20241027 東淀川教会礼拝宣教要旨 降誕前第九主日礼拝 宣教題「愛ってなんですか?」 

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聖書箇所

 サムエル記下1章 26節
あなたを思って私は悲しむ。兄弟ヨナタンよ、あなたはまことに私の喜び。 あなたの愛は女の愛にもまさってすばらしかった。(忠信 同性愛)

詩篇119篇113節
二心ある者どもを私は憎み あなたの律法を愛します。(神こそ我が主 建て前と本音を)

ヨハネによる福音書 15章 13節
友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。(団結と忠信)

コリントの信徒への手紙一 11章3節
しかし、あなたがたに知っておいてほしいのは、女の頭は男であり、すべての男の頭はキリストであり、キリストの頭は神であるということです。(服従)

コリントの信徒への手紙一 11章 7節
男は神のかたちであり栄光を映す者ですから、頭にかぶり物を着けるべきではありません。女は男の栄光を映す者です。(女は頭や顔を隠すべき)

コリントの信徒への手紙一 13章 4節
愛は忍耐強い。愛は情け深い。妬まない。愛は自慢せず、高ぶらない。(女の倫理 服従と忠信)

コリントの信徒への手紙一14章 34節
女は教会では黙っていなさい。女には語ることが許されていません。律法も言っているように服従しなさい。(服従と依存)

ヨハネの手紙一4章 16節
私たちは、神が私たちに抱いておられる愛を知り、信じています。神は愛です。愛の内にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。(教会への服従と忠信)

宣教要旨 愛ってなんですか?

「愛」という言葉にまとわりついている幻想は現代社会でも生きています。教会での結婚式でも大勢の参列者の前で、冷静に考えたら誓えるはずもないことを誓わされたりします。テレビのコマーシャルでも「そこに愛はあるんか?」などと問い詰める言葉として使われたりします。

「私(神)を愛し、その戒めを守る者には、幾千代にわたって慈しみを示す。」出エジプト記20章6節
「心を尽くし精神を尽くし思いを尽くして主なる神を愛せよ」マタイ22章37節

愛する、とは本来慈しむ、大事にする、という意味で、「愛」単独の名詞的な使い方はありませんでした。
「愛する」という動詞が本来で、人を好きになったり一対の特別な関係を築こうとすることであったり、神を愛するとは、神との関係を中心にした生き方のことだった。その動詞を名詞に変えて特別な意味を付与し、“愛幻想”を教義にまで高めてしまったパウロたち、初期のキリスト教会。
「神を愛する」ことと、「神は愛なり」のあいだには無限の隔たりがある。言い換えれば、神の意志、御心を男女関係の恋心に引きずり降ろした、とも言える。或いは、異性に惚れる野性的な衝動的本能を、神を利用して人間関係における“最も美しい心情・恋愛感情”にまで高めてしまった、とも言える。或いは「愛こそすべて」とか、“そこに愛はあるのか?”など、抽象的概念「愛」に絶対価値を置き、思考停止に陥ってしまったり、身近な人を「愛がない」などと裁く基準になったりする。
 共観福音書も“男が神の似姿、女は男に従うべき”という男尊女卑の人間観を基礎としています。
 パウロの“愛は忍耐強い。愛は情け深い。妬まない。愛は自慢せず、高ぶらない…”は、イエスたちの活動の多くを担い、イエスの福音によって元気になった女性たち、男たちと対等に議論する女たちの口を閉じさせ、男たちに対して一歩下がらせるために「愛」を持ち出していると感じます。更にこの“愛は忍耐強い”の教義は、王権神授説とともに、「この世では忍耐しなさい(いつかは復活できるのだから)」と、多くの奴隷たちの反抗や暴動を防ぐ役割を果たしまし、キリスト教が弾圧を受けずに地中海周辺諸国に広まる要因ともなりました。
 パウロたちが広めた教義とイエスたちの活動との間にはとても大きな隔たりがあることを改めて憶えたい。

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