20210808 東淀川教会礼拝「どん尻の連帯」宣教 金田恆孝

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サムエル記上2章3節b〜8節
主はすべてを知っておられる神 人の行いを量られます。
勇士の弓は折られ 弱い者が力を帯びます。
満ち足りている者はパンのために雇われ 飢えている者はもはや飢えません。子のない女が七人の子を産み 子だくさんの女は衰えます。
主は命を奪い、また命を与え 陰府に下し、また引き上げます。
主は貧しくし、また富ませ 低くし、また高めます。
弱い者を塵の中から立ち上がらせ 貧しい者を芥の中から引き上げ 高貴な者と共に座らせ 栄光の座を継がせてくださいます。地のもろもろの柱は主のもの。主はそれらの上に世界を据えられました。

マルコ福音書8章4〜9節
弟子たちは答えた。「この人里離れた所で、どこからパンを手に入れて、これだけの人に十分に食べさせることができるでしょうか。」
イエスが、「パンは幾つあるか」とお尋ねになると、弟子たちは、「七つあります」と答えた。
そこで、イエスは群衆に地面に座るように命じ、七つのパンを取り、感謝してこれを裂き、人々に配るようにと弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。
また、小さい魚が少しあったので、祝福して、それも配るようにと言われた。
人々は食べて満腹になった。余ったパン切れを集めると、七籠になった。
およそ四千人の人がいた。イエスは彼らを解散させられた。

 

宣教の要旨「どん尻の連帯」
「弱い者を塵の中から立ち上がらせ、貧しい者を芥の中から引き上げ」るのは、祈って神に委ねる、社会システムに任せることではなく、今、ここで生きている仲間の自然な助け合いなのだろう。主なる神はそれを私たちに求めておられる(と思う)。
 マルコ福音書には男五千人、大凡一万五千人の食事の話(マルコ六章)と、男四千人、大凡一万二千人の食事の話(マルコ八章)が出てくる。わずかな食料が大勢の人の胃袋を満たしてなお余りあった、と福音書は記す。似た話が少し形を変えて2回も描かれているということは、集まった人々とともに食事をすることが、イエスたちの活動の基本にあったと考えていいと思われる。人と人が共に生きる基本形は何より共に食す、ということであり、食材があろうがなかろうが、あるものを分かち合いつつ、誰彼となく交流する。始まりはわずかのパンや小魚であったとしても、分かち合いの中で、パンやら干し肉・干し魚やら水やら果物やらチーズやら豆類やら非常食やらがどこからともなく出てきて、おしゃべりしながら、みんなが満腹になるような会食がいつも行われていたと感じるのです。今の言葉で言えば、“ともかく、まず、飯食おうよ”が挨拶言葉だったんじゃないか。互いの胃袋を満たし合いながら、互いのことを感じ共感し合う。「自分自身を愛するように隣人を愛すべし」って、硬い言葉で言ったけれど、要は一緒に飯食うことだよ、ってイエスは語っていたように感じるのです。

 先日、神戸演劇鑑賞会で劇団文化座の『命どぅ宝』を観ることができました。舞台は沖縄本島北西の「伊江島」。米軍に農地を一方的に占領され、ブルトーザーで家も土地もひっくり返され、農地を焼き払われ、命の危険と飢餓と人間としての尊厳を踏み躙られる中で、あくまでも非暴力ながら立ち上がった13家族農民の姿でした。特に感動したのは、沖縄含め、全国の労働組合宛に手紙を書いて窮状を訴えたとき、一番北の夕張炭鉱の労働者たち、危険と、食い物がない苦しみをよく知っている、文字通り陽の当たらない人たちから、日用品、学用品、衣類、食糧やらがたくさん届いた場面。思わず息が詰まりました。更に、13家族を分断しようとする工作の中で、僅かな食べ物も分かち合い、全家族がプライドを捨て、乞食となって行進し、座り込み、米軍の非道を訴え続けたことが、沖縄全体の反基地闘争のスタイルへと繋がっていった戦い方。ヤマトンチュにはこのような捨て身の連帯と戦いの持続って、難しいよなあ、と思いながら、目から鱗の戦い方でした。

 

先週の出来事
コロナウィルス対策として“ワクチン接種率が上がれば”とワクチン頼りの政策を打ち出しているが、現在の5波の感染爆発はワクチン接種率が高いところほど感染拡大している、つまり余計に効かない状況らしい。効果があったのは製薬会社の利益だけ? 風が吹けば桶屋が儲かる、みたいに、まわり回って経済効果はあったってこと? それとも民意のコントロール操作実験と、戒厳令の発動準備が整ったってこと?

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