190714 宣教要旨 詩編23篇 マルコ福音書6章 司式・宣教 金田恆孝  

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旧約聖書 詩篇23篇
主はわが牧者なり われ乏しきことあらじ 主はわれをみどりの野にふさせ
いこいの汀(みぎわ)にともないたもう
主はわが魂を活かし 御名のゆえをもて 我を正しき道にみちびきたもう
たといわれ死のかげの谷を歩むとも わざわいをおそれじ なんじ 我とともにいませばなり
なんじの笞(しもと) なんじの杖 われをなぐさむ
汝、わが仇(あだ)のまえに わがために宴(えん)をもうけ
わが頭(こうべ)に油をそそぎたもう わが酒杯(さかずき)はあふるるなり
わが世にあらんかぎりは かならず恵みと憐れみと 我にそいきたらん
われはとこしえに主の宮に住まん

新約聖書 マルコ福音書6章37-44節
6-38 And he saith unto them, How many loaves have ye? go and see. And when they knew, they say, Five, and two fishes. 6-39 And he commanded them that all should sit down by companies upon the green grass. 6-40 And they sat down in ranks, by hundreds, and by fifties. 6-41 And he took the five loaves and the two fishes, and looking up to heaven, he blessed, and brake the loaves; and he gave to the disciples to set before them; and the two fishes divided he among them all.6-42 And they all ate, and were filled.6-43 And they took up broken pieces, twelve basketfuls, and also of the fishes. 6-44 And they that ate the loaves were five thousand men.
するとイエスは言われた。「パンは幾つあるか。見てきなさい」。彼らは確かめてきて、「五つあります。それに魚が二ひき」と言った。
そこでイエスは、みんなを組々に分けて、青草の上にすわらせるように命じられた。人々は、あるいは百人ずつ、あるいは五十人ずつ、列をつくってすわった。それから、イエスは五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福し、パンをさき、弟子たちにわたして配らせ、また、二ひきの魚もみんなにお分けになった。 みんなの者は食べて満腹した。
そこで、パンくずや魚の残りを集めると、十二のかごにいっぱいになった。パンを食べた者は男五千人であった。

聖書から聴く 主題「主は我を緑の野に伏させ」
交読文の文語調の響きって、やっぱ、いいですね。聖書の原語と、日本語の歴史との調和を図るための挌闘の歴史を感じるのです。「若い人にも子どもにも理解しやすい易しい言葉で」っていう、自分の頭基準の意見、差別につながることばをやめましょう、などという「自分の気持ち基準」、「運動基準」の言い換え、言葉狩り、などがますます聖書のメッセージをつまらないものにしている気がします。

マルコ福音書によると、この箇所はイエスや弟子たちが「貧しい人々」を訪れたのではなく、彼らが休もうとしている、さみしい祈りの場、休息の場に、勝手に先回りをして押しかけてきたことになっている。おとなの男だけで5千人とありますから、女こども含め二万人以上の人が集まっていたのでしょう。今日の難民キャンプのようなイメージでしょうか。イエスや仲間達の休憩場所を勝手に襲われたのだから、さっさと追い返していい。ある程度受け入れたとしても夕方になれば、夕食も寝るところも自己責任でバイバイするのが事前だろう。が、イエスは彼らの様子を見てそれをせず、弟子達に「食べ物を与えようではないか」と言う。
男一人が1家族とするなら5千家族。それを100家族か50家族毎に分け、整然と配置させたようです。おそらく、全体から見える小山、或いは大きな岩の上のうえでイエスは五つのパンと二匹の魚を神に捧げる「儀式」を執り行ったと思われます。
神に捧げた5つのパンと二匹の魚が、神からの恵みに変えられ、5千家族のお腹を充分に満たし、殘りをそれぞれが持ち帰ることができるほどたくさん余った、とあります。
「五つのパンと二匹の魚がどう変化したか」とか、「イエスがどんな奇跡を起こしたか」と、つい考えてしまいがちですが、イエスではなく「神が奇跡を起こされた」と解釈する方が自然でしょう。
現在世界には6500万人の難民がおり、これは第二次世界大戦の戦死者数とほぼ同じだといわれます。“悲惨な戦争”は今も続いていることになります。
「二匹の魚と五つのパン」は自然を通して与えられる恵みとしての食物と、天然の恵みを人間の手で工夫・加工したものを現していると考えられます。
排他的な国家作り、国境の壁づくりが“悲惨な戦争”を持続させていることを各国が気づき、悔い改め、経済戦争から撤退し、神からの恵みをわずかずつでも神さまに委ねていけば、「悔い改めたニネベの町」になることができると思います。
これだけ過疎の村や過疎の島がたくさんあるのに、世界の難民を受け入れ、自活の援助をすることがこの国でなぜできないのでしょう。国境の壁をつくろうとしているどこかの国と同じなのでしょうか。

○先週の出来事(気になるニュース)
所沢市の中学校で同級の友人を友人宅で殺害した事件。同じ中学校で一昨年は電車への飛び込み自殺、去年は屋上からの飛び降り自殺と続いていたとのこと。
2004年6月1日午後、長崎県佐世保市の市立大久保小学校で、6年生の女子児童が同級生の女児にカッターナイフで切り付けられて死亡した事件。2014年、高校1年生の女子生徒(15)が、同学年の友人(15)の後頭部を鈍器のようなもので多数回殴り首を絞めて殺害し、首と手を切り落とし、腹を裂き解体した事件。大都会だけではなく、地方都市にも声にならない“戦争”が広がっていると感じられる。

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