20250706 東淀川教会礼拝宣教要旨「戻ってきた汚れた霊とは誰か」マタイによる福音書12章 38-45節
マタイによる福音書12章 38-45節
その時、律法学者とファリサイ派の人々の何人かがイエスに、「先生、しるしを見せてください」と言った。(38)
イエスはお答えになった。「邪悪で不義の時代はしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。(39)
つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。(40)
裁きの時には、ニネベの人たちが今の時代の者たちと共に復活し、この時代を罪に定めるであろう。ニネベの人たちは、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。だが、ここに、ヨナにまさるものがある。(41)
裁きの時には、南の女王が今の時代の者たちと共に復活し、この時代を罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。だが、ここに、ソロモンにまさるものがある。」(42)
「汚れた霊は、人から出て行くと、休む場所を求めて水のない所をうろつくが、見つからない。(43)
それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。帰ってみると、空き家になっており、掃除をして、飾り付けがしてあった。(44)
そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。この邪悪な時代もそのようになる。」(45)
宣教要旨 「戻ってきた汚れた霊は誰か?」
マタイとルカの「汚れた霊が帰ってくる」という奇妙な記事。これ、奇妙なんです。
親に反抗して悪いことばかりして、追い出された不良息子が、あちこちで自分の居場所を探したが休まる場所が見当たらなかったので、元の家に戻ったが、家は空き家になっていてすっかり片付けられきれいになっていたので、不良仲間を呼び集めて好き勝手なことを始めたので、その家(体)はもっとめちゃくちゃになった、というような話にも聞こえるんです。
この箇所の多くの説教は、イエスが汚れた霊を追い出したのに、あとになってより強力な悪霊が取り憑く可能性を示唆しており、信仰生活における油断や信仰的な怠慢の危険性を警告している、というような聖書解釈や理解が多いと思われます。
イエスが汚れた霊と直接話をする比喩的な場面はありますが、悪霊・汚れた霊は何かとか、それらを防いで心身の清さを保つためにはどうすればいいかなどの話はありません。この汚れた霊(たち)を擬人化した話は、明らかに批判的な譬喩として語られたと感じます。
イエスの時代、エルサレム神殿の神権政治体勢・サンヘドリンは、ローマ帝国の支配下でしたが、いちおうユダヤ民族の最高法院であり、立法、司法、行政を担っていました。大祭司を議長とし、レビ人の他、長老、律法学者、パリサイ派、サドカイ派の人々など70人位で構成されていました。彼らが日常生活でもっとも大切にしていたのが自分の身を清める沐浴(ミクヴェ)。単なる身体浄化のための水槽ではなく、ユダヤ教の、霊的な「不浄(トゥマ)」を清めて「浄(タハラ)」の状態に戻ることが重要とされ、ミクヴェはそのための儀式施ユダヤ教徒の富裕な家族の住居、建物の中には、中央の間、控えの間、浴室、二つのミクヴェ(祭儀用浴室)などがあり、浴室も控えの間も共に美しいモザイクの床で装飾されていたと伝えられています。まるで、家の中に温泉の“清めの滝”を作り、自分で自分をお祓いしているような。
祭司長やレビ人、神殿政治のリーダーたちはいつも沐浴し自分自身のケガレを洗い清め、白い清潔な布を身にまとい、人々の病気や心身のトラブルや不幸を汚れた霊のせいにし、それを追い出す、治療する目的で沐浴をさせ、多額の治療費や献金を強要している神殿祭司たちの姿がありました。
イエスは「彼らこそ神殿の中に巣くっている汚れた霊たちではないか」と皮肉っていると思われます。なんか、21世紀の現代日本社会とそっくり、と感じるのです。
それにつけても、昨今のマスク人口の増加現象は、コロナきっかけにケガレへの畏れが日本でも高まっているしるしなのでしょうね。