20250119 東淀川教会礼拝宣教要旨「神の子に戻る希望」申命記32章 ホセア書2章 マタイ福音書
本日の聖書箇所
申命記32章 5節
彼らは主に対して悪を行い その汚れのゆえに、もはや神の子らではない。よこしまで曲がった世代だ。
ホセア書2章1節
イスラエルの子らは数を増し 海の砂のように 量ることも数えることもできなくなる。彼らは「あなたがたはロ・アンミ」と言われる代わりに 「生ける神の子ら」と言われる。
マタイ福音書5章9節
平和を造る人々は、幸いであるその人たちは神の子と呼ばれる。
宣教要旨「神の子に戻る希望」
(神の子)について
申命記が伝えるのは、人は元々神の子であったのに、人がそこから離れてしまった、堕落してしまった、という語りです。
ホセア書では、「神の子」から離れてしまい、国を失い、民が、「神の子」に戻る希望が語られています。
マタイ福音書で語られる「平和をつくる人は幸い」のメッセージの“平和”とは、“神と被造世界と人との調和”、の意味であり、「神の子としての立場を取り戻す働き」と理解して良いと思われます。
日本に伝えられた初期のキリスト教は、神を大日様で表現したり、教会を“イエス寺”と称するなど、仏教神道儒教用語などを用い、そこに生きている日本人にわかる用語、概念を用いて福音が伝えられました。古くからの八百万の神々への信仰を捨てさせる伝道ではなく、その核心部分にあったのは、すべての人は神の子、神仏にとって人はかけがえのない存在、というメッセージであったと思われます。それは空海によってもたらされた初期仏教の「一切衆生 悉有仏性」に通じる認識でもありました。
1549年「イエズス会」スペインの宣教師、フランシスコ・ザビエルが鹿児島に到着 キリシタン大名 高山右近 有馬晴信 小西行長などが有名ですが、武士階級だけでなく、農民漁民や、社会の底辺に置かれていた貧しい人々へのキリスト教の広がりは凄まじい勢いがありました。最も多かった時はキリスト者30万人とも40万人とも言われています。
(1587)の豊臣秀吉によるバテレン追放令が出されたのは、神仏を恐れても支配権力者を恐れない人々の増加は天下の秩序を揺るがすものとして映ったのでしょう。
天下分け目の関ヶ原の戦い 1600年 東軍9万 西軍8万 17万人の戦闘 ほぼ一日で決着。優劣さえ決まれば、無駄に命を落とす必要はなかったのでしょう。 命がけで守り戦い続け守るべき「信」「義」はなかったのでしょう。
それに対して、島原・天草の乱1637〜1638年 原城籠城3万7千人+集まってきた応援部隊、非戦闘員など4、5万人
対する討伐軍12万人。
隠れキリシタン+重税に喘ぐ農民漁民+浪人たち。諸説ありますが、全体では20万人以上が三ヶ月にわたって戦った日本史上最大の一揆でした。
原城から討伐軍に向けて放たれた矢文の文章
「天池同根 万物一体 一切衆生 不選貴賤」
万物とすべてのいのちは神によって造られた。
すべての人は神の子であり、神仏にとってかけがえのない存在。そこには人を分け隔てするものはない。
そのかけがえのなさから遠くに置かれた人を救うためにイエスが来られた、仏はすべての人を救おうとしている、という神仏中心のメッセージと、応答としての“ありがたさ”、“もったいなさ”、“信仰の喜び”が討伐軍の一人ひとりに向けて発せられた。「我々は敵ではない」の思いが込められていたのでしょう。
「一切衆生 悉有仏性」(一切衆生 悉く仏性有り)
全ての人々・衆生は神仏にとってかけがえのない存在だから、一切衆生は無条件に成仏できると説いたのは 空海。真言密教の旗印である 「即身成仏」そのままで仏になれる。
仏心に対する「もったいない」「有り難い」が中心の信仰だったと思います。お大師様信仰はそのシンプルさ故に深く人々の心に残っているのでしょう。
「仏教はその後、出家や修行など救われるための条件など、人間中心の解釈、教義、経典を巡って、南都六宗から様々な宗派へと分かれていったと思いますが、仏を主語とする、人々をくまなく救おうとする仏心に対する単純・シンプルな「ありがたさ」「もったいなさ」など神仏中心の信仰を、初期のキリスト教信仰が引き起こしたと感じるのです。
一神教VS多神教など、人間の頭の中の作業で宗教を振り分けるのではなく、初期仏教や初期キリスト教にあった神仏主体の教え、隠れキリシタンたちの持ち続けた信仰にいま触れてみたいと願います。