20250126 東淀川教会礼拝宣教要旨「神の存在証明」
聖書箇所出エジプト記3章 9~14節
今、イスラエルの人々の叫びが私のもとに届いた。私は
エジプト人が彼らを虐げているのを目の当たりにした。(9)
さあ行け。私はあなたをファラオのもとに遣わす。私の民、イスラエルの人々をエジプトから導き出しなさい。」(10)
モーセは神に言った。「私は何者なのでしょう。この私が
本当にファラオのもとに行くのですか。私がイスラエルの人々を本当にエジプトから導き出すのですか。」(11)
すると、神は言われた。「私はあなたと共にいる。これが、私があなたを遣わすしるしである。あなたが民を
エジプトから導き出したとき、あなたがたはこの山で神に
仕えることになる。」(12)
モーセは神に言った。「御覧ください。今、私は
イスラエルの人々のところに行って、『あなたがたの先祖の神が私をあなたがたに遣わされました』と言うつもりです。すると彼らは、『その名は何か』と私に問うでしょう。私は何と彼らに言いましょう。」(13)
神はモーセに言われた。「私はいる、という者である。」
そして言われた。「このようにイスラエルの人々に
言いなさい。『私はいる』という方が、私をあなたがたに
遣わされたのだと。」(14)神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者」。また言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい、
『「わたしは有る」というかたが、わたしをあなたがたの
ところへつかわされました』と」。(口語訳)
マルコによる福音書14章 36節
こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできに
なります。この杯を私から取りのけてください。しかし、
私の望みではなく、御心のままに。」
宣教要旨「神の存在証明」
エジプト神話の神々、ギリシャ神話の神々と、「唯一の神」を初期キリスト教はどう繋いだのでしょうか。それは八百万の神々の住む日本に、唯一の神がどう伝えられ、神々と唯一の神がどう繋げられたのか、という問いと重なります。
創世記をはじめとする旧約聖書はギリシャ語に訳され(70人訳聖書(セプチュアギンタ)。紀元前3世紀)ていましたが、後にキリスト教、新約聖書が地中海周辺に広がるとともに、聖書の世界観が地中海周辺のヘレニズム文化、ギリシャ哲学、自然科学に大きな影響を与えました。
それまでのゼウスなどオリンポスの神々やエジプトの神々は神話として背景に退き、天地万物の創造、人の作り主である「唯一の神」が概念として浸透していったとき、「神とは何か」について、各地の神話の神々とは異なる唯一の神を、イデー・概念として、“在るもの”、“存在の始まり”、“有って有るもの”というギリシャ的表現が70人訳聖書に加わったと思われます。
神はモーセに語りかけて言われた、「わたしは私は有るという者である(エヒイェ・アシェル・エヒイェ)」。さらに言われた、「イスラエルの子らにこう告げよ、『私は有る(エヒイェ)がわたしをあなたがたのもとに遣わした』、と」。(出エジプト記3章14節)。
このギリシャ語エヒイェが、ヨーロッパ近代哲学の始まり、デカルトの語る「我思う、ゆえに我あり」ラテン語でコギト(我思う)エルゴ(ゆえに)・スム(我あり)の「スム」に繋がりました。
人間のイデー、観念を出発点とする西欧の近代自我の誕生があったわけですが、言葉を替えれば、「我思う故に神あり」になります。
「人の考え、概念、認識によって神は存在できる」「人と神とが契約を行いこれを履行することが信仰」「人の無視に対して嫉妬する神」などの神理解、信仰理解が生まれることにもつながったと思われます。
イエスの神に対する祈りで発した「アッバ」という言葉は、神の子である人が親である神を呼ぶ、とうちゃん、かあちゃんが重なった「チャン!」と同じだろうと思われます。この「アッバ」こそイエスによる“神証明”と感じます。