20241208 東淀川教会礼拝宣教要旨「マリアの信仰」宣教担当 高木総平牧師 

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Table of Contents

本日の聖書箇所
ルカによる福音書1章 26〜33節

六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。(26)
ダビデ家のヨセフと言う人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアと言った。(27)
天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」(28)
マリアはこの言葉にひどく戸惑って、これは一体何の挨拶かと考え込んだ。(29)
すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。(30)
あなたは身ごもって男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。(31)
その子は偉大な人になり、いと高き方の子と呼ばれる。神である主が、彼に父ダビデの王座をくださる。(32)
彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」(33)

ルカによる福音書1章 46〜55節

そこで、マリアは言った。「私の魂は主を崇め(46)
私の霊は救い主である神を喜びたたえます。(47)
この卑しい仕え女に 目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も 私を幸いな者と言うでしょう。(48)
力ある方が 私に大いなることをしてくださったからです。その御名は聖であり(49)
その慈しみは代々限りなく 主を畏れる者に及びます。(50)
主は御腕をもって力を振るい 思い上がる者を追い散らし(51)
権力ある者をその座から引き降ろし 低い者を高く上げ(52)
飢えた人を良い物で満たし 富める者を何も持たせずに追い払い(53)
慈しみを忘れず その僕イスラエルを助けてくださいました。(54)
私たちの先祖に語られたとおり アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」(55)


高木総平牧師略歴
岡山県出身 同志社大学神学部大学院 臨床牧会学 
日本基督教団牧師 (国分寺教会 福岡弥生教会 大津教会 守山伝道所 徳島北教会 高の原教会 他)
教師 (松山東雲中学教諭 松山東雲女子大学教授 同志社女子大学講師 他)

 現在は中部学院大学人間福祉学部教授 
岐阜いのちの電話副理事長。

ユング派臨床心理士。カウンセリング
カルトからの救出活動もライフワーク。
ひと(教祖)のとりこ(奴隷)になってしまう人間の解放・救出活動を続けている。
大学ではダイバーシティ(人種など多様な背景を持つ人々を包括する社会)におけるインクルージョン(能力ではなく個性を尊重し合い対等な集団への参加を促す人間関係)についての講義などを行なっている。
著書「カルト問題・心理臨床の立場から」」現代のエスプリ 
「自殺予防・いのちの電話」ほんの森出版 他
74歳
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宣教要旨「マリアの信仰」担当 高木総平牧師
☆以下は金田が聞き取ったメモを記述したもの。脱落や誤記はご容赦ください。
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私が生まれた町の近く、岡山市倉敷美術館 エルグレコの「受胎告知」 神の不思議なわざ
とんでもない人という非難 →結婚前の妊娠 ふしだらな女マリア(マリア16歳?)
とんでもないイエス→イエスは私生児 食事で手も洗わない 食をむさぼる 大酒飲み 取税人 罪人の仲間
 「とんでもない人が正しい人であるはずがない」という人に対する裁き方
人間の結婚という制度から離れたところでも日常生活に受胎は起こり得る。
何が正しいことか、間違っているか、という人間の判断に合わせて、それは神のわざかどうかを判断しようとする愚かしさ。

宗教 Religionはラテン語のReligiō レリジョ(畏怖、畏敬、宗教的感情ほか)が語源、その動詞形はReligōで、「(人と神と人を結ぶ)神と自分との関係を思い巡らす」という意味。「信仰」も神と自分との関係を思い巡らすこと。はじめから結論があって、それに自分を合わせることではない。

カルトと呼ばれる「宗教」では、絶対的正しさがすでに決められていて、それに自分の考えや行いを合わせることが強いられる。自分たちの組織(セクト)のイデオロギーを絶対的正義としてそれ以外を排除したり闘ったりする。それが「カルト化現象」です。

遠藤周作はインタビューの中で、カトリックが説く処女降誕をどう思うか、の問いに答えて「カトリックの大嘘がいい」と答えています。

「子どもができる」ことについて、武田泰淳・吉本隆明との対談の中で“神の奇跡”という表現がありました。“それはすごいこと”という感覚的表現なのでしょう。

何が正しい、とか、何が間違っているか、とか判断したり決めつけたりせず、マリアが自分の身に起きたことについて、神と自分との関係の中で考え続けていた、思い巡らせていたところにマリアの信仰があります。

これまで何度もフィリピンのカトリック教会を訪れましたが、人々にとってのマリアの存在は大きく、三位一体といえば、神、イエスキリスト、マリアの三位一体と答える人々がとても多いのです。マリアの存在はプロテスタント教会の私たちよりもとっても大きいのです。

 “こう信じることが正しい信仰” という、答えありきの信仰ではなく、マリアのみに起こったとんでもないことについてマリアが思い巡らしたごとく、イエスのとんでもない姿やイエスに起こったとんでもない出来事、現代私たちの身の回りに起きているとんでもないことについて、正邪の判断を出したがる現代社会の中で、思い巡らすことの大切さを学びたいと思います。

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