2020年9月6日 東淀川教会礼拝 宣教題「男と女のダイナミズム」 

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創世記21章9-17節
9 サラはエジプトの女ハガルのアブラハムに産んだ子が、自分の子イサクと遊ぶのを見て、
10 アブラハムに言った、「このはしためとその子を追い出してください。このはしための子はわたしの子イサクと共に、世継となるべき者ではありません」。
14 そこでアブラハムは明くる朝はやく起きて、パンと水の皮袋とを取り、ハガルに与えて、肩に負わせ、その子を連れて去らせた。ハガルは去ってベエルシバの荒野にさまよった。
15 やがて皮袋の水が尽きたので、彼女はその子を木の下におき16 「わたしはこの子の死ぬのを見るに忍びない」と言って、矢の届くほど離れて行き、子供の方に向いてすわった。彼女が子供の方に向いてすわったとき、子供は声をあげて泣いた。
17 神はわらべの声を聞かれ、神の使は天からハガルを呼んで言った、「ハガルよ、どうしたのか。恐れてはいけない。神はあそこにいるわらべの声を聞かれた。

マタイ福音書1章1-19節

1 アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。

2 アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを、

3 ユダはタマルによってペレツとゼラを、ペレツはヘツロンを、ヘツロンはアラムを、

5 サルモンはラハブによってボアズを、ボアズはルツによってオベドを、オベドはエッサイを

6 エッサイはダビデ王をもうけた。ダビデはウリヤの妻(バテシバ)によってソロモンをもうけ、

16 ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。

18 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。

19 夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。

宣教題「男と女のダイナミズム」副題「女よ 泣いている場合ではない」

 聖書における女の悲しみは、アブラハムの妻サラに追い出された借り腹の女、ハガルの嘆きだった。イエスの系図に出てくるタマルは夫と死別した売春婦で義父ユダを誘惑して子種をゲットし生活の場を獲得した。ラハブは売春婦で異教徒だが侵入者イスラエルとの戦いでエリコの町を裏切り敵であるイスラエルを侵入させ、勝利に導いた寝返り者。ルツは夫と死別した異邦の民モアブ人。ボアズと再婚し良妻賢母の鏡のような女。ウリヤの妻、バテシバはダビデを誘惑し夫ウリヤを殺害させ、王妃となった女。

 イスラエル民族は男の族長に導かれ移動してきた家父長制、男系で歴史を記す民。(神の子)イエスの系図に登場する売春婦、異邦人、スパイ、王を誘惑し夫を殺害させる凶悪な(?)女、などが登場する。系図ではないが、バプテスマのヨハネを殺害させたへロディアの娘(サロメ)は冷血で美しい少女として繰り返し語られ描かれてきた。

 以下は桑原重夫氏の「歴史とテキスト」を参考、引用させていただいた。マタイ福音書におけるイエスの系図の中に「ふさわしくない女」が含まれていることについて、内村鑑三や塚本虎二などは「罪人を招き赦す神」が示されていると語る。或いは、異邦人、混血を包含する新しい、真のイスラエルがそこに描かれている、という主張もある。或いは、イエスの母マリアはヨセフと一緒になる前にすでに身籠もっていたのであり、神のみわざは人の理解を超えるもの、というメッセージもある。更に近年、女性解放(フェミニズム)の立場から、「マタイの福音書には、差別抑圧されてきた女性の社会的地位向上に向けた先進的な捉え方がある」というふうに主張する聖書学者たちもいる。

 聖書に書かれたものを「尊重」し、政治的課題である「女性解放」の論理が聖書にあるのだから、それを聖書から導き出そうとするフェミニズム運動はずれていると思われる。
 しかし、マタイ福音書自体は伝統的なユダヤ人だけでなく、ギリシャ文化にちらばっているイスラエルの民や異邦人に向けて書かれており、男中心、家父長制に根ざしてはいるが、血統主義、男だけを人として数える感覚からはすでに外れているが、「新しいイスラエル」という選民主義、国家主義に貫かれている。

それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、 あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。」マタイ28章19-20節
 現代に置き換えれば、「天皇を中心とするならば、蝦夷地も日本、琉球も日本、女性にも参政権」として統合してきた歴史に似ている。

 国家の改善、政治課題を聖書と結びつける流れは注意すべきと思う。国家戒壇、キリスト教の国教化などはもってのほか。

 1840~1930年頃、米国の禁酒、禁煙、公娼廃止、純潔運動をリードしたのはドライと呼ばれるプロテスタント諸派、メソジスト、バプテスト、長老派の諸教会で、政府が(上から)道徳を定めなければならない、という主張だった。道徳は国家が定めるものではないと反対したのはウェット、ローマカトリックと聖公会、ルーテル教会など。日本に入った「ドライ」の流れが、日本キリスト教婦人矯風会となり、禁酒、禁煙、婦人参政権、公娼廃止運動から、現代では従軍慰安婦問題、女性国際戦犯法廷、男女共同参画などを作り出してきたと思われる。「男もいろいろ女もいろいろ」枠にはまらないダイナミズムこそ重要。 イエスの「神の国」メッセージは、人のあり方や道徳・倫理を国が上から定め、下がそれを支える「全体主義」とは真逆な方向にあると思われる。

先週の出来事
次期の内閣は第三次安倍内閣なのでしょうか。しなければならないことを何もしなかったことが引き継がれるのでしょうか。なにもできない、何もしないことがこの国の今置かれている実情なのでしょうか。先祖や死者との交流であるお盆の行事も、地域の神々を社から担ぎ出し一緒に道を練り歩く祭りも、教会のバザーも、夏を共に送る花火大会もストップしたまま、何もできない2020年はどうなるのでしょうか。未だ終戦と言いつのり終わったことにしたがっている国がちゃんと敗戦するための「なにもできない1年」だったら本物の民主主義が生まれるかも知れない。

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