20250420 復活節イースター礼拝宣教要旨 「復活は帰郷なり」
聖書箇所 マルコによる福音書16章9節
週の初めの日、朝早く、イエスは復活して、まずマグダラのマリアにご自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた女である。
ルカによる福音書24章 13-18節
この日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村に向かって歩きながら、(13) この一切の出来事について話し合っていた。(14) 話し合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいて来て、一緒に歩いて行かれた。(15) しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。(16) イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。それで、二人は暗い顔をして立ち止まった。(17) その一人のクレオパと言う人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、ここ数日そこで起こったことを、あなただけがご存じないのですか。」(18)
ルカによる福音書24章 30-32節
一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、祝福して裂き、二人にお渡しになった。(30) すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。(31) 二人は互いに言った。「道々、聖書を説き明かしながら、お話しくださったとき、私たちの心は燃えていたではないか。」(32)
宣教要旨「復活は帰郷なり」
ヨハネ約翰傳福音書明治元訳12章24-25節
まことにまことになんぢらに告つげん
一粒の麥(麦)むぎ もし地ちに落おちて
死しなずば たゞひとつにて在あらん
もし死なばおほくの實(実)みを結むすぶべし
そのいのちを惜しむ者は これを喪ひ そのいのちを惜しまざる者ものはこれをたもちて かぎりなきいのちにいたるべし
「自分の命は神のものではなく自分のものであり、自分の死を受け入れられない」という思いを、明治訳は「命を惜しむ」と表現した。こちらの方が「自分の命を憎む」よりわかりやすいのではないだろうか。
イエスが教えたのは、「神が吹き込んだあなたの命は肉体を離れ神のもとに帰るんだよ」という単純な道理なのでしょう。
イエスの復活はすべての神の子である人の子の、復活の初穂であったと理解したい。
復活のイエスは、どの仲間たちよりも先に、心に多くの病を抱えていたマグダラのマリアのもとを訪ねられた。しんがりに立たれる神を顕しています。次にイエスが現れたのはイエスに心を寄せていて、十字架の死を目撃した無名の人クレオバ。時空を超えイエスに出会って心が燃えた私たちの先人と言える。
私たちも神の国、故郷に帰る道に迷ってしまったときには、クレオパにそうしたように、イエスが近寄ってきて話しかけてくれると信じます。
イエスは死刑という「暴力」によって刑死させられましたが、イエス自身は徹底的に“非暴力”を貫き、非暴力で暴力を超える道を示し続けたと思います。
2025年のイースターを迎えました。
すでに起こっている国家間の戦争や難民への攻撃、まだ起きてはいないが臨戦態勢の国々、核兵器使用の危険など、今日の“暴力”の行方が読めません。日本政府も沖縄諸島での臨戦態勢を高めています
聖書を通して祈りつつイエスに学びたいと願います。
本日のイースター礼拝を楽しみにしておられた向井武子牧師が3日前、木曜日夕方、緊急搬送された病院で夕方静かに召天されました。87歳でした。一足先に天国に招かれました。27日次週の礼拝後に続いて“向井武子牧師を偲ぶ”ひとときを持ちます。