20211212 東淀川教会礼拝 創世記17:27 マタイ20:1016 ルカ15:8-9 宣教主題「お金って何?」担当 金田恆孝

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本日の聖書箇所(聖書協会共同訳)
創世記17章 27節
アブラハムの家の男子は皆、家で生まれた者も、外国人から銀で買い取った者も、彼と一緒に割礼を受けた。
マタイによる福音書20章 1-16節
「天の国は、ある家の主人に似ている。主人は、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けとともに出かけて行った。彼は、
一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。
また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場で立っている人々がいたので、『あなたがたもぶどう園に行きなさい。それなりの賃金を払うから』と言った。それで、彼らは出かけて行った。
主人はまた、十二時ごろと三時ごろに出て行って、同じようにした。五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と言った。
彼らが、『誰も雇ってくれないのです』と答えたので、主人は、『あなたがたもぶどう園に行きなさい』と言った。
 夕方になって、ぶどう園の主人は管理人に言った。『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい。』そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。
 最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと
思っていたが、やはり一デナリオンずつであった。それで、
受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、
一時間しか働かなかったのに、丸一日、暑い中を辛抱して働いた私たちと同じ扱いをなさるとは。』主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたは私と
一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。私はこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分の物を自分のしたいようにしては、いけないのか。それとも、私の気前のよさを妬むのか。』
このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」
ルカによる福音書15章 8-9節
「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、灯をつけ、家を掃き、見つけるまで念入りに捜さないだろうか。そして、見つけたら、女友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。

宣教の要旨「お金って何なの?」
 元々難民であり遊牧民であったアブラハムは、家畜を売り貨幣と交換し、蓄えた銀で難民(外国人)を雇い、群れの仲間(割礼)とし群れは大きくなった。

アブラハムが「難民」であり、遊牧生活を送ったのだが、創世記から始まる教えは“難民”のための教えであることは旧約聖書解釈のベースとしてもっと重視されるべきだと思われる。こどもにも、雇った外国人「難民」にも割礼を施した、とは、神とともに歩む民・イスラエルの同胞として認め、イスラエルの群れをおおきくしていったのだから、信仰共同体みたいなものであり、今日の私たちが考える「ユダヤ人の血統」みたいなもので理解するとかなり間違えてしまう可能性が大きい。

 主従関係は6年で終わり、7年目には(或いは50年目のヨベル・回復の年には)主従関係はなくなり自由の身となった。身分制度のようなものも一時的なものであり、神のみを主とする関係であり、神を主とする神の子らは、神に生かされ、お金や武力の奴隷になってはならない(出エジプトがそれを示す)がイスラエルの信仰の核心部分にあったと思われる。


 農園で朝から働いた者にも、昼から働いた者も、仕事にありつけず夕方来た者も同じ1デナリオンを支払う。デナリオンは1日分の生活費。親である神は子である人間が生きるための恵みを充分に与えてくださる。人間の親なる神は、人が「産めよ増えよ満ちよ」とどれほど増えても、「1日の苦労は1日で足りる」し、全ての人に1日の食料と休み場所を用意している」といわれる。あとはいただいたものの「分かち合い」の問題だけである。

朝から働くことができた者も、半分働いた者も、働くことができなかった者にも神は養ってくださる。それを分かち合え。働くことができた時間や労働の成果で隣人を差別するのか! 神の恵みになぜ嫉妬するのか! 交換価値としての“貨幣”が隣人を助け、恵みを分かち合うものとして使われるのは良いが、隣人を貨幣の奴隷とし、貨幣を得られない者を“貧しい者”として差別し、神の子としての祝福が奪われるのは間違っている! 人間の作り出した貨幣なんぞなくっても、親なる神はすべての子(人間)を養ってくださっているのにそれを妨害するつもりか!…これがイエスのメッセージだった。

 お金なんぞなくても一緒に生きていける社会こそが神の御心に叶う理想の社会、というイエスの宣言は、「お金のために働く」ことが「あたりまえ」となり、人々が国に国民として従属し、税を納め、各々の国々の経済が貨幣で成り立つ貨幣経済となっていく時代には“あまりに幼稚な、危険な思想・信仰”と見做されたと思われる。

イエスの十字架から20〜30年後に書き記された福音書では、キリスト教は危険な集団ではなく、イエスのメッセージを貨幣経済、国家とのバランス、お金が得られてこそ生活が守られる、という認識とのバランスを図ることに心血が注がれたと思われます。『キリスト教を守るため』です。その一つの典型的な例が、“見失った銀貨を発見してみんなに喜んでもらう”という話へのすり替えだったと思われます。これは、おそらく、「隣人を自分自身のように大切にすべき」のイエスの語りに対し、「じゃあ、隣人とは誰ですかね?」の問いに関連してイエスが語った話のひとつだったのではないでしょうか。子どもが生まれたら、ご近所をまわって、「わずかですが食べ物と飲み物を用意しています。ぜひ生まれた子どもを見てやってください。一緒に喜んでください。祝ってやってください」と呼びかけないだろうか。呼びかけられたら、行って一緒に喜び、「おめでとう!」といわないだろうか。それが隣人だろ? 子どもが生まれた喜びを近所のみんなに知らせて祝ってもらう素朴な風習を、『見失われた一匹の羊』『見失った一枚の銀貨』の流れの中に押し込み、社会の全体主義化を容認しながら、そこからもれるかわいそうな一人を「も」守ってくださる優しい神さまのイメージ作り、更には、「わたしたちキリスト者は、王の貨幣システム、社会の貨幣制度を大切にし、非難したり、ないがしろにする危険な集団ではありません」という身の潔白を証明するためにも「見失った銀貨」の話としてねじ曲げられたのではないかと感じるのです。

先週の出来事

先週の出来事
台湾との外交を断絶し中国との国交を宣言したニカラグア。大国同士の覇権争い、つばぜり合いの裏舞台が透けて見える。国家間の交渉は必ず裏舞台で行われるのであり、北京オリンピック外交ボイコットなど表舞台のディスプレイなんぞより、6兆円を超える防衛費という名の軍事費の増大ぶり、難民数の増大ぶりが気になる。

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