20251019 東淀川教会礼拝宣教要旨 「種を蒔く神さま」マルコ福音書4章1−12節
マルコ福音書4章1−12節
イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。すると、おびただしい群衆が御もとに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられた。群衆は皆岸辺にいた。(1)
イエスはたとえを用いて多くのことを教えられ、その中で次のように言われた。(2)
「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。(3)
蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。(4)
ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐに芽を出した。(5)
しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。(6)
ほかの種は茨の中に落ちた。すると、茨が伸びて塞いだので、実を結ばなかった。(7)
また、ほかの種は、良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍になった。」(8)
そして、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。(9)
イエスが独りになられたとき、イエスの周りにいた人たちが、十二人と共に、たとえについて尋ねた。(10)
そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘義が授けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。(11)
それは、/『彼らは見るには見るが、認めず/聞くには聞くが、悟らず/立ち帰って赦されることがない』ためである。」(12)
宣教要旨「種蒔きの神さま」
神さまを種まきで喩えるなんて、神様の偶像化でしょう!と苛立つキリスト者もおられるかもしれません。
この聖書箇所はよく説教箇所に用いられるところですが、とても慎重な紐解きが必要な記事です。
教会でのこの箇所の説教パターンは、「聖職者の言葉、聖書の言葉には神の国の秘儀が隠されている。それが聴く人の心に着床し、芽を出し、実らないのは三つの原因がある・・・という説教パターンです。
ここで種蒔く人が農夫ならば、栽培したい種子を道や石ころだらけの場所や茨だらけのところに撒いたりはしない。すなわち、この農夫は人間農夫ではない。
どこにタネが落ちるかわからないのは、天気や風や動物などの自然を使って神が種を蒔いたため。人間の都合に従ってタネが撒かれるわけではない。食べ物はもともと大自然を通して神が与えてくださったもの、という本質的な理解や感覚があると思います。
聖書に出てくる大麦小麦、イチジク、オリーブ、根菜類、豆類、果物、玉ねぎetc 神は種まき人。地上の動植物も海の魚も増やしてくださる。神は全ての人が腹一杯食べてもあまりある食べ物の種を蒔き、いのちを育んでくださる。→食べ物は神様から、天から頂いている。労働と果実を分かち合うのは当たり前ではないか。主イエスは押しかけた数多の難民たちを前に話しかけておられると思います。
①なぜ「道」ではなく「道端」なのか エジプト、小アジア、メソポタミア 地中海周辺の主な道路
激しい交通 軍馬 兵士の移動 ラクダやロバを使った商品の運搬 人間は道の端を通るしかなかった。
食べ物は商品化され、労働にありつけない、金がなければ食べ物が得られない難民が生まれていた。
②「石地」とは 石灰岩の巨大なプレートの上のわずかな砂 戦争の後の瓦礫 農地に向かない場所。
現代のガザ地区への砲撃、崩された建物の映像がよく流されています。イエスの時代にも、戦争によって崩された建物や石造りの家屋の瓦礫もあったのではないかと思います。
③イバラが蔓延(はびこ)っている場所。開墾すれば農地に変わる場所。良い農地候補です。④良い土地。地下の虫が土を耕す 植物や木の根が張って、雨でも土が流れない。自然の恵みが現れる 人の手の届くところに撒かれた種子。自然や魚や動植物と人間とが調和できる風景が心に浮かびます。
土地を所有しない、登記しない(大地は神のもの)遊牧民であったイスラエルの人々は、文明の世界、都市生活者から見れば難民だった。難民のための配慮 レビ記19章9〜10節。落穂を拾ってはならない。
飢饉をきっかけにエジプトの都市生活者から奴隷になったイスラエルの民。心の底から奴隷になりかかったとき、奴隷から神の民に戻りたいと願った人々をモーセがカナンの地(パレスチナ)へと導いた。モーセがイスラエル12部族をあちこち分けて入植するよう定めたのは、カナンの地の先住民たちと混血する、共存する、平和を保つためであったと思うのです。
10節の「あなた方には神の国の秘儀が授けられている」は、このマルコ福音書が書かれたのはイエスの十字架から数十年経っており、初期のキリスト教会のネットワークが出来上がっていた時期。「キリスト教会にこそ神の国の秘儀が授けられている」というキリスト教会、法王、神父、牧師ETCの威厳と権威のために書かれたのでしょう。
パレスチナにユダヤ人だけのイスラエル国家を建国しようとする歴史的経緯や願いはそれなりに理解できますが、イスラエルによるガザ地区からパレスチナの人々を根こそぎ追い出そうとするかの如き攻撃、ヨルダン川西岸地区でのイスラエル入植者たちとパレスチナ住民の紛争のニュースに触れるたび、やるせない思いに襲われます。今、ここでこそ主イエスの声を聞きたいと切に願うのです。