東淀川教会20180418礼拝 レビ19:16-18マタイ5:42-48 主題「凸凹がえらそうに!」司会:金田恆孝

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礼拝worship
前奏prelude~招詞invitation~讃美hymn~主の祈りLord’s Prayer~使徒信条Apostles Creed ~交唱alternately Pray~Bible~讃美hymn~Message~讃美hymn~
聖餐式Holy communion~Thanks hymn~献金 donation~頌栄doxology~祝祷Benediction

4月の聖句(招詞invitation)
イエス・キリストは言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」ヨハネ20:21
Jesus therefore said to them again, Peace be unto you: as the Father hath sent me, even so send I you.

主題「凸凹がえらそうに!」
レビ記19章の語る律法とは「隣人の悪口を言うな」「隣人の悪は忠告すべき。悪に巻き込まれるな」「害する隣人に仕返しせずお互い様と許せ」に要約できる。「神」を、全ての世界の上にある「天」で表現し、天のもとで、お互いのダメさ、弱さを前提に「調和」を目指すアジア的な感覚と感じられる。
この律法(法律)を利用して「上」にいる特権階級が「下」にいる民衆を操作し、裁き、罰し、重荷を負わせる行いについての厳しいイエスの批判があった。
「敵を憎み、同胞である隣人を愛せよ」とは、国や上(おかみ)が作り出した法ではないか。「敵」も「汚れた人々(アムハーレツ・非人)も異邦人も、「神の似姿」たる人間ではないか。人間は差別を生みだすが、神は全てのいのちを祝福しているではないか。おばかで愚かな人間、自分たちの傲慢さを理解しつつ、神のもとでの調和(平安)を目指そうではないか… そんなメッセージが聞こえてくる。

エゴの固まり、餓鬼でもある「こども」が身につける「知恵」のひとつが『見つからなければ「悪」ではない』。今日の為政者の姿?
『天知る 地知る 我が知る』とは、自我(セルフ・自分と向き合う気)が目覚め、強い者に媚び、弱い者を虐める自分や、見て見ぬふりをする自分に気付き、自己嫌悪・自分を羞じる心が生じる。そこから、どんな凸凹な人間であっても、誰に対しても同じ態度で人間に接しようとするスタンス・姿勢が生じてくる。そこが自我の目覚めであり、思春期の葛藤の始まりでもある。
「こころ」は「頭」にある、という現代医療が生みだした「信仰」が蔓延し、記憶力や判断力の差で人間が序列化されていく現代。青少年と接していて、本来の「自我」が目覚めなくなっていると感じられる現代社会。
こころの別表記である「精神」とは、神の気(スピリッツ)、精を宿している人間のこころ、の意味が込められており、聖書の「神の似姿」という理解と底通している。“元気”も、神さま、「天」からいただいている「気」を表現している。「信仰」や「宗教」への抵抗がますます強くなっている現代の中で、「天」のこころを取り戻せるだろうか。

○先週の出来事
◎自衛隊の日報が隠されてきた。隠すには理由があり、そこに書かれている悲惨な現実、住民と敵とが区別つけられず現地の人々を攻撃してしまった記録などは“隠したい”現実に違いない。イラクに派遣され帰還し自殺した自衛隊員29名という現実は直視しなければならない。

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