20250727 東淀川教会礼拝宣教要旨「イエスの癒し行為は看護(ケア)か治療行為(キュア)か」マルコ福音書1章40−45節

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聖書箇所
マルコによる福音書1章40〜45節さて、規定の病(重い皮膚病)を患っている人が、イエスのところに来て、ひざまずいて願い、「お望みならば、私を清くすることがおできになります」と言った。(40)イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「私は望む。清くなれ」と言われると、(41)たちまち規定の病は去り、その人は清くなった。(42)イエスは、彼を厳しく戒めて、すぐに立ち去らせ、(43)こう言われた。「誰にも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めた物を清めのために献げて、人々に証明しなさい。」(44)


しかし、彼は出て行って、大いにこの出来事を触れ回り、言い広め始めた。それで、イエスはもはや表立って町に入ることができず、外の寂しい所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。(45)

 

 

宣教要旨「イエスの癒やしはケアCareかキュアCureか」

「イエスの癒し行為は看護(ケア)か治療行為(キュア)か」

誰の目にも明らかな重たい皮膚病にかかっており、「危険な病」が認定されていて、“この病人に近づくべからず”の札が掛けられていたと思われます。彼がイエスに向かって語った言葉には一瞬戸惑います。

 『お望みならば、わたしを清くすることがおできになります』とは、皮膚病で苦しんできた人が、イエスに向かってなんとかしてほしい! 助けて!と平伏してお願いする言い方ではなく、上から目線で「イエスが心の底からこの病が治るよう本気で神に願ったら」「わたしが罹っている病気をイエス自身がその身に移して、伝染して、シェアーしてくれたら」わたしの病気をあなたは治療することに成功するのです!」と言っているみたいです。はたして、悪霊を追い出して病気を治療すると評判のイエスに対して、自分の病気をなんとかしてほしいと願っている人が、このような言い方をするでしょうか。

 この微妙な表現の中に、イエスが実践的に広め、仲間たちも理解し更に実践し広めていた、「癒しの哲学」が表現されていると感じます。

 病んでいる、苦しんでいる人(受苦者)に近づかない。着ている服や体に触ってはならない。同じ部屋、同じテーブルで食事をしない。それが神殿(厚労省?)が決めた常識でありルールでした。

 全く逆にイエスたちは一緒に食事をし、相手の体に直接触り、一人の受苦者に心を配る人を集めて、知恵を集め、受苦者の苦しみを分かち合い、どうなりたいかの願いを分かち合い、貸し借りなしに手を貸し合い、力を貸し合い、食べ物を分かち合う、重層的なネットワークを広めていたと思われます。

 イエスによる病人への関わりの本質について、福音書の記者たちが病者の発言を用いて(利用して)表現しているように感じられます。

エリアなどの預言者が行っていたように、病ゆえに「神の子」としての尊厳を奪われている人に向かい、心の底からその人の回復を願い、そのためだったら、その病を自分に移してもかまわない、両方とも感染してもかまわないというような親身な接近・接触と世話と、神への祈りが、神に聞き届けられる、という表現なのでしょう。

 イエスの起こした奇跡とは、超越的なパワーによって相手に変化を与えるものではなく、相手一人ひとりに仕える(相手を自分自身と同じ、かけがえのない仲間と思っている)接し方の結果なのだ、という福音書記者の理解は共通しているのでしょう。

治療cure 患部の治療 破れた皮膚を縫う 部位に溜まった膿を切開して出して消毒するなど。本人の過去や生活習慣や環境などは考慮しない。

care ケア 看護 介護 心を配る 受苦者 当事者を愛する人々が世話を焼く 当事者の願いを周囲の人々が共有する。本人にとっての損失を悲しみ、本人にとっての利益を分担しながら実現する。

現代の医療は医師cureの指示で看護介護支援者careが動くパターンが多い。

イエスは徹底してcureをみんなでやろう、というスタイルだったと思われます。周囲のcureの結果、本人が元気になったら、祭司・医師に本人を見せて「病人ではない」という証明書をもらいに行かせた。

福音書は初期のキリスト教会の都合上、イエスこそが神の子であり、カリスマ的なイエスが超越的な霊力を発揮して、あらゆる病人を治した、というバターンにせざるを得なかったため、医師・治療者であるがごとく記述されました。が、イエスやイエスたちの行為は、ひとり一人の「神の子」としての尊厳と祝福と元気を周りの人みんなで取り戻す働きであったでしょうし、そこに神のCure、治癒が働いた、理解すべきだと思われます。

現代医学は医師キュアが中心で、看護は医師の指示の下で働くことになっています。本人を愛する人々がそれぞれ提供できる技やできること、得意なことは違います。本来は医師キュア(体にメスを入れて膿を出す)も、本人の元気の回復を願うケアの仲間の一人、ケアの働きの一つであるべきだと思うのです。

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