20220918 宣教要旨「イエスはひとりで祈った」ヨナ書2:8-11 マルコ1:35 ルカ5:15-16 ルカ11:1 担当:金田恆孝

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2022年9月18日 週報№2781聖霊降臨節 第16主日礼拝 
本日の讃美歌 1.51 日影静かに 1.58神よ御前に 1.512我が魂の慕い奉る
本日の聖書箇所(聖書協会共同訳)
ヨナ書2章8-11節
命が衰えようとするとき 私は主を思い起こした。私の祈りはあなたに届き あなたの聖なる宮に達した。空しい偶像に頼る者たちは慈しみの心を捨てている。だが、私は感謝の声を上げ あなたにいけにえを献げ、誓いを果たそう。救いは主にこそある。主が魚に命じると、魚はヨナを陸地に吐き出した。
マルコによる福音書1章 35節
朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。
ルカによる福音書5章 15-16節
しかし、イエスの評判はますます広まり、大勢の群衆が、教えを聞いたり病気を治してもらうために集まって来た。だが、イエスは寂しい所に退いて祈っておられた。
ルカによる福音書11章 1節
イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください」と言った。

宣教の要旨「イエスはひとりで祈った」

 ヨナさんもイエスも主の声を聴き続けていました。
この「主」とは今日のキリスト教でよく用いられる言葉です。(ヘブライ文字・ヤハウェ ヘブライ語(私の主)・アドナイ  ギリシャ語・キューリオス ラテン語・ドミヌス 英語・ロード アラビア語・アッラップ・アッラー ドイツ語・ヘア 
スペイン語・セニョール    アラム語 アバ 
(イエスが用いた、万物の父母 幼児が父母を呼ぶ幼児言葉 日本なら、チャン! に相当するか?) 
「主」に込められた意味は、“わたしにとってもっとも大切な唯一onlyの父母” “すべてのいのちにとってallの父母” 、onlyとall、そして  永遠の eternity  を込めた言葉です。

ヨナさんの祈りも、イエスの祈りも、一方的に何かをお願いする「祈り」ではなく、“主の声を聴く”から始まる、「主」との対話です。ヨナさんは主の声を聴かないふりをして逃げ続け、逃げ切れずに、終には自身を捧げ物として献げ、大魚の中で最後の時を迎えた。このいのちは神の慈しみの中にあったことの感謝を語り、自らを神に捧げ、「神のもとに迎えられる救い」を祈り求めました。が、主なる神はヨナさんを更に用いるために、大魚に命じてヨナさんを吐き出させます。旧約聖書の「ヨブ記」も「ヨナ書」も、祈りが“主との対話”であることを、本質的に、とてもわかりやすく示しています。

 まことの「主」のことをイエスから聴こうとする人々、癒やされようとする人々がイエスたちのもとに押し寄せていました。それに応えようとイエスは激しい活動の中でも、主の声を聴き続けながら、ときには人々や仲間たちから離れて一人寂しいところに退き、日々の激しい働きで疲れた身体とこころを休めながら主なる神との対話の時を過ごしていた、それを示す一部が、本日取り上げた聖書箇所です。

 イエスたちの活動は、当時の社会・宗教、人間観から押し出された(疎外された)人々の、「神の子」としての尊厳を取り戻す活動だったと確信しています。神殿の律法を利用し、病・病気を利用し、人々を差別・分断する“悪しきちから”に対し、イエスは『あなたがたは神の子に何すんねん!』とたびたび叱りつけていたと確信しています。ただし、福音書が記された、イエスの十字架から数十年経た時代は「イエスこそ神の子」という宣教が重要なテーマとなり、「神の子」概念が変質したと思います。

 そのイエスも、仲間たちも、自分たちの身を守りながらシステマティックに(例えば、野戦病院の活動のように)活動していたわけではなく、求めてくる人々に、臨機応変に対応していたでしょうし、エネルギーを奪われる働き方だったはずです。その、疲れたからだや心を癒やすために、たったひとりの自分と、主との対話の時が不可欠だったはずです。言い方を変えれば、主のカウンセリングを受けて、主に癒やされていたと思うのです。

 現代の「カウンセリング」という言葉は、「心身(精神・心理・こころ)の問題・疾患を解決する、軽減するためのもの」という、医学モデルからくる考え方がありますが、本質は、それぞれの「わたし」が、わたしにとっての“全体性”を取り戻すための行為です。イエスの活動からいえば、「神の子」としての尊厳を取り戻すことだと思います。

 宗教や宗派、民間療法などは異なっていても、古より行われてきた「瞑想」「座禅」「ヨーガ」「巡礼」「曼荼羅」も、現代の「マインドフルネス」も、「固有状況のわたし」を離れて、宇宙・永遠と向き合う作法・手法の別名なのだと思います。
  イエスが行い、教えた「祈り」も、生ける神と向き合い、内側と外側両方にわたる「全体性」を取り戻すための大切な示唆だと思うのです。不幸の極みに追い込まれたヨブの「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」ヨブ記1:27 もこの「全体性」を取り戻すための祈りでしょう。


 全体の中のかけがえのない存在」について、アインシュタインの言葉を引用したい。
 「人間は我々が宇宙と呼んでいる全体のなかの限定された一部でしかない。人間は何かをきっかけにして自分の意識に対する幻想が起こり、自分自身や思考や感情が、全体から切り離された孤独な牢獄の中にいると感じ、自分自身を見失う。私たちはあらゆる生命と自然全体を抱擁するために、神の慈しみに生かされてきたこと、生かされていることを憶え、神の慈しみの輪を広げて、この牢獄から自分を解放しなければならない」(アルベルト・アインシュタインの手紙1972) 

先週の出来事
北朝鮮に拉致された横田めぐみさん(行方不明時13歳)の父滋さんが二年前6月5日に87歳で亡くなり間もなく2年。めぐみさんの母早紀江さん(86)や弟である飯塚耕一郎さんの「なんで(事態は)うごかないのか」の声が、テレビ番組を通じてであるが、私たちに突き刺さります。拉致事件があったことは国連でも明らかにされ、一部の人たちの帰国はありましたが、現在の生存を確かめる、など、それ以上事態を動かすことを阻んでいるのはなんでしょうか。「待ったなし」は「国」にとっての「待ったなし」ではないのでしょうか。それ以上に、この国自体が『待ったなし』の状況に追い込まれているとも感じます。

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