201901630 東淀川教会主日礼拝 創世記38章 マルコ福音書6章 司式 金田恆孝 

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創世記38:6-11
6 ユダは長子エルのために、名をタマルという妻を迎えた。
7 しかしユダの長子エルは主の前に悪い者であったので、主は彼を殺された。
8 そこでユダはオナンに言った、「兄の妻の所にはいって、彼女をめとり、兄に子供を得させなさい」。
9 しかしオナンはその子が自分のものとならないのを知っていたので、兄の妻の所にはいった時、兄に子を得させないために地に洩らした。
10 彼のした事は主の前に悪かったので、主は彼をも殺された。
11 そこでユダはその子の妻タマルに言った、「わたしの子シラが成人するまで、寡婦のままで、あなたの父の家にいなさい」。彼は、シラもまた兄弟たちのように死ぬかもしれないと、思ったからである。それでタマルは行って父の家におった。

マルコによる福音書6章17-28節
このヘロデは、自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤをめとったが、そのことで、人をつかわし、ヨハネを捕えて獄につないだ。それは、ヨハネがヘロデに、「兄弟の妻をめとるのは、よろしくない」と言ったからである。
そこで、ヘロデヤはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。それはヘロデが、ヨハネは正しくて聖なる人であることを知って、彼を恐れ、彼に保護を加え、またその教を聞いて非常に悩みながらも、なお喜んで聞いていたからである。ところが、よい機会がきた。ヘロデは自分の誕生日の祝に、高官や将校やガリラヤの重立った人たちを招いて宴会を催したが、そこへ、このヘロデヤの娘がはいってきて舞をまい、ヘロデをはじめ列座の人たちを喜ばせた。そこで王はこの少女に「ほしいものはなんでも言いなさい。あなたにあげるから」と言い、さらに「ほしければ、この国の半分でもあげよう」と誓って言った。そこで少女は座をはずして、母に「何をお願いしましょうか」と尋ねると、母は「バプテスマのヨハネの首を」と答えた。するとすぐ、少女は急いで王のところに行って願った、「今すぐに、バプテスマのヨハネの首を盆にのせて、それをいただきとうございます」。王は非常に困ったが、いったん誓ったのと、また列座の人たちの手前、少女の願いを退けることを好まなかった。
そこで、王はすぐに衛兵をつかわし、ヨハネの首を持って来るように命じた。衛兵は出て行き、獄中でヨハネの首を切り、盆にのせて持ってきて少女に与え、少女はそれを母に渡した。

聖書から聴く 主題「静かで壮絶な物語」

聖書を開くとき、神の聖なる御わざを知ろうとして、「聖なる書」から勧善懲悪的な教訓を引き出そうとしたり、イエスの血統に意味づけしたがったりします。が、バイブルとは元々「テキスト」、文字、記録されたもの、という意味で、矛盾に満ちた人間達の、矛盾そのままの姿が描かれています。
イエスの系図には異邦人のおんなたちが登場します。タマルもそのひとりです。長男の嫁だったのですが長男の死後次男の嫁に指定されますが、それを拒否した次男が死に、三男の嫁になるはずでしたが、不吉な女と思われたのか、実家?、故郷に返されてしまいます。居場所を失ったタマルは遊女に化けて義父ユダに近づき子種をゲットして、パレスとザラが生まれ、神さまからの祝福を受けます。

ヘロデ・アンティパスはナバテア王アレタスの娘と政略結婚していた。へロディアは夫の異母兄弟ヘロデ王に近づき、ヘロデの妻と自分の夫を追い出し、王妃の座につきました。このことでバプテスマのヨハネはヘロデ王を公然と律法違反者として告発していました。目障りなヨハネを牢屋に入れましたが、民衆の絶大な人気ゆえ、処置に困っていました。
ヘロデ王の誕生祝いパーティで招いたお客達の前でへロディアの娘、サロメが妖艶な踊りを披露し、招かれた主賓たちから拍手喝采を浴びたため、客の前で、サロメが望むものはなんでも与えようと約束してしまいます。母へロディアにとってもっとも邪魔な存在だった「バプテスマのヨハネの首をいただきたい」と娘に言わせたのです。

ギュスターヴ・モローの、妖艶な姿のサロメと、首だけになって輝いて宙に浮いているヨハネ、そのヨハネを指さし、死を宣告しているようなサロメの姿は強烈な印象を放射しています。多くの画家達にとっても、このへロディア・サロメによるヨハネ殺害のテーマは繰り返し作品化され続けました。
聖書のこのダイナミズム、操り操られる人間模様を直視したい。
イエスたちによる、仲間たちとともに始めた、この世の最後尾に置かれた人々を支えよう、という「最後尾運動」が始まった頃のことだと思われます。ヨハネ虐殺の報はイエスの仲間だけではなく、ヨハネを慕っていた民衆にとってあまりに大きな痛手だったと思われます。

○先週の出来事(気になるニュース)
草津温泉の「湯長」が訪れた湯治客の問診を行っていることについて、
題沸騰している中で、湯長の問診を「宗教みたい」と批判している一部報道があった。
「宗教」とは「怪しい」と同義語らしい。人間の怪しさに比べたら「宗教」ごときの怪しさなんてたいしたことはないのだが。

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