20210314 宣教要旨「死者の声を聴く」

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(聖書協会共同訳)
イザヤ書2 4
主は国々の間を裁き多くの民のために判決を下される。彼らはその剣を鋤にその槍を鎌に打ち直す。国は国に向かって剣を上げずもはや戦いを学ぶことはない。
He shall judge between the nations, And rebuke many people; They shall beat their swords into plowshares, And their spears into pruning hooks; Nation shall not lift up sword against nation, Neither shall they learn war anymore.(国連前広場 イザヤの碑文)
イザヤ書31章 1節
災いあれ、助けを求めてエジプトに下り馬を頼みとする者に。彼らは戦車の数が多く騎兵が強力であることに頼りイスラエルの聖なる方に目を向けず主を求めようともしない。

マルコによる福音書11 1518
それから一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを覆された。
また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。
そして、人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。『私の家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。』ところが、あなたがたはそれを強盗の巣にしてしまった。」
祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った。群衆が皆その教えに心を打たれていたので、彼らはイエスを恐れたからである。

宣教要旨「死者の声を聴く」
人間の意識の基本は今をどう生き延びるかで、危険を回避し食べ物と睡眠を確保しようとする。自分だけでなくかけがえのない愛する者を守ろうとする。そのためには奴隷状態に甘んじるか否かは二の次の選択となる。

 紀元前8世紀のイザヤは、モーセにより奴隷から脱出した民が再び巨大軍事国家の奴隷・兵士となっていることを告げ、武器を農具に打ち変えよと語る。

 イエスは民の隷属化と生産物の収奪に神殿(宗教)が大きな役割を果たしていることを厳しく責めて具体的な行動を起こした。今日で言えば「反社」、テロ行為であろう。

 東日本大震災・原発事故から10年目の報道特集が各局で組まれていた。それぞれの被災地にあって心の傷が未だ癒えない人々、市町村の復興に努力している人々。しかし、故郷に帰還を諦めた人々、帰還したくても帰還できない人々の声を特集している報道はほとんどなかった。

 天災は死者とともに乗り越えてきたし、これからも乗り越えていける。が、人災は戦争であれ殺人であれ、経緯と責任が明らかになり、過ちを繰り返さないための道が開かれない以上、乗り越えていくことは困難である。もしも天災のみで原発事故・放射能汚染がなければ、十年目の風景はまったく違っていたと思われる。故郷に愛着があっても子どもたちや愛する人々を汚染の危険に晒したくない避難者は多かったと思われる。しかも、広島や長崎の被爆者たちが二度と過ちは繰り返しませんのメッセージを今も発し続けているのに比べ(それがどれほど国内で共有されているかは別として)、「No More 原発・核災」の声を被災地・被災者が挙げられない現実が続いている。低線量の外部被曝・外部より十倍多いといわれる内部被曝であれ、東北被災地の身体とそしてこころを確実に蝕んでいると思われる。汚染水の処理も汚染物の処理もいまだ方向が見えない。「核燃」は米日世界戦略の中で不可欠なエネルギーとして推進が図られてきた。「核災」の多少を問わず日本国家の軍事戦略上今後も変わることはないのだろう。イザヤ書31章1節の「災いあれ、助けを求めてエジプトに下り馬を頼みとする者に。」は、米日世界戦略=米国の巨大軍事力への従属そのままであろう。
 本来は殺された、死んでいった魂、黙したまま天に帰った人たちの思いを呼び出してその声を聴くことが宗教者の役割だったし、今も変わぬ「つとめ」だろうと思う。宗教者としての自分の無力さを痛感する。

先週の出来事

フィリピンドゥテルテ大統領の独裁体勢下、尋問も起訴も裁判もなく麻薬関連を疑われた人々が次々と自警団(大統領直属の武装組織)や警官により射殺されている報道。そのこと自体、フィリピン国内で報道されているか、人々に知られているかは別として、それでも民衆の支持率が非常に高いことの背景に横たわっているフィリピンの闇の深さをあらためて痛感する。

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