20221113 宣教要旨 イエスの笑い 目に入ったおが屑 目の中の梁 目の中の丸太

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聖書箇所 マタイによる福音書7章1−6節 ユダによる福音書1−2章 担当 金田恆孝
2022年11月13日 週報№2789 降誕前第6主日礼拝

マタイによる福音書7章 1〜6節
「人を裁くな。裁かれないためである。
あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量られる。
きょうだいの目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目にある梁に気付かないのか。
きょうだいに向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に梁があるではないか。
偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、きょうだいの目からおが屑を取り除くことができる。
聖なるものを犬に与えてはならない。また、豚の前に真珠を投げてはならない。豚はそれを足で踏みつけ、犬は向き直って、あなたがたを引き裂くであろう。」

ユダによる福音書 (意訳)
1章1節 イエスが人々の前に現れてから、彼は多くの人々の救いのために大いなる奇跡を起こした。
2節 イエスは働く仲間たちに対して、自分自身のことは語らず、大人の指導者として振る舞うことはなかった。むしろ、外側の人々の目には、この集団の中に子どもっぽいイエスが映っていた。
2章1節 ある日ユダヤでイエスは仲間たちのところへ行き、彼らが一緒に座して、食事について大真面目に決まり文句の感謝の祈りを、声をそろえて唱えているところに出くわした。イエスは笑った。
2節 彼らは言った。「なぜ私たちの感謝の祈りを笑うのですか。私たちがしていることは正しいことではないのですか」
3節 わたしはあなた方のことを笑っているのではありません。あなた方は自分の思いと自分の言葉で祈っているわけではありません。決まり文句の祈りで、決まり切った(作られた)神が賛美を受けているのでしょう。

宣教要旨 笑うイエスの声 おが屑と目の中の丸太

 イエスが笑う姿は共観福音書に直接描かれてはいません。旧約聖書などにも“嘲笑う”はありますが、健康的な、楽しげな笑いについては、(詩篇の一部にはありますが)ほとんど見当たりません。が、イエスのメッセージには、明らかにユーモアや“明るい笑い”が響いているのを感じます。イエスの笑い声や、それを聞いている人々の笑い声を感じないで読むことのほうが難しい箇所はたくさんあります。

 新約聖書外典「ユダの福音書」(信仰の書としては排斥されてきたグノーシス派の書)には、子どもっぽい姿のイエスと、イエスの笑う声、笑う姿が描かれています。

 イエスの譬え話に「おが屑と目の中の梁(目の中の丸太とも訳される)があります。 イエスは養父ヨセフ(大工)と母マリアの子と呼ばれています。おそらくヨセフの死後も大工仕事で家計を支えたと想像できます。そんなイエスが、ノコギリによる裁断、木の加工から出るおが屑や太い木材を用いて譬え話を語る時、体験を交え、笑いながら楽しげに、ありありと語っていたに違いありません。

 中東、パレスチナの地域で、砂ぼこりに悩む、目を痛める体験や、眼球が傷つきばい菌が入り失明することへの恐れは、誰にでもあったのでしょう。イエスがこんなふうに語ったんじゃないか、と想像してみます。

 「砂ぼこりや虫やおが屑のような小さなものでも目に入ると、痛くてたまらないよね。川やきれいな水がなければ洗い流すこともできないし、自分では怖くて取り出せないから、誰かに取ってくれとお願いするしかないよね。」「誰でも、隣人の目にゴミが入って痛がっていたら、水や、水がなければ唾液や布や紙などで工夫して取ってあげるよね」

「でも、痛いわけでもないし、こちらからお願いしたわけでもないのに“あなたの目はゴミで濁っていて良し悪しが判別できなくなっている。私がそれを取り除いてあげよう”などと助言・アドバイスのフリして人をコントロールしようとする奴らがいっぱいいる。

 他の人の欠点ばかりあげつらって自分の欠点に気がつかない大人たちがいるよね。そんな人たちの目の中をよ〜く覗いてごらん。目の外側じゃなくて目の中だから、もう痛くはないのだろうけれど、たくらみという名の丸太が入っているのがきっと見えるよ。おもしろいだろ!」

「でも、そんな大人に向かって、へたにアドバイスはしない方がいいと思うよ。よけいに怒り出して、あなた方を攻撃してくるだろうからね。」


 この“おが屑と丸太の喩え”は、現代の、子どもたちに対する「発達障害」診断の諸問題がとてもよく当てはまると感じています。近年の「発達障害」という言葉は、“人間の発達にはみんなでこぼこがあって、基本的には治さなければならない病気ではない”という認識から広まり始めたと思います。でも、現在ではADHDとか自閉症スペクトラムとか学習障害とか、さまざまな「病名、或いは、手当をしなければならない障害名」として流布され、特別クラスや特別学校に分けられたり、病院に通って投薬治療を受けたり、〇〇セラピーと称する特別な訓練を受けなければならない実態が広がっています。そのために、幼少期や、学童の低学年の時から、脳に直接働きかける“向精神薬”の投与を受ける子どもたちが増えています。15歳以下の、脳が発達途中の児童に向精神薬は投与すべきではない、との専門医の声もありますが、“治療”と“社会・環境適応”が優先されています。これらの、子どもたちへのアプローチが、本当に一人一人の子どもにとっての「助け」「利益」「生きるちから」になっているかは甚だ疑問です。学校への不登校、引きこもり、子どもや青年期の自殺数など深刻な実態は、確実にますます増加しています。

 子どもたちや他人の目のゴミばかりを問題にしているけれど、自分の目の中に大きな梁・丸太が入っているのに気づかない大人たち、教師たち、専門家たち、親たちの方が、実は深刻な事態ではないかと感じるのです。

 もちろん、私自身の“目の中の丸太”に気づく努力は続けますが、。私の中の、全く見えていないことなどに気づかれたら、決して反撃などしませんから、教えてくださるようお願いします。


 先週の出来事

葉梨康弘法務大臣の「法務大臣は死刑執行のハンコを押すときだけ目立つ地味な仕事」発言。目立ちたかったの? ハンコを押す前に判決を精査した? 冤罪への恐怖はないのか? 再審請求はなかったの? 責任者として死刑執行への立ち合いはしないのか?

 人の命を刑死させることへの逡巡や苦悩の一欠片も感じられない“目立ちたがり屋”が法の番人とは、この国はいったい…

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