「プロテスタント」って何なのさ

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伝統・政治に依拠し、組織(セクト)の拡大に重きを置くそれまでのキリスト教会の歴史に対してNoを示し、それらを信仰の堕落として脱ぎ捨て、聖書と、信仰の原点に戻ろうとしたのが「プロテスタント」(抗議する者)だったのならば、何時の時代であれ、自分たちキリスト者の堕落を問い、自らと組織・教会を糺し続けるのがその存在意義なのだろう。それができなければ、反抗して離反した「放蕩息子」と何も変わらないのだろう。

言い方を変えれば、犯してきた罪の大きさゆえに、なにが罪かを告白し、悔い改めるにふさわしい実を結ぶ、その資格を一番持っているのがクリスチャン、ということになる。

いつの間にか、「プロテスタント」は宗派・セクトの名称となり、勢力拡大を第一義とし、キリスト教全体どころか、プロテスタントを名乗る群れ自体の歴史的な過ちすら点検も糺すこともできず、“プロテスト”される側に成り下がっている。「悔い改め」の手本にすらならないのが今の教会の姿である。

キリスト教は、いわば「歴史の中でいちばん罪を犯し続けてきた宗教」である。何が「あやまち」だったのか、なぜ誤ったのか、なぜ糺せなかったのかを語るべき責任ある当事者であり、罪を告白し、神のゆるしと、和解を求める「悔い改め」こそがその存在意義であることは、「プロテスタント」でなくともイエスの十字架を信仰の象徴とする人々にとって自明なことのハズ。

イエスの十字架のもとに我が身を置くなら、イエスの「悔い改めよ」の声を、「我」に対する一番大きな主からの声として聴くところから再出発するしかない。
「悔い改め」、そこからの再出発と新たな希望を感じられない教会には、「乾いている人」が集まらないのはあたりまえなのだ。“食えないやつら”なのだ。

「悔い改めた」ごとき顔しながら、「悔い改めよ」と叫びつつ、「悔い改め」の実を結ぶことのできない瀕死のキリスト教会。まさに私たちの教会の現実。牧師も教会員も瀕死の現実?

今だ生かされていると言うことは、まだ役立たずへの「執行猶予中」と理解できる。 二階にのぼるにもゼイゼイ息を切らせつつも、問われている声の重みは軽くはならないどころか更に重くなっている。

さてさて、「悔い改め」の実を結ぶため、なにをどこからどうはじめましょうか。

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