20210110 東淀川教会礼拝宣教要旨「疫病への祈り」

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民数記16章46ー48節 Numbers
16:46モーセはアロンに言った、「あなたは火ざらを取って、それに祭壇から取った火を入れ、その上に薫香を盛り、急いでそれを会衆のもとに持って行って、彼らのために罪のあがないをしなさい。主が怒りを発せられ、疫病がすでに始まったからです」。 Moses said to Aaron, “Take your censer, and put fire from off the altar in it, and lay incense on it, and carry it quickly to the congregation, and make atonement for them; for wrath has gone out from Yahweh! The plague has begun.”16:47そこで、アロンはモーセの言ったように、それを取って会衆の中に走って行ったが、疫病はすでに民のうちに始まっていたので、薫香をたいて、民のために罪のあがないをし、Aaron did as Moses said, and ran into the midst of the assembly; and behold, the plague has begun among the people: and he put on the incense, and made atonement for the people.16:48すでに死んだ者と、なお生きている者との間に立つと、疫病はやんだ。 He stood between the dead and the living; and the plague was stayed.

使徒行伝1章13-14節 Acts
1:13彼らは、市内に行って、その泊まっていた屋上の間にあがった。その人たちは、ペテロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党のシモンとヤコブの子ユダとであった。When they had come in, they went up into the upper room, where they were staying; that is Peter, John, James, Andrew, Philip, Thomas, Bartholomew, Matthew, James the son of Alphaeus, Simon the Zealot, and Judas the son of James.
1:14彼らはみな、婦人たち、特にイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちと共に、心を合わせて、ひたすら祈をしていた。All these with one accord continued steadfastly in prayer and supplication, along with the women, and Mary the mother of Jesus, and with his brothers.

宣教題「疫病への祈り」
  疫病(はやり病い)はいつの時代もとても恐ろしいものだった。モーセの時代、いつ誰がどうなるかわからない天災や疫病の前で、指導者は事態を見極めつつ、疫病のもつ「毒性」「感染力」「潜伏期間」「回復期間」などを直感的に把握し、災難を全ての人々に対する「神からの怒り、警告、メッセージ」として謙虚に受け止め、安息日の戒めを用いて「籠もるべき人とその期間」「個人の行動の制限」「集団行動の制限」「互いの距離の取り方」「身辺の清潔」などを細かに指示していたようです。モーセやアロンによる状況の変化に応じた仕切り方、細則などに対し、身内から感染者がでた人々、特にそれまで周囲の人々を仕切ってきたレビ人たちから「自分たちのことは自分たちで決める」と、モーセらの「仕切り」に逆らった人々もいた。モーセはアロンに命じて香を焚き、香炉を用いて危険な人々と危険ではない人々とを分け、距離を取らせた。従わなかったグループから疫病に倒れていったようです。
 人間は祈る動物です。宗教の本義は「祈り」です。災難のまっただ中だからこそ、「先に死んだ者への祈り」「床に伏している者への祈り」「恐れ怯えている者への祈り」「回復した者による感謝の祈り」などを示し導いていくことが「宗教指導者」に求められます。祈りの中で各々が自分の置かれた状況や危険性を感じ取り、身の処し方を判断するようになる。その祭具のひとつが危険な人々とそうでない人々との距離を保つツールとしての香炉であったようです。
 一部のお寺で「ウィルス退散」の護摩供養を静かに行っているようですが、宗教界全体としては「人の集まりやすい宗教施設における集会そのものを控える」として、病や不安を抱える人々が放置され、祈りの場をもてずにいるのが現状のように感じます。宗教者の働きを何もせず、国や医師の判断や指示任せにしたまま、宗教施設や宗教指導者の保全と維持のみに心を砕いているように感じられます。
 集う人々が、互いに疑心暗鬼にならぬよう、それぞれの危険性に応じて、分けながら、それぞれの、異なる祈りを取り次いでいくことが宗教指導者に求められていると思うのです。何よりも、祈りによってこそ、災難を受け止め、悩み苦しみや嘆きを分かち合い、乗り越えていく「ちから」が与えられるのであり、そこにこそ“宗教”の本義があると思うのです。

先週の出来事
北朝鮮の金正恩委員長は開催中の第8回朝鮮労働党大会で「米国を屈服させる」と報告し,米首都を射程に収める核・ミサイルの開発を進める方針も示した,とのニュース。チャプリンの映画「独裁者」で、椅子の高さをとなりと競い合い、ついには天井にぶつかってしまう場面を思い出した。大国同士の泥仕合の狭間で、周辺諸国に対し、高みから研いだナイフを見せびらかし、ナメとったら刺すぞ!と言い続ける委員長?「大統領の就任式にはでない」とゴネる米国大統領?元慰安婦・徴用工問題で隣国、韓国裁判所の判決に対し、身を正すこともせず鼻にも引っかけない態度に出た日本国首相? おとなはいない?

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