20250518 東淀川教会礼拝 ヨハネによる福音書8章 1〜11節 宣教要旨「罪なんて無い」

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ヨハネによる福音書8章 1〜11節

イエスはオリーブ山へ行かれた。(1)

朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御もとに寄って来たので、座って教え始められた。(2)

そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦淫の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、(3)

イエスに言った。「先生、この女は姦淫をしているときに捕まりました(4)

こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」(5)

イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書いておられた。(6)

しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」(7)

そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。(8)

これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と立ち去ってゆき、イエス独りと、真ん中にいた女が残った。(9)

イエスは、身を起こして言われた。「女よ、あの人たちはどこにいるのか。誰もあなたを罪に定めなかったのか。」(10)

女が、「主よ、誰も」と言うと、イエスは言われた。「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはいけない。」〕(11)


宣教要旨「罪なんて無い」

地球上の各地を人類が移動していた時代から、各地でそれぞれのことばや文字が生み出された頃には、共に祈るという儀式を伴う「宗教」は生まれていたでしょうし、互いが信じ合うための、モーセの十戒のような「悪」や「罪」などの概念や規範も生まれたのでしょう。

本日の聖書箇所は、神殿側の権威も律法も認めようとしないイエスたちを、モーセが定めた律法すらないがしろにしているとんでもない奴らとして告発するため、律法学者やファリサイ派の人々が姦淫の現行犯で捕まった女をイエスたちのいたところに連行し、この女に対してイエスがどう判断するかを試そうとした、という場面設定になっています。かなり無茶な場面設定になっています。

根拠になっている律法は「夫のある女と寝ている男が見つかった場合は、その女と寝ていた男もその女も、ふたりとも死ななければならない」(申命記22・22)で、夫のある女(夫の所有物)の、所有者への裏切り、裏切らせた男も同罪、が主眼の律法です。ここには所有者の男を裏切らせた相手の男は登場していません。
犯罪の審議や有罪宣告は神殿の中で行われるだろうし、もしも公開で石投げの刑が執行されるとしても正式な手続きによってのみ行われるはずです。訴えたのは誰か、元夫との離婚は成立していなかったのか、どのような経緯があったか、生活費を稼ぐための金銭目的か、等々一切不明なままで、イエスの時代ですらありえない、無茶な設定と思われます。

 「あなた方の中で罪を犯したことのない者が石を投げなさい」というイエスの言葉も、「これからは罪を犯してはいけない」という女への言葉も、“イエスだったらそんなことけっして言わない”と思うのです。

たとえば、極端な解釈をして、「自分は全ての罪を認め、心身を清め、罪を償う捧げ物を神殿に献げて清められているのだから、石を投げる資格がある」と思う可能性もあります。

 異性に対する性欲、心に感じる自然な欲情を「罪」と教え、体を水で清め、贖罪の捧げ物をすれば(したことにすれば)清められる、と教えていたのは神殿側の人々でした。そんな神殿側の「罪」の教えに対し、“女を見て男が性欲を感じることが罪ならば、淫乱罪などの罪を定めているあなた方自身が神の怒りから逃れるためには、女を見て性欲を感じたその目をくり抜くべきだ”とやりかえしたのはイエスでした。

マグダラのマリアの福音書(1−2世紀頃)が部分的に発見されており、一部はデーターも意訳でオープンされています。その中で「罪とは何か」の問いに、イエスが「これが罪という定めはない」と答える場面があります。

 あらゆる被造物(動植物も雄も雌も男も女も)はお互いが結びつき、内包し合って存在しているのであり、それらは全て、神が創造された理由、根源へと解消されていくのです。聞く耳のある者は聞きなさい。」「罪といったものは存在しない。しかし、一方的に他方を支配したり利用する姦淫などの行為に染まる時、貴方がたは罪を創り出すのです。罪と呼ばれるものはそれを犯す貴方がた自身です。心の中で罪を犯しても、その根源へと回帰(神さまの元に帰る)する為の善なるもの(喜び)があなた方の本性に与えられている。」(意訳です)

 福音書ではその姿は明らかではありませんが、女を男の所有物や財産のように扱い、一方的に支配し、裁こうとする神殿側の律法解釈や政治支配などに、イエスたちの活動を支え、共に活動していた、マグダラのマリアをはじめとする女性たちが、抗議の声を挙げ続けていたでしょうし、地面に何かを書いていたイエスの横にも彼女たちはいたと思うのです。

 

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