20250525東淀川教会宣教要旨「神の息=いのちの実感」創世記2章 7節ヨハネによる福音書3章 8節
創世記2章 7節
神である主は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き込まれた。人はこうして生きる者となった。
ヨハネによる福音書3章 8節
風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」
宣教要旨「神の息=いのちの実感」
神からいのちをいただき(息・風・霊・ルーアッハを吹き込まれて)大きくなった胎児が母の胎より出て鳴き声と共自力で呼吸を始めたときが、新たないのちの誕生のとき、というのが多くの民族の、多くの母たちの実感的ないのちの始まりに対しての「感覚・心的事実」だったと思われます。個体が死ねば、もともと神の息である「いのち」はすべて神の元に帰る、というのが古代からの、わりあいと様々な民族に共通の、普遍的な生命観だったと思います。
動植物に限らず受精が祝福され「神が息を吹き込む」ことで細胞分裂が始まり、生体が形成され、やがて母胎から生まれ出て、「自分の息で」自力呼吸を始めたときが新たな命の誕生の時という認識は古よりありました。家畜の出産などでも流産や死産を目撃・体験してきましたし動物にも人間にも出生できないリスクがあることを旧約聖書の民だけでなく多くの民族は感じ取ってきた。誕生が叶わなかった流産や死産は「いのちの死」ではなく「生まれてくることができなかった」未生。日本でも近年まで、悲しみを抱えている母親に対してでさえ、“子どもは生まれないこともすぐ死んでしまうこともあるからできれば大目につくりなさい”というアドバイスはよくありました。
日本の水子供養の風景は諸外国の旅行者の目には異様に映るようです。例えば恐山の水子供養など、水子地蔵をたて風車やオモチャを周囲に並べて水子の霊を慰める習いはいつから始まったのか。明治以後の日本に特有の現象だという説があります。
医療技術の発展により、妊娠初期より胎児の動きは母胎にも把握できるようになり、流産や死産で子どもを失うことは、出産後の子どもを失う悲しみの大きさとあまり変わらないことになったのでしょうか。更に、人工授精技術により複数の受精卵作成が可能になり、検査によりこどもの男女の選択や優性遺伝を選び劣性遺伝(ダウン症など)を避けることも可能になりつつある中で、子どもを、神が息を吹き込んだ結果であり、神からの贈りものであると実感できる宗教的な環境や地域文化から現代都市社会は遠ざかりつつあるように感じられます。
現代社会は「堕胎は禁止すべき」「結婚はかくあるべき」「性差別やLGBTQ差別は許されない」「勝手な越境は許されない」などなど、某国の某大統領だけでなく、他国や他民族や他宗教への対話拒否・不寛容が高まっているように感じます。ロシアのウクライナに対する不寛容、イスラエルのガザ地区への不寛容、米国の他国に対する不寛容…
先進諸国の独善的な不寛容さは一神教に由来する、という説があります。でも、一神教のルーツとされるユダヤ教ももともと一神教ではありませんでした。現代の難問である「いのち」について、「国家」について、神学や、医学を遡って古代に戻り、世界の多様な神々の物語、神話の世界に現代の問題のヒントを求めることは案外近道と思うのです。