20250616 東淀川教会礼拝宣教要旨「セクト・派閥・党を作らず」
聖書箇所
マタイによる福音書10章37−38節
私よりも父や母を愛する者は、私にふさわしくない。私よりも息子や娘を愛する者も、私にふさわしくない。(37)
また、自分の十字架を取って私に従わない者は、私にふさわしくない。(38)
自分の命を得る者は、それを失い、私のために命を失う者は、それを得るのである。」(39)
「あなたがたを受け入れる者は、私を受け入れ、私を受け入れる者は、私をお遣わしになった方を受け入れるのである。(40)
宣教要旨「セクト・党・派閥を作らず」
「(指導者・教祖・中心者・このグループ)よりもあなたの家族や人間関係を大切にするなら、あなたはこのグループにふさわしくない」というメッセージは、新たな信者を獲得しようとするとき、熱狂的カルト宗教のために過去の全てを捨てて献身させる、決断を促すための脅迫的な(カルト的な)メッセージに聞こえます。(教祖や民族や国家のためなら死ねるという全体主義的心理誘導とも言われます。)
初期のイエスの仲間たちが罪人イエスの仲間として、反社会的グループの一員として摘発されることを恐れて逃げ回り隠れて礼拝していた時期を過ぎ、一世紀後半から一世紀末に、いくつかの福音書が書かれ、イエスのことばや活動を示そうとする初期のキリスト教会の活動が始まった頃、「もはや私たちは迫害も殉教をも恐れない」という姿勢や覚悟を示そうとすることが重要だったでしょうし、「イエスこそメシア=神の子」というメッセージは、キリスト教を出発させるのには有効でしたが、イエスが語っていたであろう「全ての人は神の子」というメッセージを曇らせてしまったと思われます。「あなたこそ神の子だ」という呼びかけへの切り返しとして「わたしは人の子」があったのでしょう。
「イスラエル民族こそ、正しいイスラエル民族(アブラハムの末裔)こそ神に選ばれた選民である」と思いたがっているイスラエル民族、ユダヤ人の傲慢をイエスは打ち砕いています。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる(マタイによる福音書3章 9節)
イエスはユダヤ教に対抗してイエス教を作ろうとしていませんし、イエス自身をメシア、救世主とするイエス派、セクト」をつくろうとはしていませんが、イエスと共にはたらく仲間たちの中には程度の差はあれそういった思いや願望はあったはずです。イエスをリーダーとし、イエスに依存し、ひとつの勢力となって、多くの人に認めさせたいという願望は強かったのでしょう。
(あなたがたが神の子と呼んでいる)人の子は、仕えられるためではなく仕えるためにきた(マタイ福音書20章28節)と言うイエスの言葉は、神の招きは民族とか信仰とか国籍とか(キリスト者とか)集団、グループ、セクト、何かの基準を満たした人々、などを対象とした「集団」に対する神の招きではなく、個人への招きです。人々が作り出した世のしんがりに追いやられた個人の横に立って彼らひとり一人に仕えてくださる神のわざをイザヤが伝えていました。
誰にも見られないよう、あなた自身に命を吹きこんだ主にアッバと祈れば、主は答えてくださる、神との親子関係を取り戻すことができる、それがイエスが教えた主の祈りだと感じています。
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