20250616 東淀川教会礼拝宣教要旨「セクト・派閥・党を作らず」
聖書箇所
マタイによる福音書10章37−38節
私よりも父や母を愛する者は、私にふさわしくない。私よりも息子や娘を愛する者も、私にふさわしくない。(37)
また、自分の十字架を取って私に従わない者は、私にふさわしくない。(38)
ルカによる福音書 14章 25〜27節
大勢の群衆が付いて来たので、イエスは振り向いて言われた。(25)
「誰でも、私のもとに来ていながら、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命さえも憎まない者があれば、その人は私の弟子ではありえない。(26)
自分の十字架を負って、私に付いて来る者でなければ、私の弟子ではありえない。(27)
宣教要旨「セクト・党・派閥を作らず」
福音書には、決してイエスが言うはずもない言葉が、イエスの言葉として書かれているところがあります。本日の聖句マタイによる福音書10章37−38節、同じ主旨のルカによる福音書 14章 25〜27節もそうです。イエスは自分を唯一のメシア、救い主、神の子として、ユダヤ教ではなく、イエス・キリスト教を立ち上げようとしたり、組織を作るために人々を集めることもありませんでした。
「(指導者・教祖・中心者・このグループ)よりもあなたの家族や人間関係を大切にするなら、あなたはこのグループにふさわしくない」というメッセージは、新たな信者を獲得しようとするとき、熱狂的カルト宗教のために過去の全てを捨てて献身させる、決断を促すための脅迫的な(カルト的な)メッセージに聞こえます。自分が属している教祖や民族や国家のためなら死ねるという全体主義的な心理誘導とも言えます。
初期のイエスの仲間たちが罪人イエスの仲間として、反社会的グループの一員として摘発されることを恐れて逃げ回り隠れて礼拝していた時期を過ぎ、一世紀後半から一世紀末に、いくつかの福音書が書かれ、イエスのことばや活動を示そうとする初期のキリスト教会の活動が始まった頃、「もはや私たちは迫害も殉教をも恐れない」という姿勢や覚悟を示そうとすることが重要だったでしょうし、「イエスこそメシア=神の子」というメッセージは、キリスト教を出発させるのには有効でしたが、イエスが語っていたであろう「全ての人は神の子」というメッセージを逆に曇らせてしまいました。「あなたこそ神の子だ」という、イエスを担ぎ出そうとする呼びかけへの切り返しとして「わたしは人の子」があったのでしょう。
イエスはユダヤ教に対抗してイエス教を作ろうとしていませんし、イエス自身をメシア、救世主とするイエス派、セクト」をつくろうとはしていませんが、イエスと共にはたらく仲間たちの中には程度の差はあれそういった思いや願望はあったはずです。イエスをリーダーとし、イエスに依存し、ひとつの勢力となって、多くの人に認めさせたいという願望は強かったのでしょう。だからキリスト教が生まれた、とも言えます。
(あなたがたが神の子と呼んでいる)人の子は、仕えられるためではなく仕えるためにきた(マタイ福音書20章28節)と言うイエスの言葉は、まさにイエスの言葉と思われますが、イエスの語る神の招きは、民族とか信仰とか国籍とか(キリスト者とか)集団、グループ、セクト、何かの基準を満たした人々、などを対象とした「集団」に対する神の招きではなく、徹底的に個人への招きです。
誰にも見られないよう、あなた自身に命を吹きこんだいのちの主にアッバと祈れば、主は答えてくださる、神との親子関係を取り戻そうよ。それがイエスが教えた主の祈りだと感じています。
—————————————————————-