聖書箇所
ルカによる福音書9章 46~48節
弟子たちの間で、自分たちのうち誰がいちばん偉いかという議論が起きた。(46)
イエスは彼らの心の内を見抜き、一人の子どもを引き寄せ、ご自分のそばに立たせて(47)
言われた。「私の名のために、この子どもを受け入れる者は、私を受け入れるのである。私を受け入れる者は、私をお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中でいちばん小さい者こそ偉いのである。」(48)
ルカによる福音書22章 24~27節
また、使徒たちの間に、自分たちのうちで誰がいちばん偉いだろうか、という言い争いも起こった。(24)
そこで、イエスは言われた。「異邦人の王たちはその民を支配し、民の上に権力を振るう者が恩人(守護者)と呼ばれている。(25)
しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。(26)
食事の席に着く人と仕える者とは、どちらが偉いか。食卓に着く人ではないか。しかし、私はあなたがたの中で、仕える者(給仕者)のようになっている。(27)
宣教要旨「偉い人偉くない人」
ルカ福音書では本日の二箇所で人間関係の偉い人と偉くない人、人間の上下関係、支配する側と支配される側について議論があったという記事があります。 ルカ福音書9章では大人同士の上下関係についての議論があり、イエスは、どちらが上か下かの比較対象から外れている最も小さい者こそ“偉い”と語ります。
22章では人に上下関係を押しつけるピラミッド型の頂点は王、支配者で、民全体の守護者を名乗り、偉さは王、上に近いか遠いかで上下関係が測られ、下側は上側を敬い仕えなければならないが、神はこの上下関係を逆転させられる、一番小さくて弱い者をこそ神が支えられる、とイエスは神の国のビジョンを語ります。
国の中心の権力者(党)が国のひとり一人のあり方を誘導し、そこから外れる者たち個人の在り方を規制するのは全体主義社会です(totalitarianism)。この全体主義は気付かぬ間に多幸感と熱気を帯び、伝染し広がります。かつてこの国に住んでいた人々の多くが“大日本帝国”に熱狂したことと、ドイツの人々の多くがナチズムに熱狂したことは同じだったのでしょう。
“国民の幸福や福祉や安全のため”という標語の元に原子力政策が進められ、沖縄の島々に諸兵器が配備され、コロナなど新型ウィルス発生に対して国が定めたワクチン政策が推進され、ミサイルや津波や大雨の警報が出されると報道機関やTVもこれに協力することが当然という“空気”が作られているように感じられます。“日本ナンバーワン”とのキーワードが流行し、自虐史観的反省を止めて日本人の誇りと利益を取り戻そうとする運動がSNSを通じて広がっています。
ナチス党の勃興に警鐘を鳴らしたマルティン・ニーメラー。ドイツルター派牧師の詩 反ナチス運動告白教会の指導者として逮捕され二度強制収容所に収容された。彼は強い意志をもってナチズムに抵抗した人ではなく、全体主義の広がりがいかに気付きにくいものであるのか、どれほど抵抗することが怖かったかを告白しています。
『彼らが最初共産主義者を攻撃したとき』
ナチスが共産主義者を連れさったとき、私は声を
あげなかった。私は共産主義者ではなかったから。
彼らが社会民主主義者を牢獄に入れたとき、私は声を
あげなかった。社会民主主義者ではなかったから。
彼らが労働組合員らを連れさったとき、私は声を
あげなかった。労働組合員ではなかったから。
彼らが私を連れさったとき、私のために声をあげる者は
誰一人残っていなかった。
1946年1月、ゲッチンゲンでの説教。
「私には罪がある。なぜなら私は1933年になっても、ヒトラーに投票したし、また正式な裁判なしに多くの共産党員が逮捕され投獄された時にも、沈黙を守っていました。そうです。私は強制収容所においても罪を犯しました。なぜなら、多くの人が火葬場にひきずられて行った時、私は抗議の声をあげませんでした」
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「(神を畏れぬ)破壊者が、聖なる場所に立つのを見たらー読者は悟れーそのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。」マタイ福音書24章16節 のメッセージが、いまこの時代の私たちに向けて語られているように感じられます。