20250629 東淀川教会礼拝宣教要旨「裁くなと言われるけど」マタイ福音書7章1−5節
聖書箇所
マタイ福音書7章1ー5節 「裁くな」
「人を裁くな。裁かれないためである。(1)
あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量られる。(2)
きょうだいの目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目にある梁に気付かないのか。(3)
きょうだいに向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に梁があるではないか。(4)
偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、きょうだいの目からおが屑を取り除くことができる。(5)
宣教要旨「裁くなと言われるけど」
主イエスによる命令形のことば「相手を許しなさい」と「裁いてはならない」は、わたしたちのこころのどこかにいつも残っていると思います。目標としては理解していて、そうすべきなんだろうなあと、わかっていても実現困難な主からのメッセージです。ヒドイと思う相手のひどさや過ちを明らかにして、「裁いてから許す」のなら、なんとかできそうですが、一方的に誤解されたり裁かれたりが多い日常生活では、そもそも「裁くな」は更に困難な“課題”だと思ってしまいます。
米国の大統領がイラン国に宣戦布告なしで“一方的に「裁きの爆弾」を投下した事件の余波が続く中、2022年7月に秋葉原通り魔事件の加藤智大以来、2年11か月ぶりの死刑執行が行われました。
現在死刑確定囚は105名。未執行で最も古い人は1970年確定。白石の死刑確定は2021年。かなり新しい。なぜ白石がわざわざ選ばれたのか。この事件は事件の解明(被害者の同意、過失割合など)が充分にされておらず、白石の異常な(サイコパスな)心理状態を分析できる分析家が関与していないと思われます。
座間9人殺害事件の白石隆浩死刑囚1990年生。「首吊り士」のアカウントでSNSを使って自殺願望を持つ女性たちと連絡を取り、相談にのりながら単独で、2017年8月23日から発覚した10月23日の二ヶ月間に15歳から26歳までの女性8名、失踪した女性を探しに来た男性1名の計9名を、一週間にひとりの割合で次々と絞殺し、頭蓋骨と骨は各々クーラーボックスに収めて部屋に並べ、肉類は風呂場で捌き鍋で煮るなどして廃棄処理していた。
「相手の死にたい願望を叶えてあげただけ」の勝手なつじつま合わせはあったのでしょう。金品奪取も屍姦も目的というよりはおまけだったのでしょう。発覚を怖れながら殺人と遺体処理を続けていた、というよりも、白石自身なにかが暴走し始め、快楽を伴いつつ自分でも止められなくなっていたと思われます。捕まってほっとした部分は大きかったと思われます。
彼に対して精神鑑定した医師が「精神障害は認められない=責任能力はある」と診断したため、彼のサイコパス(反社会性パーソナル障害)な病理性と、生育歴及び暴走に至る過程を分析し直すなどの精神分析のチャンスは失われてしまったと思います。
死刑制度は「見たくはないおぞましさ」に蓋をする、或いは、被害者救済の名の下に、早く事件を忘れるために利用されます。無意識のうちに「死刑制度があったからけりがついた」との方向に人々の心理を誘導しています。加藤智大の処刑もネット社会に広がる闇、ネット弱者を問題とせず、“個人の問題”として片付ける方向に作用しました。死刑制度が事件を風化させる方向で利用され続けるなら、次は植松氏が、と想像してしまいます。
一方で、少年期・青年期の自殺は増加しており、SNSにも「死にたい」相談が溢れています。
現代社会の「生きにくさ」と「こころの闇」に正面から取り組まないかぎり、サイコパスな病理はますます広がるのでしょう。死刑という「いのちの処分」によって「罪を償ったことにする」死刑制度は1日も早くなくすべきです。
主イエスの「裁くな」の声をそれぞれ聴きたいと願います。