20190505東淀川教会礼拝 

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  • 申命記5章11-14節
  • マルコ福音書2章23-28節
  • 司式・牧仕 金田恆孝

復活後第三主日礼拝 2019年5月5日
旧約聖書  申命記5章11-14節
11 あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。主はその名をみだりに唱える者を罰しないではおかないであろう。
12 安息日を守ってこれを聖とし、あなたの神、主があなたに命じられたようにせよ。
13 六日のあいだ働いて、あなたのすべてのわざをしなければならない。
14 七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたも、あなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、牛、ろば、もろもろの家畜も、あなたの門のうちにおる他国の人も同じである。こうしてあなたのしもべ、はしためを、あなたと同じように休ませなければならない。

新約聖書 マルコ福音書2章23-28節
ある安息日に、イエスは麦畑の中をとおって行かれた。そのとき弟子たちが、歩きながら穂をつみはじめた。すると、パリサイ人たちがイエスに言った、「いったい、彼らはなぜ、安息日にしてはならぬことをするのですか」。そこで彼らに言われた、「あなたがたは、ダビデとその供の者たちとが食物がなくて飢えたとき、ダビデが何をしたか、まだ読んだことがないのか。すなわち、大祭司アビアタルの時、神の家にはいって、祭司たちのほか食べてはならぬ供えのパンを、自分も食べ、また供の者たちにも与えたではないか」。
また彼らに言われた、「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない。
それだから、人の子は、安息日にもまた主なのである」。

聖書から聴く 主題「所有の放棄こそ安息」
安息日とは、何もしてはならない、自分が自分の主人であることを放棄する、自分のための計らいを放棄する時を過ごす。神こそ我が主、という「生かされ方」に戻るときである。召使いや奴隷も義務から解き放たれる時である。事前に作っておいたものを暖めもせず冷えたまま食べる。食事の調理からも完全に離れることになる。店もタクシーもバスも止まってしまう街もある。日本の農村でも正月三日間はすべてが止まってしまう文化もあった。これもまた大切な区切り、リセットのときだったのだろう。
イエスとともに働く弟子たちが麦の穂を摘んだ。仲間の体力を保つための準備である。それを一律の規律違反として責め立てる者たちがいた。が、イエスたちにとって今は安息の時でもなければ断食の時でもない。まさに必死で働くべき時だった。

この自分や自分たちの計らいを捨てる、という安息の習慣が、余計に持ちすぎた食べ物や所有物を、集会所や礼拝所に持ち寄って神に返す、捧げる、という習慣を生んだ。仏教でいうところの「喜捨」である。所有者から非所有者へものが流れれば与える者と与えられる者との精神的格差・優劣は露骨に広がるしかない。
礼拝における献金も、バザーの献金も、本来はこの神に捧げる「喜捨」であり、食べ物に困っている者、必要なものをそれぞれの必要に応じて手に入れてよいものとなる。しかしそれを神殿の財産、富として蓄える習慣がすでに始まっていた。それにたいする怒りの声がイエスから聞こえる。

生きるための糧の分かち合い、地域における助け合い(福祉?)の本来の姿がここにあると思う。
ただし、明治以降の、国家主体による、政策としての「福祉」は、地域における助け合い・支え合いの
関係からはかけ離れたものとなってしまっている。

○先週の出来事(気になるニュース) 
天皇を中心とした時代が大きく変わる、というイメージコントロール、マインドコントロールがマスコミを使って激しく行われている。せめて、恩赦によって死刑囚の身分が100年の懲役囚にでも変わるのなら、多少コントロールされてもいいと思うのだが、それすらなさそうだ。「恩赦はあるのか?」という問いすらマスコミは発しようともしない。

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