20220710 礼拝宣教要旨「うんちは恵み」申命記23章エゼキエル書4章マタイ福音書15章

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讃美歌
1.9 力の主を
1.331 主にのみ十字架を
1.239 さまよう人々
本日の聖書箇所(聖書協会共同訳)
申命記23章 13節
陣営の外に場所を設け、用を足すときはそこへ行きなさい。

申命記/ 23章 14節
武器のほかにシャベルを携え、外でかがむときは、それで穴を掘り、再びそれで排泄物を覆いなさい。
エゼキエル書4章 15節
すると主は私に言われた。「私はあなたに人糞の代わりに牛糞を与える。あなたはその上で自分のパンを焼きなさい。」

マタイによる福音書15章 10−11節
それから、イエスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。」

マタイによる福音書 15章 15ー20節
するとペトロが、「そのたとえを説明してください」と言った。
イエスは言われた。「あなたがたも、まだ悟らないのか。
口に入るものはみな、腹に入り、外に出されることが分からないのか。
しかし、口から出て来るものは、心から出て来て、これが人を汚すのである。
悪い思い、殺人、姦淫、淫行、盗み、偽証、冒瀆は、心から出て来るからである。
これが人を汚す。しかし、手を洗わずに食事をしても、人が汚れることはない。



2022年7月10日 宣教要旨「うんちは恵み」
 特に人間のうんちは、昆虫や動植物にとって大きな恵みであることは確かです。人間のうんちを川に流したら、一里(4キロ)流れる間に魚たちが食べ尽くす、と村の長老から聞いたことがあります。人間にとっても大切なことであり、たいせつなものです。でも「不浄なもの」として差別されがちです。私の出身地である信州伊那谷には、旧正月の元旦の朝、家の便所のくみ取り口にゴザを敷いて、家族全員が正月の晴れ着を着て、便所の神さま、ウンチの神さまと一緒に食事をし、旧年の感謝と新年への祈りを捧げる行事を21世紀の今も続けている家があります。都市化し水洗便所があたりまえでウンチとのお付き合いが遠のいている現実があります。
 世界の安全排便・肛門清潔保持・糞処理についてのおおざっぱなスケッチです。
(中東)渇いた砂や渇いた小石で拭く 川の水で洗う 汲んだ水で左指で洗浄 糞を燃料として使用
(アジア)糞を魚の餌や豚の餌にする 川の中の縄で洗う 中国の紙使用6C〜
(日本)尻拭きは枯葉・海藻・蕗・木や竹のへら籌木(ちゅうぎ)を用いた。
畑の肥料として高い価値 肥だめ醗酵 堆肥作り (宮沢賢治の学校教育・農業指導) 
紙は江戸時代 武士・商人の肥買い 浅草紙 地方では藁、へらが近年まで使われた。
漢方には「人中黄」という人糞からとった薬があり解熱・解毒などに用いられました。
肥だめで人糞を発酵させ肥料として用いたのですが、発酵具合を指ですくって舐めて確認してた百姓も近年までいました。うんちとは親しい関係だったのです。
おそらく戦後、伝染病を抑えるため、とか、不衛生が病気のもと、とか、害虫駆除でDDTという薬品を散布するとか、家庭の衛生を保つためにはトイレをくみ取りから水洗トイレに変えるべき、等の、衛生局からの指導が頻繁に行われ、それが功を奏してウンチとの関係が“疎外関係”になってきたと感じています。
 世界の三分の一は屋外排泄の習慣のようです。昆虫や魚や動植物にとって人糞は恵み。自然を害するものではありません。インドの都市衛生向上のために先進国からトイレが送られたが、用いられなかった、というニュースがありましたが、まさに“後進諸国”を遅れていると見做しがちな“先進諸国”の傲慢さを感じました。

イエスの時代、神殿を中心とした支配・指導層の「選民」「聖別」思想はとても強く、イスラエル・ユダヤ人の「聖性」をいかに保つか、穢れから身を離すかが大きなテーマであり、そのために律法(法律)をどんどん増やし、それによって清浄と不浄を分け、人間自体も清浄な人間と不浄な人間とに分けることに熱心でした。
城壁に囲まれた市内の“清浄”を保つために、8つのエルサレム城壁の中で最も狭い糞門を通ってヒンノムの丘と呼ばれる場所に市内のゴミや糞尿が運ばれていました。イエスにとって糞門は、祭司長や律法学者や支配層の「清浄と不浄を分ける」傲慢の象徴であったと思われます。イエスの「狭い門から入りなさい」はこの糞門を差しており、最後のエルサレム入場もこの糞門からであったと考えられます。
 清浄と不浄の基準を作り、押しつけ、「穢れ」や「罪」として人々を裁く神殿支配者たちに向かって、「体から出るものが穢れているのではない。おまえたちの口からでる言葉(律法)こそが人々を穢している」という強烈な批判のことばをイエスは投げつけ続けていたと思われます。
「口から入るものは人を穢さない」のイエスの言葉は、律法そのものを否定することばとして響いたのでしょう。自分たちを神に選ばれた「選民」とし、選民の聖性を保つことに熱心だった祭司長や律法学者やファリサイ派やサドカイ派など指導者層をどれほど怒らせたことか、私たちの想像をはるかに超えていたことでしょう。
今も残る、ユダヤ教(豚・ラクダ・ウサギ・ほとんどの昆虫類・肉食動物)やイスラム教(豚・うなぎ・イカ・タコ・貝類)に残っている食べ物タブーのルーツをイエスは否定していたわけです。
水洗トイレが日常化し、その処理を行政に委ねている都市生活者とは、自然にとっての恵みであるうんちとの付き合い方を忘れ、自然との関係を見失い、自然の恵み、神からの恵みを“差別”しているのでしょう。

先週の出来事
逮捕された容疑者が警察の調べに対し「特定の宗教団体に恨みがあり、安倍元総理がこの団体と近しい関係あると思い狙った」と語っているとのニュース。この特定の宗教団体とは、阿部元総理も隠そうとしなかった、文鮮明率いた「統一協会・勝共連合」と思われます。狙撃は赦されませんが、狙撃者は逃げ隠れせず山上徹也と名乗り、自らの家庭を崩壊に導いたであろう統一協会の名をはっきり告げたはずです。報道管制が敷かれたのでしょうが、その言い分は正確に伝えられるべきです。

 

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