20250323 受難節(四旬節)第三主日 東淀川教会礼拝宣教要旨「かけがえのないのが友だち」ルカ福音書16章1-13節

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本日の聖書箇所 ルカによる福音書16章 1節〜13節

イエスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄遣いしていると、告げ口する者があった。(1)

そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』(2)

管理人は考えた。『どうしようか。主人は私から管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。(3)

そうだ。こうすれば、管理の仕事をやめさせられても、私を家に迎えてくれる人がいるに違いない。』(4)

そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、最初の人に、『私の主人にいくら借りがあるのか』と言った。(5)

『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。早く座って、五十バトスと書きなさい。』(6)

また別の者には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書きなさい。』(7)

主人は、この不正な管理人の賢いやり方を褒めた。この世の子らは光の子らよりも、自分の仲間に対して賢く振る舞っているからだ。(8)

そこで、私は言っておくが、不正の富で友達を作りなさい。そうすれば、富がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。(9)

ごく小さなことに忠実な者は、大きなことにも忠実である。ごく小さなことに不忠実な者は、大きなことにも不忠実である。(10)

だから、不正の富について忠実でなければ、誰があなたがたに真実なものを任せるだろうか。(11)

また、他人のものについて忠実でなければ、誰があなたがたのものを与えてくれるだろうか。(12)

どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を疎んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(13)


 

宣教要旨「かけがえのないのがともだち」担当 金田恆孝
9節の「不正の富で友達を作りなさい。そうすれば、富がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。」のメッセージは、解釈に悩む、噛んでも噛み切れない、飲み込みにくいスルメみたいな印象が残る聖句です。
 少し古いテレビドラマ「北の国から 84夏」をyoutubeで観て(観ていない人には申し訳ないのですが)息子の純が父の五郎に、丸太小屋が家事になった原因について、自分の罪を告白する場面があります。燃えていたストーブの上の網棚に向けて濡れたシャツを投げつけたまま正吉と二人で家をでた。取り調べで、“投げたけど網に引っかかって垂れ下がったシャツに火がついて火事になってしまったと思われる”と正吉は告白したのに、自分はちゃんと網棚に載せたと言い逃れした。自分こそ、火事の原因を作ったと心の底では思っていたのに言い逃れして、評判では正吉だけが悪者になってしまった、と涙ながらに語ります。純の告白に対して、父は「おまえは友だちを守ろうとせず自分だけを守ってしまった。けれど友だちを無くしてまで手に入れたいものなどこの世にはないはずだ」と語りかけます。この「友だち」についてのメッセージが今日のイエスのメッセージと重なって感じられたのです。

 倉本聰のドラマ「北の国から」の最初の場面、富良野の廃屋で、熊のような音に怯える純と蛍が「主の祈り」を唱える場面があります。倉本聰のイエスに対する深い印象が感じられます。父親五郎の、便利が当たり前の都会っ子純に対する、心に沁みる言葉は数多くあります。
「夜になったら眠るンです」「疲れたら、生きづらくなったら、恥じることはない。いつでも帰ってこい。部屋も布団も用意してある」「何をしようと、どうなろうと、俺はお前の味方だ」…..このあたりはルカ15章の放蕩息子の話が重なります。

「お金でできることは苦労じゃない。 金なしでなんとかするのが大事な仕事」「生きるための仕事に貴賎も格付けもない。 ひとの仕事を卑しむことは許さん」「ひとに喜んでもらえることは、お金では買えない。お金に頼らず知恵と自分のちからで努力しろ」「本当に必要なものは自然の中にある。自然の恵みからタダでいただこう。」 できる限りお金に頼らず、お金で得られる便利さの誘惑を避けて家族を守ろうとする父親。東京で育ち便利さが当たり前になっている純は、当初こんなところに連れてきた父に反発し、母のいる東京に戻りたがりますが、自然の恵みに生かされようとする父の姿に圧倒され続けます。それが自分の弱さを隠したり、友だちや妹に対しても見栄を張ったり意地っ張りになったりの“カッコ悪さ・みっともなさ”を繰り返します。この純の情けない姿は、私自身の小中学生時代のみっともなさ、コンプレックスと重なり、この歳になっても心が疼きます。また、ドラマの中で繰り返される“純”のみっともなさ、エゴイスティックな愚かさは、作者倉本聰氏のコンプレックスともつながっていると想像しています。

 聖書に戻ります。おそらく他の使用人の嫉妬から、この管理人は悪者として告げ口され、主人に報告書を出した後に解雇されることが定まっています。主人に対する債務者の管理を任されながら、貯蓄できるほどの給料ももらっておらず、帰る故郷も家族もないのでしょう。そこで大切な友だちを作る方法としてそれぞれの債務(借金)を減らしていった。この使用人の友達づくりをイエスは褒めた。ここまでがルカ福音書の著者(記者)が引用したイエスについての伝承の“元ネタ(Q資料)”と思われます。

 ルカによる福音書は、すでに広がり始めていた原始キリスト教団の、地中海周辺やローマへの勢力拡大をより意識したイエス伝でもあります。
なによりも友人、仲間を大切にしなさい、というメッセージに足し加えられた後半のメッセージ、“小事に不忠実な人は大事にも不忠実である(小さな仕事でも大きな仕事でも誠実でありなさい)”、前半の記事とは矛盾する “他人のもの(財産)に忠実でありなさい”は、原始キリスト教団におけるキリスト者の、評判、社会的信用と雇用促進を図るための倫理的規範を含めた、“賢さ”、“賢く振る舞う”ためのメッセージに変えられてしまっていると思います。

 “自分自身を愛するように隣人を愛せよ”とは、友だちをこそ隣人とせよ、と同じ意味であり、なによりもイエスはともに働く仲間を「友」と呼びました。今日の聖書箇所はかけがえのない隣人づくりに連なるイエスの話であり、「北の国から」の、父五郎が息子純に語ったことと同じだと思います。

wikipediaによれば
 倉本 聰(くらもと そう、1934年〈昭和9年〉12月31日 – )は、日本の脚本家、劇作家、演出家。本名は、山谷 馨(やまや かおる)。日本基督教団・阿佐谷東教会付属の阿佐ヶ谷幼稚園の出身。父親の山谷太郎は学生時代、信濃町教会(同教団)で洗礼を受けた。おじも新約学者の山谷省吾(やまや・しょうご)で、その紹介でクリスチャンと結婚し、倉本が生まれます。幼少期は教会学校に通っていた。1942年、父親は教会の月報に「決戦下に於(お)ける伝道」と題した一文を投稿し、「戦争は大きな罪悪」と記す。倉本聰はその反骨精神を父親から受け継いでいる。」とのことです。

倉本聰氏はイエスからの、肉声に近い、とってもシンプルなメッセージを幼い時代に受け取ったのだと思います。

 新約聖書は成立した時代背景もあり、抽象的な観念や概念や理念のことば(ロゴス)がとても多いのです(例えば“愛”とか“信仰”とか)。

 イエスと出会った数多の貧しい人々のこころに響いたのは、ロゴスではなく、もっとシンプルなイエスの肉声、メッセージだったと思います。現代の、わたしたちの眼の前に在る聖書をさかのぼって、イエスのことばの肉声に近づきたいと願います。

 

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