20251005 東淀川教会 礼拝宣教要旨 「タダが世界を変える」マタイ福音書10章5〜14節

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聖書箇所 マタイ福音書10章5〜14節

 イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。(5) イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。(6) 行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。(7) 病人を癒やし、死者を生き返らせ、規定の病を患っている人を清め、悪霊を追い出しなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。(8)
 帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れてはならない。(9) 旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。(10) 町や村に入ったら、そこで誰がふさわしい人かを調べて、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。(11) その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。(12) その家がふさわしければ、あなたがたの願う平和がそこを訪れるようにしなさい。ふさわしくなければ、その平和があなたがたに返って来るようにしなさい。(13) あなたがたを受け入れず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいれば、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。(14)

 

 

宣教要旨「タダが世界を変える」イエスはこの主だった仲間十二人を二名ずつの六組に分けて派遣した、とあります。期間はどのくらいだったのでしょうか。とりあえず勝手に40日間あちこちに派遣したのちに再度(カファルナウムに?)集まり、体験と成果を分かち合った、と仮定してみたい。イエスはそれぞれに活動内容を任せるののではなく、同じ一つの活動のビジョンを指示した、という印象が伝わってきます。

 イスラエル民族の中の「家の失われた羊」とは、生きづらさ、困難、重荷を助けてもらえない孤独な人たちを指すのでしょう。彼らに「天の父なる神が、世のしんがりに置かれたあなた方をこそ救おうとしている」という喜びの知らせを告げ、派遣された仲間たちに彼らの重荷を分かち合うための働きを指示したのでしょう。

「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。」とは、イスラエルの民に語りづがれてきた「父なる神」との関係を取り戻すこと、神に癒されるが重要であり、病んでいる人を治療すること自体が目的ではなく、信者獲得の手段でもありませんでした。また、イエスたちの活動は「治療」を求めて集まってくる人々への応答は、はじめから目的外でありキャパシティオーバーでした。

 本日の箇所でマタイ福音書で特に心に留めたいメッセージは「タダ」です。「何も持たずに出かけて行って、食べるものも寝る場所も着るものもタダでいただきなさい。そしてタダでいただいたのだからタダでお返ししなさい」という「ただ条件」が重要なのです。預言者エリアが最も貧しい、子供に食べさせる明日の食料にも困っている寡婦(やもめ)に食べ物をもらっている姿を思い浮かべてください。彼女から施しを受けたからこそ、お返しができるというのです。

 そこにお金も、困っているこの人に何かをしてあげたという「貸し」を作ることも、自分が神様に褒められ救われるための条件も介在させてはならない、というのです。「タダでしてもらったからタダでするだけ」。
「して喜ばれることだけではなく、隣人の負っている重荷をも、できる範囲で、タダで分かち合う」という人間関係を実践的に作り上げることがイエスの企てだったと思われます。
その結果が“五つのパンと二匹の魚”の奇跡であり、イエスや仲間たちがいないところでも広まっていった“福音”だったのでしょう。

「これまでタダでしてもらって嬉しかったこと、助かったこと、それを周りで重荷を負っている人、生きづらさを抱えている人にタダでお返ししなさい」ってイエスは語っていたし、今も私たちに語りかけておられると思います。

資本主義社会の矛盾、お金に人間が縛られ続ける社会はイエスの「タダ」が変えるような気がします。いのちも自然も全てタダでいただいているのですから。

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