20241013 東淀川教会礼拝宣教要旨 ユダの福音書12章「ユダの役割・予定と讃美」(私訳)
1節 ユダはイエスに尋ねた。「あなたの名前で洗礼を受けた人々はどうなるのでしょうか。
2節「まことにあなたに言いますが、この洗礼は、自分たちの不義を赦してもらうため、わたし、イエスを不義の代償、生け贄として神に差し出すことなのです。洗礼を受けた人の罪は浄められ、死んだ後も正しい人として神の国に招かれると信じることは、神との取り引きを行うことであり、悪しきことです。
3節 ユダよ。あなたは彼らすべてより大いなる者となるでしょう。イエスは我が為に死なれた、と信じる人々の霊を、彼等に霊を吹き込んだ神に返すからです。あなたはわたしの十字架の目的をよくわかっており、ユダについての汚名の物語は過ぎ去り、大きな役割を果たすことになります。
4節 まことにあなたに言いますが、イエスの犠牲によって洗礼を受けた人は清くなる、という信仰は滅びるでしょう。そして、全ての人は天と地との間で、神々の中で、神の子に戻ることができるようになるのです。
5節 ごらんなさい。あなたにすべてのことを語りました。目を上げて新しい光と、それを取り巻く星、あなたを先導する星を見なさい。あれがあなたの星です。
6節 ユダは目を上げ、立ち上がり、光の雲を見てその中に歩み入っていった。地上に立っていた者たちは、中からユダの叫び声を聴いた。「これこそ大いなる種族のためのまことの星である!」と。
宣教要旨「神との取り引き」
イエスはバプテスマのヨハネから悔い改めの洗礼を受けた、と福音書は記しています。が、イエスは集まってきた人々にバプテスマを施してはいません。皮膚病などで苦しんでいる人々の体を洗ったであろうことは容易に想像できますが、悔い改めや清まる・清めるための儀式はしていません。
ユダ福音書の著者はキリスト教会の教義「教会のバプテスマを受けてキリスト教会に所属した者だけがイエスの十字架によって清められ、神の国に招かれる(救われる)」という概念に批判的です。
「イエスの十字架によって我が罪は(クリスチャンの罪は)清められる」と信じることは、生きている間、自分の罪を清めるために教会で罪を告白し、イエスという贖罪の生け贄(子羊)を神に捧げ続けることになるというのです。しかも、自分の救いのためにイエスの十字架を生け贄として利用しながら、「お金のためにイエスを迫害者たちに売り渡したユダを軽蔑し憎み続けている、というのです。
神は人間との取り引きをする神ではなく、このような教義を信じることは、人間中心の神との取り引きを行うことであり、このような「神取り引き」は終わるときがくる、というメッセージがこの福音書に含まれているのです。
十三番目の世界(新しい世界)が始まるとき、イエスとユダとの契約も明らかになり、生け贄や他者の犠牲によって清くなれるという信仰は滅び、ユダの名誉は回復し、すべての人は無条件にはじめから神の子であることが明らかになり、神と神の子たちによる新しい世界が始まる、ユダが希望の星となる、というのです。
※キリスト教の洗礼(バプテスマ)理解
※ローマの信徒への手紙6章 4節
「私たちは、洗礼(バプテスマ)によってキリストと共に葬られ、その死にあずかる者となりました。それは、キリストが父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためです。」