20251026 東淀川教会礼拝宣教要旨 マタイ福音書6:9-15 ルカ福音書11:1-4  宣教要旨「イエスが語っただろう定型・共同の祈り」

Pocket

このエントリーをはてなブックマークに追加

Table of Contents

聖書箇所
マタイによる福音書6章9〜15節
だから、こう祈りなさい。『天におられる私たちの父よ 御名が聖とされますように。(9)
御国が来ますように。御心が行われますように 天におけるように地の上にも。(10)
私たちに日ごとの糧を今日お与えください。(11)
私たちの負い目をお赦しください 私たちも自分に負い目のある人を 赦しましたように。(12)
私たちを試みに遭わせず 悪からお救いください。』(13)
もし、人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたをお赦しになる。(14)
しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」(15)

ルカ11章1−4節
イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください」と言った。(1)
そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ 御名が聖とされますように。御国が来ますように。(2)
私たちに日ごとの糧を毎日お与えください。(3)
私たちの罪をお赦しください。 私たちも自分に負い目のある人を 皆赦しますから。私たちを試みに遭わせないでください。』」(4)
参考 
シェマ
申命記6章 4ー6節
聞け、イスラエルよ。私たちの神、主は唯一の主である。(4)
心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くしてあなたの神、主を愛しなさい。(5)
今日私が命じるこれらの言葉を心に留めなさい。(6)

創世記 9章3節
大洪水の後、神はノアとその家族に対して、食物に関する規定を拡大された。
「動いている命あるものは、すべてあなたがたの食糧とするがよい。わたしは、緑の草木をあなたがたに与えたように、今、すべてをあなたがたに与える」。これにより、人間は植物だけでなく、動物も食べることが許されるようになりました。

主の祈り
天におられるわたしたちの父よ、み名が聖とされますように。み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。
わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。
アーメン。(2000年2月15日 日本カトリック司教協議会) 

使徒信条
我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。
主は聖霊によりてやどり、処女おとめマリヤより生まれ、
ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、
陰府よみにくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天にのぼり、
全能の父なる神の右に座したまえり、かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん。
我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の 赦ゆるし、身体からだのよみがえり、
永遠とこしえの命いのちを信ず。アーメン

 

 

宣教要旨「イエスが語ったであろう定例・共同の祈り」
先ずシェマ(聞け)から始まる定型の祈祷文(朝夕2回以上唱える)(申命記6章4〜6節)が語られています。「聞け、イスラエルよ。私たちの神、主は唯一の主である。心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くしてあなたの神、主を愛しなさい。今日私が命じるこれらの言葉を心に留めなさい。」は、もちろんイスラエルの民ならば誰でも知っている祈り。神からの命令、神の声が主語として想定されています。先ず、神からの声、働きかけがあり、それへの応答として祈りがある、という構造です。
 プロテスタントの「主の祈り」、カトリックの「使徒信条」は、神の言葉に対する応答、「人間の側の信仰告白」に重心が置かれています。
 シェマという厳かな定型の祈り(神への賛美、信仰告白)のあと、イエスは“私たちの日々の食べ物を与えてください!”という、いわば下世話な、「高尚ではない祈り」を付加したのです。これはそれまでの定型的な、厳かな決まり文句、祈りの中にはない祈りでした。

 この祈りは単に、飢餓や貧困に苦しんでいるイスラエルの民のための祈りではないと思われます。
神はエデン(楽園・神の国)から追放された地上の全ての人や、全ての命を育むのに十分な食べ物を神は与えてくださっている(創世記1章29−30節、9章3節)という神理解、自然理解が大前提にあり、それへの感謝が大前提です。人間だけに限っても、全ての人々に神様がタダで十二分に与えている食べ物を、人々はすべての隣人たちとともに分かち合うことができるはず。なのに、食料が独占されたり、商品化されてお金がなければ手に入れることができず、餓死する貧しい人々の現実が周りにあったのでしょう。神様からタダでいただいている恵みをタダで分かち合える道、助け合える道を主に求めよう、という提案を含んだ祈りなのでしょう。

 更にイエスが“シェマ”に、「人を赦す力を与えてください」という祈りも付加しています。
最愛の人を殺された、家族や友人を殺された、自分の子どもを殺された、等々、絶対に許すことなどできない深い傷(トラウマ)を抱えている人にとって、報復か、呪い続ける道しか見えない現実があります。
深い心の傷から立ち上がり、加害者への報復や、終わらない“戦争”を終わらせ、トラウマを乗り越える、新しい生き方、生かされ方を主に求めよう、とイエスは提案しているのでしょう。
 イエスがよく口にしていたであろう「広い道より狭い道を選びなさい」とは、絶対に許せないことを許す道、和解への道を主に求めよう、探ろうというイエスの提案がそこに含まれているのでしょう。更に、選んだ狭い道にイエスが同行してくださる、という確信が生まれる祈りだったと思われます。

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です