20241229 東淀川教会礼拝宣教要旨 マタイ福音書11章

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Table of Contents

聖書箇所
マタイ福音書 11章16ー19節
今の時代は何にたとえたらよいか。
広場に座って、ほかの者たちに呼びかけ、
こう言っている子どもたちに似ている。(16)
『笛を吹いたのに 踊ってくれなかった。
弔いの歌を歌ったのに 悲しんでくれなかった。』(17)
ヨハネが来て、食べも飲みもしないと、
『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、(18)
人の子が来て、食べたり飲んだりすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。
しかし、知恵の正しさは、その働きが
証明する。」(19)

宣教要旨「喜び・悲しみが伝わらない」

 2024年の年末礼拝を迎えました。
イエスは人間の“こども”から“おとな”への「成長」を否定し、むしろ人の「堕落」として捉えているのでは、と感じるのです。
イエスが「今の時代を何にたとえましょうか」と語り出します。 “自分たちや周りの人のことで、楽しいことがあって、いっしょにお祝いしましょう、いっしょに歌ったり踊ったりしましょう!と言っているのに、こたえてくれないなあ、つめたいぞ なかしいぞ”
 “自分たちや周りの人のことで、とても悲しいことがあったのに、一緒に泣いたり心配したりしてくれないなあ つめたいぞ かなしいぞ”
 そんなこどもたちの遊び歌です。嬉しいときも、悲しいときも、こどもたちは誰かの楽しそうな顔や悲しそうな顔を思い浮かべながら、気持ちを分かち合います。共感しています。
 イエスが語っているのは、こどもたちが持っている、ともに笑ってうれしくなる、悲しみを感じて悲しくなる、そんな、喜怒哀楽を共感し合う“こころ”を、おとなたちが失っている、ということなのでしょう。

「こども」を美化しているわけではありません。子どもにも「餓鬼」と呼ばれる残酷な部分が人間関係の中で生じてきます。ただ、大人のように言葉や常識や先入観で隣人を理解する習慣を持っていない子どものほうが、喜怒哀楽を共有できる友達づくりは上手です。

「ラマで泣き叫ぶ声が聞こえる」「慰められることを拒んでいる」「子らがもういないのだから」という、ヘロデによる惨殺事件のような「現実」が今も世界のあちこちで続いています。
 嬉しそうな顔や様子を感じて自分まで嬉しくなる、悲しそうな姿や言葉を詰まらせた声を聴いて自分まで悲しくなる、そんな言葉による理解以前の「こころ」をおとなたち、社会は失いつつあるのでしょう。「こどもたちこそ神の国に近い」「おとなたちこそ神の国から遠ざかっている」というイエスのメッセージ。

 2025年への祈り。「情報」や「言葉」や「儀礼」ではなく、互いの様子や顔を思い浮かべながら、喜怒哀楽を分かち合う、やわらかな「人の心」を取り戻していくことを目指したいと願います。

 

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