20250622 東淀川教会礼拝宣教要旨「貧しい人とは」イザヤ書3章14-15節 マタイ福音書5章3節 11章5節 ルカ福音書6章20節
聖書箇所
イザヤ書3章 14〜15節
主は裁きを始める その民の長老と長に対して。
「あなたがたはぶどう畑を食い尽くした。貧しい
者から奪い取ったものは あなたがたの家にある。あなたがたはなぜ、私の民を叩き潰し 貧しい者たちの顔をすり潰したのか」―万軍の主なる神の仰せ。
マタイによる福音書5章 3節
「心の貧しい人々は、幸いである 天の国はその人たちのものである。
マタイによる福音書11章 5節
目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、規定の病を患っている人は清められ、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。
ルカによる福音書6章 20節
さて、イエスは目を上げ、弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである 神の国はあなたがたのものである。
宣教要旨「貧しい人とは」
2025年の今という世界は“戦時下”です。戦争とは、巨大資本家にとっての最大の稼ぎ時。 もっとも多くの商品が発注され、どんどんと生産され、それらの商品がどんどんと消費され、商売(経済活動)が最も激しく動くとき。それが人によって引き起こされる「戦争」の本質です。
戦争によって食べ物や自分たちを守る物を持たない貧しい人々、難民は今も増え続けて世界で1億二千万人。最も多くの難民を受け入れている、難民にやさしい国は、イラン・イスラム共和国(350万人)とのこと。そのイランが激しくイスラエルから攻撃されている。ロシア、ウクライナ、イスラエル、パレスチナ、インド、パキスタンなどで広がる戦火と数字で伝えられる膨大な死者数。軍人の死者数よりも、自分で自分を守れない「貧しい者」たちが次々と殺されています。
イザヤ書3章14-15節 「貧しい者」は、強い者や金持ちや政治家や力を持った長老たちによって作り出され、その顔もすり潰されている!と、神はイザヤを通して加害者たちを告発しています。
「その顔もすり潰されている!」とは、ヨブ記のヨブが受けた仕打ちを思い浮かべますが、現代社会で、自分を守るべき財産や家族親族や学歴や社会的地位などを持てなかった人が世間・社会から軽んじられ、差別され、生きにくさを抱えて耐えている姿にイザヤのことばはドンピシャ当てはまります。難民は厄介者として扱われ、神の子として扱われず、データ数の中に埋没させられます。
マタイ福音書5章3節の「心の貧しい者」の「心」は誤解を生みやすい日本語訳。「プニューマ」、ヘブライ語では「ルーアッハ」が使われている。これは元々神が吹き込んだ「霊・聖霊・神の息。神の霊」を表す言葉。神様に生かされているパワー、“神の守り”の意味です。現代医学で言う「バイタル」が示すもの。
ひとりの人を守っているものとは神さまの守りのほか、財産や人間関係、家族や親族の守り、支え合う仲間の守りなどなども含むのでしょうが、それらが少ない人、疎外された、人間関係からはじかれた人が「貧しい人」なのでしょう。
貧しい者はなぜ幸いなのか。「この世では貧しく苦しかった者を死ねば神が慰めてくれる」のような慰めの教えなどではなく、世のしんがりに置かれる貧しい人をこそ神が救うために立ち上がられるし、イエスたちの活動もそのための具体的活動の始まりだとイエスは語っています。“食べるものも分かち合い、神さまと一緒に貧しい人をなくし、一緒に豊かになろうではないか”とイエスが語っていたように思うのです。
マタイによる福音書11章5節 「貧しい人々は福音を聴いている」は、イエスの仲間の活動やそれに影響を受けた人々の「助け合う活動」が広がっていたことを示しています。
イエスたちの活動は、“貧しい人々”を孤立させず、癒やす、助け合う、支え合う、“貧しさ”を“豊かさ”に変える具体的日常的活動でした。
いまのこの時代こそ、“教会”にこの活動がイエスから託されていると思われます。
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