの傲慢さが作り出した貴賤、上下関係を打ち砕き、上下関係のしんがり、最も低いところに立たれる、貧しい者こそ幸いとのメッセージを明確に打ち出したのがイザヤでした。傲慢になってしまう心、卑屈になってしまう心を打ち砕くため、神に作られたいのちの祝福を取り戻すために、受難の救い主が現れる、というのがイザヤ書の最も大きなメッセージと思われます。イエスの公生涯はこの“受難のメシア”を自らに引き受けたのだと理解できます。動植物など自然の生命の中で人間が特別に祝福されているのではないこと(空の鳥を見よ・野の花を見よ)、人間が作り出すしんがりをなくしていくことが最も大切な戒め・律法であることをイエスはしんがりに立ちつつ、神の子としての祝福を取り戻すために働き続けたのでしょう。

 イエスの時代から現代に目を移せば、現代社会の富んだ者と貧しい者のピラミッド構造・上下の格差はさらに激しくなっていると言えます。
 世界では1億人以上が紛争や迫害、暴力などで住む家を追われ、難民や国内避難民として避難を余儀なくされている(2022年、国連難民高等弁務官事務所)。これは世界の人口の約1%に相当し、このうち42%が18歳未満の子どもとのこと。2018年から2020年の間に約100万人の子どもが難民として生まれているという現実は、富んだ国日本に暮らす私たちの日常感覚、実感から遠いものです。
 難民の出身国で多いのは、シリア(670万人)、ベネズエラ(400万人)、アフガニスタン(260万人)、南スーダン(220万人)、ミャンマー(110万人)とのこと。明らかに人間たちの愚かな戦争によって生まれた難民であり、そして今起こっている戦争によって難民の数はさらに増え続けています。

 経済的な豊かさを求め、隣国を敵視し、原発をさらに稼働させ、専守防衛の枠を超えて軍事力を高めようとしている現代日本は、イザヤやイエスが非難した「傲慢」な姿なのでしょう。生まれつき目が見えない、ありのままの人間を、穢れとして、罪の結果として理解しようとする人間の、卑屈の裏返しである傲慢さもイザヤやイエスから責められています。

「神は世のしんがりに立たれる」の厳しいメッセージを、皆さまとともに、ここで聞きたいと願います。

 

20230108 礼拝 宣教要旨「傲慢からお救いください」創世記9章9−11節 マタイ福音書3章9節 マルコ福音書12章35−37節 担当 金田恆孝

本日の聖書箇所

創世記9章 9〜11節
「私は今、あなたがたと、その後に続く子孫と契約を立てる。また、あなたがたと共にいるすべての生き物、すなわち、あなたがたと共にいる鳥、家畜、地のすべての獣と契約を立てる。箱舟を出たすべてのもの、地のすべての獣とである。私はあなたがたと契約を立てる。すべての肉なるものが大洪水によって滅ぼされることはもはやない。洪水が地を滅ぼすことはもはやない。」

マタイによる福音書3章 9節
『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。

マルコによる福音書12章 35〜37節
イエスは神殿の境内で教えていたとき、こう言われた。「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。ダビデ自身が聖霊を受けて、こう言っている。『主は、私の主に言われた。「私の右に座れ 私があなたの敵を あなたの足台とするときまで。」』このように、ダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」大勢の群衆は、イエスの教えに喜んで耳を傾けた。

 

宣教の要旨「傲慢と卑屈からお救いください」

 年を跨いで戦争は続いています。沖縄では日本の自衛隊員と米国海兵隊とが合同の戦闘訓練を行なったとのニュース。それって、自衛隊の「専守防衛」の枠を超えていますし、何よりも国会での議論すら経ていないことがなし崩しに進んでいるわけです。この国は法治国家のはずです。戦争は、自分たちの行為の全てを敵のせいにできる、人間の「傲慢さ」の極みなのでしょう。或いは、“人間の人生は、「傲慢」と「卑屈」を懲りもせず繰り返すもの”という、誰かのセリフもあったように思います。

 大自然の営みの中で人々は人間を含む天地万物と生命が神に生かされていることを感じ、様々な神話や多神教が生まれた。やがて人間が我が物顔で地上を闊歩するようになり、自分たち(親族・一族・民族・国家)に都合の良い「神」を立てて、守護と繁栄を願うようになった。出雲の縁結びの神、商売繁盛のお稲荷神、学問は菅原道真の怨霊を祀る天神さん、戦争の神様は八幡様などを分業させ、お賽銭をあげてご利益を願うようになった。
 土地を持たなかった「神とともに歩む民」が砂漠の中で見出した神は、天地万物の創造神であり、人間の勝手な都合や願いに奉仕する神ではなく、神様こそが主・あるじであり、人間こそが神さまのご計画に無条件で奉仕するべき存在でした。契約とは、神さまのご計画に用いられる、参加させていただく「契約」という意味でした。

 しかも、人間との契約は、動植物との契約、言い換えれば、神と「みじんこ」との契約となんら変わるものではない、という宣言がそこにあります。地上を我が物顔で闊歩している人間の陥りやすい傲慢さを打ち砕くメッセージです。

 動植物の進化や擬態などの生命の営み、生殖の不思議もまた、神さまに守られ導かれ続けている証なのでしょう。例えば、魚の性転換でメスからオスへ性転換するホンソメワケベラ、オスからメスへ性転換するカクレクマノミ、オスとメスの両方に何度でも変われるダルマハゼなどについて調べると、神さまがそれぞれの祈りを聞き届け、変化させてくださる「契約」の不思議に驚嘆するばかりです。

 現代社会の性差別問題、LGBTQをめぐる諸問題の議論の中にも、人間の傲慢さを感じてしまいます。お魚さんと神さまの生きた契約について、お魚さんの生かされ方を学びながら、もっともっと謙虚になって、新たな祈りを生み出していけないだろうかと思います。,

 自分たち人間が被造物の中でいちばん偉いんだ、自然を支配していいんだ、という傲慢。あるいは、アブラハムの子孫であるイスラエル人こそ、神から選ばれた特別の民なんだという選民意識。それに対して、イエスは、「こんな石ころからでも、アブラハムの子たちを作り出すことがおできになる」と傲慢な選民意識に冷水を浴びせます。それは同時に、人間の血統意識にも冷水を浴びせるものでした。

もしかしたら、「キリスト者こそ神様に選ばれた、特別な民なんだ」という傲慢さが私たちの内側に隠れているかもしれません。それぞれ自己点検したいものです。

 イエスが“ダビデの子メシア”と期待されたのは、ダビデやソロモン王の時代の「ユダ国」の繁栄を再び築いてほしい、神に選ばれた民としてのプライドを回復してほしい、という“勝手な”ビジョンをベースにしていました。強い国家を求め、国家によって守られようとする願望は、神への信頼とは真逆です。

 こんな危機的な時代だからこそ、“わたし”や“私たち”や“国家”のための「主」という傲慢から離れて、万物、いのちの主に生かされ、主をのみ仰ぐ信仰に立ち返っていくことができますよう祈ります。

20230101 降誕節第二主日 元旦礼拝 宣教要旨「あり得ない」出エジプト記1章2章 マタイ福音書2章16節 担当 金田恆孝

本日の聖句(日本聖書協会訳)

出エジプト記1章 16節
「お前たちがヘブライ人の女の出産を助けるとき、お産の台を見て、男の子ならば殺し、女の子なら生かしておけ。」

出エジプト記2章 9節
ファラオの娘は彼女に言った。「この赤子を連れて行って、私のために乳を飲ませなさい。私が手当てを払います。」そこで、母親は赤子を引き取り、乳を飲ませた。

マタイによる福音書2章 16節
さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。

宣教の要旨「あり得ない」

 今日は元旦ですが、「正月のめでたい雰囲気」など見当たりません。家家に日の丸の旗も門松も、着物を着て行き交う人々も、凧揚げする子どももなく、行き交う車にもダイダイなどの正月飾りもありません。

 “年の初めの試しとて”という歌がありました。私が小学生(1958年〜)の頃、歌って覚え(させられ)た歌でした。

年の始めの 例(ためし)とて
終(おわり)なき世の めでたさを
松竹(まつたけ)たてて 門(かど)ごとに
祝(いお)う今日こそ 楽しけれ

初日(はつひ)のひかり さしいでて
四方(よも)に輝く 今朝のそら
君がみかげに 比(たぐ)えつつ
仰ぎ見るこそ 尊(とお)とけれ

 明治の初期に作られた歌で、作詞は「天つ神」の伊勢神宮側ではなく、「国つ神」の出雲大社側の宮司とのこと。ここに悲しみを感じます。

(終わりなき世)は千代に八千代に、(君が御影に比えつつ)は天皇の姿をそこに写して、の意味であり、明らかに天皇讃美の歌です。1960年代までの日本各地の小中学校で歌わされていたと思います。明治からの「天皇を中心とした軍事国家」という全体主義イメージを浸透させる重要な教育の一環だったのでしょう。「正月のめでたさ」も「日本バンザイ」「天皇万歳」と一体だったわけです。そもそもあちこちで見られた「バンザイ」そのものが天皇崇拝儀式なのに、そう意識させず「マインドコントロール」が再生産され続けたわけです。
 偽装された歴史ではない、実態としての天皇制について、平将門の乱一つをとっても、「天皇」が神格化されていた時代はとても短く、明治期から太平洋戦争敗戦までの間だけではなかったかと思うのです。

 年末に終了したNHKドラマ「鎌倉殿の13人」に度々登場した、一種のプライドとともに語られる“坂東武者”が心に残りました。坂東武士とは、東国の武家集団を指し、東北や北陸の「蝦夷」と呼ばれた「天皇による支配」に服従しなかった人々のうち、捕囚の民となって関東地域に移住させられた人々が「俘囚」と呼ばれ、やがて彼らが朝廷・天皇という権力からお墨付きを頂き、蝦夷征伐の主力を担うことになったことは、被差別者が差別者に転じる、歴史の暗部を感じます。この「俘囚」のことは小中学校の歴史ではほとんど学びませんでした。

 紀元前10世紀頃のエジプトで奴隷状態だったイスラエル人奴隷がいました。もともと土地を所有しない遊牧民であり、アブラハムから始まった一族を導いた神によってのみ自分たちが導かれるという信仰を持っていたイスラエル人は、エジプトの神や権力者に与することはできず、奴隷状態のままだったのでしょう。その彼らの数が増え、反乱を恐れたエジプトの王ファラオが、イスラエル人奴隷から生まれた男子をことごとく処分殺害した事件がありました。そこからモーセは誕生するはずはなかったのに、ファラオの娘の気まぐれによりモーセが生き延びたのは奇跡のような出来事でした。
 しかも大人になったモーセが奴隷状態のイスラエル人を庇い、エジプト側の看守を殺害し、殺人者として指名手配されたそのモーセが、のちにイスラエルの民全体をエジプトから脱出させ救出する役割を担うことになったとは、それ自体がもともと“あり得ないこと”だったわけです。

 ヘロデ大王による、ベツレヘムやその周辺の、2歳以下の幼児皆殺し事件は、実際にあったことだったのかどうか、これに関する資料や他の証言などは残されていませんが、ベツレヘム周辺で実際に起きた事件だったとしても、噂を聞いて逃げた人々も多く、ヘロデ大王による数々の蛮行に比べれば実際の殺害数は大量でもなく、歴史家たちが注目する大事件ではなかったと思われます。

 ヘロデはユダヤ人ではなく、ユダヤの南方のエドム人の子孫で、紀元前にかろうじて独立を保っていたユダヤハスモン朝の支配下で、割礼を施されてユダヤ教に改宗したアラブ人です。ユダヤ教の神殿からは馬鹿にされ、ローマの権力者に取り入ってローマ側の徴税を代行し、かつガリラヤ地方の権力者としても君臨することができ、大王を名乗った男です。コンプレックスの塊のようなヘロデには、信頼できる兵士も親族も仲間もおらず、誰かに王の立場から失脚させられることを恐れていました。10人の妻と多数の子どもがいましたが、義兄弟複数の殺害、義父の殺害、妻の殺害、息子3人の殺害、死の直前まで被害妄想から周辺の7人以上を暗殺するなど、権力にだけしがみついた支離滅裂な人生でした。そんなヘロデの行った暗殺、殺戮などに比べたら、メシア、新たな王の出現を恐れての幼児暗殺はむしろ小さな事件だったと思われます。それでもヘロデによる殺害を免れたこと自体、奇跡的出来事だったと言えます。

 暗闇に覆われた世に、神が立ち上がられ、苦しむ人々のしんがりに立たれる、そこで起きる出来事・主のわざは、人間の思慮も想像力も超えているはずです。

 2023年を迎えました。希望や新たな光が感じられない時代です。ゴッホも世に対する失望が大きかった人だと思いますが、彼が死ぬ前に、フランスのアルル地方で暮らしていたとき、アルル地方の人々は「ひまわり」を神のみわざ、平和への希望として大事に育てて愛でていたようです。ゴッホもまた「ひまわり」を、永遠の光、ユートピアの象徴として描き続けたと感じます。主なる神が起こしてくださる奇跡を信じ、主イエスを仰ぎつつ歩み出したい。

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