20250928 東淀川教会礼拝宣教要旨「姦淫とは何か」マルコ福音書10章9-12節 マタイ福音書5章27-37節

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Table of Contents

聖書箇所 マルコ10章9-12節
従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」(9)
家に戻ってから、弟子たちは再びこのことについて尋ねた。(10)
イエスは言われた。「妻を離縁して他の女と結婚する者は、妻に対して姦淫の罪を犯すことになる。(11)
夫を離縁して他の男と結婚する者も、姦淫の罪を犯すことになる。」(12)

マタイによる福音書5章 27ー37節
「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。(27)
しかし、私は言っておく。情欲を抱いて女を見る者は誰でも、すでに心の中で姦淫を犯したのである。(28)
右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨てなさい。体の一部がなくなっても、全身がゲヘナに投げ込まれないほうがましである。(29)
右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨てなさい。体の一部がなくなっても、全身がゲヘナに落ちないほうがましである。」(30)
「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と言われている。(31)
しかし、私は言っておく。淫らな行い以外の理由で妻を離縁する者は誰でも、その女に姦淫の罪を犯させることになる。離縁された女と結婚する者も、姦淫の罪を犯すことになる。」(32)
「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。誓ったことは主に果たせ』と言われている。(33)
しかし、私は言っておく。一切誓ってはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。(34) 
地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは偉大な王の都である。(35)
また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。(36)
あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪から生じるのだ。」(37)

宣教要旨「姦淫とは何か」

「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」(9節) とは、牧師が結婚の司式で力を込めて宣言する言葉です。二人は神様が合わせてくださったのだよ!と力説したいのです。が、一方で「だから神様の前で別れないことを誓いなさい」と誓わせているのです。イエスが「いっさい誓ってはならない」と命じているのに、それに反して誓わせているのです。結婚式場のアルバイト、専属の役者だとしても、矛盾ばかりです。

動植物であれ昆虫や魚類であれ、年頃の男女の出会いも神が用意される。それが大切な神からの祝福なのだ。自分の都合や好みや条件で相手を選択・選別すべきではない。(神から与えられた巡り合わせに対しては然り然り・否否しかない)。
気が合わなくなる、互いが否定し合う、自分にとって都合の悪くなった相手を離縁し、自分の条件に合う他のパートナーを求めるなど、男や女であることを弄ぶことをイエスは姦淫と呼んでいると思われます。相手に対する罪である以前に神に対する罪という意味でしょう。
 古代でも現代の政治家や資産家でも同じでしょうが、富や権力や社会的地位を手に入れている者ほど、自分の願望や欲望を拡大させ、自分の影響力を拡大したがる。性的なしもべとして服従させたがる。ヘロデ王一家の権力争い。夫、妻の地位争い(ヘロディアの物語)も、日本の江戸時代、徳川将軍の跡目相続、血統争いも同じ構造なのでしょう。男や女であることを利用して地位や権力を拡大する。男であること、女であることを利用するのも、利用価値がなくなれば突き放すのも姦淫なのでしょう。
エルサレム神殿での大きな祭りのたびに神殿の周囲で遊女や男娼が風俗的な商売をしていたようです。これも江戸時代の日本の「お伊勢参り」によく似ています。お伊勢参りは風俗遊びのチャンスでもあったようです。

創世記38章では、族長ユダの遊女遊びが登場します。社会的に弱い立場の女性タマルが遊女に化けてユダの子種を奪い、自分と子供の居場所を確保する、女の知恵を賞賛するような話です。遊女や男娼になって身を守るしかない(貧しい人々)に対してイエスは福音を語り、共に歩まれたと思います。

レビ記では神殿祭司と遊女との結婚禁止が定められているのです(レビ記21:7)神殿祭司や神殿で働くレビ人やら発言力の大きな律法学者たちも、裏で風俗で遊んだり、遊女たちと親しくなって結婚しようとした人もいたのでしょう。

神殿の中で、神殿に捧げる生贄の動物を売って儲けたりの悪どい商売に対してイエスは動物を追い出したり、両替商の商売道具をひっくり返したりしながら、神殿で行われていることを告発しました(宮清め)。欲情するその目をくり抜け!とは、神殿の祭司長たちに向けられた言葉でしょう。
人々の不幸を利用し神殿への献金や生贄などの重荷を負わせているあなた方自身がまず自分自身を裁くべきである、というイエスからの告発が、「姦淫しているその目ん玉を抉り出せ!」 神の前で清さを保ちたいなら、悪さ(欲望の対象として女性を利用している)をしているその手を切り捨てるべき、というイエスの告発なのでしょう。
 これは思春期に異性に情欲を抱いて悶々とする若者へのメッセージではなく、現代で言えば、アジアの売春ツアーに出かけるおっさんやジジイたちへの非難として語られるべきだと思います。


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