20250202 東淀川教会礼拝宣教要旨「給食の奇跡」マタイ福音書14章13−21節 宣教 金田恒孝

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本日の聖書箇所
マタイによる福音書14章 13節〜21節

イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、独り寂しい所に退かれた。しかし、群衆はそれを聞いて、方々の町から歩いて後を追った。(13)
イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人を癒やされた。(14)
夕方になったので、弟子たちが御もとに来て言った。「ここは寂しい所で、もう時間もたちました。群衆を解散し、村へ行ってめいめいで食べ物を買うようにさせてください。」(15)
イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたの手で食べ物をあげなさい。」(16)
弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」(17)
イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、(18)
群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで祝福し、パンを裂いて弟子たちにお渡しになり、弟子たちはそれを群衆に配った。(19)
人々は皆、食べて満腹した。そして、余ったパン切れを集めると、十二の籠いっぱいになった。(20)
食べた人は、女と子どもを別にして、男が五千人ほどであった。(21)

宣教要旨「給食の奇跡」「たったこれだけ」でしかないものが「こんなにも」増し加わった奇跡の場面です。僅かな食べ物を配ったことから起きた「給食の奇跡」とも言われます。イエスの宣教やその仲間たちの活動に、多くの貧しい難民が押し寄せていた中で起きました。それは「与え配る」側と「受け取り食べる」側、「する」と「される」の二極関係が壊れ、自然発生的に「分かち合う・補い合う・満たし合う」給食事件、更に、そこで完結するだけではなく、次の「給食」をも準備しようとする、運動を広げる事件が起こったのだと思います。


学校調理師の「情熱」が「罪」とされた今日の学校給食事件。
 京都市の公立小学校2022年から2024年6月まで、調理師2名(60歳、57歳)がし「残った食材を処分するのはもったいない」と、就業時間を過ぎた後に、余った食材と自分たちで持ち寄った食材や調味料で、おにぎりや鶏肉の唐揚げなど「賄い食」を作り、遅くまで残って仕事をしている職員のためにと夕食として配り、自分たちも一緒に食べていた。それは2年以上続いていて、校長も知っていたが黙認していた。
 2024年6月、匿名で京都市の教育委員会に“匿名の通告(密告)”があり、教育委員会は調理師二人に対して懲戒・減給処分を行った。知ってて黙認していた校長教頭にも訓戒処分が行われた。 懲戒処分の根拠は以下の如くであった。
①給食についての規則で「残った食材は適切に管理・廃棄されなければいけない(リサイクルゴミ→飼料化)」となっており、それに違反している。
②給食費は保護者が支払っており生徒に全て還元されなければならないのに生徒以外が食べるのは窃盗になる可能性がある。
③私的食材や調味料などが調理場に持ち込まれており、生徒にとってのアレルギー原因物質などが調理場に入り給食に混入する可能性がある。
④給食は食育を含む教育の一環であり、その実施方法等は教育委員会が定めており、各学校単位で勝手に判断してはならない。「がっこうは社会的弱者であるこどもたち一人ひとりを守り育もうとする善意と情熱によって築かれている」という認識や期待は幻想でしかないことが突きつけられた事件でもあった。 がっこうは公的機関であり、教職員の業務は公務であり、教職員はいわば役人であり、私的な善意や情熱などを持ち込む場ではない、というのが本旨のようです。 

大きな背景として思い当たること。
 1985年頃から「がっこう」に「偏差値教育」が浸透し、学力偏重傾向が進み、“塾・予備校”と「がっこう」との区別が曖昧になっていた。
 公務員である学校教職員の組合活動が停滞・縮小していった。私学教職員組合活動も同様の傾向を辿った。
 教職員組合活動と連携によって育まれていたがっこう・教育活動への情熱、職員相互の守り合いが困難になっていった。

2000年(H12)、学校教育法の改正、施行規則48条で、職員会議の位置付けが大きく変わった。「職員会議」は、学校の管理運営に関する校長の権限と責任を前提とし、校長が主宰し、その職務の円滑な執行を補助する機関として位置づけられ、職員会議は何事かを決定する機関であってはならないことが明記された。
教育委員会から任命された「校長」による業務命令が全ての中心であり、職員会議は学校責任者である校長の指示を実現するためのものであり、校長に任命された「○○主任」を中心とする「○○部会」といった、校務分掌で割り振られた組織・役職によって、会議資料の作成や具体的な業務の提案が会議で行われるのは、校長による業務命令を実現するためのものであり、決して、教職員間の協議に基づき、各教職員が自主的に学校に協力するという性質のものではないことが明記された。
 子どもに対して教師は聖職者でもなく、教師の理想に基づいて導いたり学習に責任を負う者でもなく、私的理想は学校に持ち込まず、国から委託された公務員としての責任を果たすことが立場保全のための第一課題となる。

 地域の子どもたち一人ひとりを守り育むための「がっこう」を、教員や教職員などみんなで作り上げたい、という「がっこう幻想」、教師幻想が入り込む余地がなくなった、というのが現代の最大の課題と思われます。

 


 

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