20210523 礼拝宣教要旨「地獄はない」

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ペンテコステ礼拝 ~イエスによる地獄からの開放のメッセージ~

地獄についての聖書抜粋(意訳)

イザヤ書28章14節
 それゆえ、(預言者を)嘲る者たちよ、主(かみ)の言葉を聞け。エルサレムでこの民を支配する者たちよ。あなた方は言った。「我々は死と契約を結び、陰府と協定を結んだ。洪水がみなぎり、溢れても、我々のもとには達しない。 我々は偽り(神話)を逃れ場とし、欺き(カナンの神話、冥府の神モトを利用して)に身を隠した。」

マタイによる福音書 5章22節
しかし私は言っておく。きょうだいに腹を立てるものは誰でも裁きを受ける。きょうだいに「馬鹿」という者は、最高法院に引き渡され、「愚か者」という者は、ゲヘナの火に投げ込まれる。

マルコによる福音書9章47-48節
もし片方の眼があなたを躓かせるなら、抉(えぐ)り出しなさい。両目がそろったままゲヘナに投げ込まれるよりは、一つ目になって神の国に入る方が良い。ゲヘナでは蛆(うじ)が尽きることも火が消えることもない。

ルカによる福音書16章23節 そして金持ちは陰府で苛(さいな)まれながら目を上げると、アブラハムとその懐(ふところ)にいるラザロ(金持ちの食卓から落ちるもので飢えをしのいでいた皮膚病患者)とがはるか彼方に見えた。

宣教要旨「地獄はない」

 「地獄」とか、「天国」などのイメージは、体系化された「宗教」以前の、死後を含む人(自分自身)の、“存在不安”に根ざす原初的な感覚が生み出す普遍的なビジョンなのだと思います。

地獄、冥府、黄泉、ゲヘナ(γεεννα)、ハデス(ᾍδης)、いろんな人を恐れさせる言葉や教えが聖書にもある。

 イエスは、本来抽象的概念である「神」を、経験的、肉感的、しかも幼児にもわかるやさしい言葉で“アッバ”(とうちゃん、かあちゃん、のチャン)と表現した。決して観念的な宗教概念を広めようとしたわけではない。宗派(セクト)を作ろうとしたわけでもない。ましてや教祖になろうとしたわけでもない。イエスは実感している“活ける神”に用いられた。今日の言葉で言えば“プラグマティズム”、固有の体験、経験、肉感に根ざす言葉で神の国を語り続けたと感じる。観念(信仰)の体系から現実、人のあり方を規定しようとするパウロとは真逆なのだと思う。

“地獄はあるか”と尋ねられたらイエスはおそらく「創世記を読んだり聞いたことはないのか!
 神は光から始めて六日間で全てを創造して七日目に休まれた。神の目から見てそれは甚だ良かった(完全だった)、とある。神が地獄を作ったなんてどこにも書いてない。そんなものを作ったのは、人々を怖がらせ支配し服従させたがっている奴らだ!」と一喝して答えたと思うのです。
 

 地獄伝承はパレスチナの古代民間神話にはあったし、ゲヘナは元来、エルサレム城門の外にあった、蛆が尽きないゴミ捨て場、処刑された罪人の遺体を捨てた場所、モレクという神への幼児犠牲(人身御供)が行われた場所でもあったという(この世の地獄)。現代社会の中にもこの世の地獄の闇は広がっており、増え続ける難民で問題、パレスチナ・イスラエル問題、ファシズム政権の弾圧などなど、いくらでもあり、こっちのほうが怖いと思うのです。

 イザヤが「エルサレムでこの民を支配する者たちよ!」と攻撃している対象は、神が作ったものでもない「地獄」を、民間伝承や神話などを利用して作り上げ、人々に恐怖を与え、裁いている(死と契約を結び、陰府と協定を結んでいる奴ら)支配者たちであり、奴らは「これは民を指導するための作り話だから、自分たちには神の裁きは及ばない」などとぬけぬけと語っている!と。

 イエスの語る例え話に出てくるゲヘナ(地獄)も、イエスが地獄はあると思っているから語っている言葉ではなく、ましてや、“あなたの中にある悪を、眼をえぐり出すほどの覚悟で統治しなさい”などと上から語りかけているのではなく、人々を“地獄”で脅しながら神殿娼婦を利用している支配者層に向けて、「お前たちの片目が女を見て欲情したなら、或いは片手が悪さをしたら、あんたらの語っている「地獄」に行かないために、その片目を抉り出し、片手を切り捨ててみせたらどうだ!」という辛辣な批判の言葉だったと思うのです。言い方を代えれば、支配者たちが人々をコントロールするために使っている「道具」としての言葉を逆手にとって、批判として使う、もっと言えば、遊んじゃっているように思います。それが支配者たちをより怒らせているし、その「道具」によって捌かれ、縛られ、苦しめられてきた弱い立場の人々の心を解放していくメッセージだったと思うのです。
 地獄について、ペトロの第二の手紙2章4節「神は、罪を犯した天使たちを容赦せず、暗闇という縄で縛って地獄に引き渡し、裁きに向けて閉じ込められました。」などがあり、「天国・地獄」という二元論は古代神話から始まる原始的理解が、イエスの処刑以後に形成されたキリスト教の中にも入り込んで、信じて救われる人・信じないで救われない人、という二元論を作り出してきました。現代でも「イエス・キリストを信じなければ地獄に堕ちる」などと脅しているキリスト教の教派はたくさんあるし、現代、それらがますます声高になっていると感じます。


 イエスの福音(喜びの知らせ)は“だれもが神、アッバによって命を吹き込まれた神の子なんだ。だから死んだらだれもがアッバのもとに帰るんだ”という、明るいシンプルなメッセージだったと思うのです。ただし、「地獄」を語り、恐れさせ、人を裁いてきた人たちは、自分たちの作った「ゲヘナ・地獄」に落ちてしまうのかもしれませんが。


 先週の出来事 
 米バイオ製薬モデルナが、日本で承認された同社製の新型コロナウイルスワクチンについて、日本での生産を検討、とのニュース。これって、“日本車ではダメだから米国企業のアメ車を日本で日本人のために生産します”みたいな話

1件のコメント

  • イエスの福音は“だれもが神によって命を吹き込まれた神の子。死んだらだれもが神のもとに帰る”という、明るいシンプルなメッセージに同意、共感します。
    科学的な探求が進むほど、宇宙の中で、地球の誕生、有機物の誕生、生命の誕生、多様な生き物や人間の誕生、出産など、それぞれの誕生や出産自体が数多くの条件がそろわないと生まれない、みんな等しく奇跡的なことだと分かってきています。イエスの教えは正にこの認識につながります。
    「地獄へ落ちる」とは誤った観念(迷信)、人を支配する方便にすぎません。でも、自分たちでつくった誤った観念で人を支配や攻撃しようとする人たちは、結構身近にもいます。迷信に惑わされないためには、事実を集めて真実を導き出し、賢く認識や反証する必要がありますね。

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