20251116 東淀川教会礼拝宣教要旨「天に宝を積む?」ルカ福音書19章12-27節
聖書箇所
ルカによる福音書19章12-27節
それで、イエスは言われた。「ある身分の高い人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へと旅立つことになった。(12)
そこで、十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し、『私が帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った。(13)
しかし、その国の市民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、『我々はこの人を王に戴きたくない』と言わせた。(14)
さて、彼が王の位を受けて帰って来ると、金を渡しておいた僕を呼んで来させ、どれだけ利益を上げたかを知ろうとした。(15)
最初の者が進み出て、『ご主人様、あなたの一ムナで十ムナもうけました』と言った。(16)
主人は言った。『よくやった。良い僕だ。お前はごく小さなことに忠実だったから、十の町を支配させよう。』(17)
二番目の者が来て、『ご主人様、あなたの一ムナで五ムナ稼ぎました』と言った。(18)
主人は、『お前は五つの町を治めよ』と言った。(19)
また、ほかの者が来て言った。『ご主人様、これがあなたの一ムナです。布に包んでしまっておきました。(20)
あなたは預けなかったものを取り立て、蒔かなかったものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです。』(21)
主人は言った。『悪い僕だ。その言葉のゆえにお前を裁こう。私が預けなかったものを取り立て、蒔かなかったものも刈り取る厳しい人間だと知っていたのか。(22)
ではなぜ、私の金を銀行に預けなかったのか。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きでそれを受け取れたのに。』(23)
そして、そばに立っていた人々に言った。『その一ムナをこの男から取り上げて、十ムナ持っている者に与えよ。』(24)
僕たちが、『ご主人様、あの人はすでに十ムナ持っています』と言うと、(25)
主人は言った。『言っておくが、誰でも持っている人は、さらに与えられるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる。(26)
ところで、私が王になるのを望まなかったあの敵どもを、ここに引き出して、私の目の前で打ち殺せ。』」(27)
宣教要旨「天に宝を積む?」
ここで「主人」と呼ばれている人は誰か。直接名指しされてはいませんが、12節の「ある身分の高い人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へと旅立つことになった」と書かれていますから、イスラエルの人なら「ああ、あの非道なヘロデのことを言っているな」と分かる内容です。ローマ帝国に取り入って、ガリラヤ周辺などの支配権を認めてもらって税金を取り立てていた、バプテスマのヨハネを殺害したヘロデ・アンティパスのことです。イエスに「あの狐め」と言われた、策略の塊のような王のことです。
ヘロデ大王に続き、息子のヘロデ・アンティパスはローマの皇帝にガリラヤ周辺やそれ以上の土地の支配を認めてもらおうと出かけ、長期の政界工作の間、税金の取り立てを10人の部下に委ねた。なんとか委託統治を認めてもらい、帰ってきて、部下がどれだけ取り立てられたかを確かめた。ムナの貨幣価値についてですが、1日分の日当を5千円として計算すると、主人は50万円を5万円づつ10人に預けた。Aは経費5万円で50万円取り立てた。Bは25万円を取り立てた。Cはあこぎな税の取り立てをする主人を悪人だと思っていたが逆らえず、預かった5万円を使って税金を取り立てたら自分が汚れると思って5万円を隠し持ち、戻ってきた主人にそのまま返金した。すると返ってきた主人はCに対し、「取り立てがアコギな非道いことと思ったなら、せめて銀行(金貸し)に預ければ利子が得られて、主人のお金を増やせたのにそれもせず、主人の仕事を非難するのなら、お前から全てを取り上げる」と言って財産を全て取り上げ、主人が王になることを望んでいなかった者たちと一緒に打ち殺した、という話なのです。更には、お金についての哲学、お金持ちのところにはお金が集まり、お金持ちや権力に依存できない貧乏人はますます貧乏人になる、という「資本主義の本質」をも語っています。
マタイ福音書の25章にも「タラントンのたとえ」として同様の話があります。こちらの貨幣はムナではなくタラントンで、同じ日当計算なら、1タラントンは3千万円ほどになります。国の収益事業っぽさが表現されています。
こちらは「天の国のたとえ」として説かれており、僕たちに財産を預けた主人が「善人」なのか「悪人」なのか分かりにくいのです。
私がこれまで聞いてきたキリスト教会での説教で多いのは、タラントンを「タレント」に繋げて、神様から頂いた才能、タレントを活かして富を増やし、教会を通じて天に宝を積めば(徳を積めば)天国で良いところにいけますよ、みたいな説教でした。
そもそも、神殿や教会に献金したり献品すると神様が喜ぶとか、天に宝を積むことになるとか、分かりませんでした。旧約聖書で、羊や山羊や牛を「焼き尽くす捧げ物」として差し出す、というのが理解できませんでした。人々の罪に怒る神を宥めるための煙になるというのですが、それはたてまえの説明で、実際は神殿の職員たちで食べていたはずです。そもそも、人間の罪に怒る神を、肉を焼いてその香りで宥める」なんて、神を馬鹿にしています。(神様の怒りを、“まあまあそんなに怒らないで”と、神さまの好きな肉を焼く匂いでなだめて、神さまを怒らせた罪を許してもらう、なんていうのは、神話としては面白いのですが)
「神殿に献金したり良いことをすれば富を天に積むことになる」「地上に富を積んではならない。天ならば虫に喰われず盗まれない。富を天に積んだものが先に神の国に入る」などは、神殿や教会に献金や献品させるための方便であり、死後に不安な人間が安心を得るための、「これだけの徳や条件を積んだのだから私を天国に入れる義務が神様にはある」という、人間が作った神様との取引きにすぎません。神様がそんな人間が作った取引に応じるはずはないのです。
こういう「神様との取引」に対するイエスの発言は「 金持ちが天国に入るよりラクダが針の穴を通る方が確かなこと。もうけた金を自分が天国に入るために神殿に寄付した金持ちが天国に入るのはそりゃ無理なんじゃないの?」
でもこうした神様との取引、「天にあなたの宝を積みなさい」は初期のキリスト教会でも語られ、教会に個人の贖罪の意味を込め献金させてきました(マタイ6章 天に富を積みなさい)。
人間に起こった「不幸」は罪に対する神の怒りが原因なのでしょうか。教会やお寺への献金は罪滅ぼしになるのでしょうか。地上の富(貨幣)を手放せば、天に宝を積むことになるでしょうか。神様や仏様が捧げられた貨幣や捧げ物で喜ぶのでしょうか? なぜ自分はこんな不幸に苦しまなければならないのか、と苦しんでいる人が、「あなたの不幸は神の怒りが原因だ。神の怒りを宥めなさい。〇〇によって赦しを求めなさい」と説得されれば信じてしまいやすいのが生きづらさを抱える人間の現実です。
安倍晋三元首相銃撃事件の初公判が行われました。 山上徹也氏の母親の供述などが新聞にありました。夫はアル中で家庭を支えないまま自殺。長男は脳の病気で片目を失明。統一教会の信者が母親に接近。家系図を使って因縁トークを吹き込み、度重なる不幸の原因は神を愛さない、勝手な生き方をしている罪のため罰せられている、と信じ込ませた。 母の入信で2千万円献金。母の入信と統一教会への献金問題で家庭内に更なる不和が生じた。長男の自殺。 母はますます統一教会への罪滅ぼし献金に熱心となり 献金は一億円を超えた。山上徹也氏は母親への説得は諦め、怒りを統一教会を絶賛する安倍晋三氏に向けた…..。母親は今も自分の罪滅ぼしが足りない。統一教会への信仰が足りない、地上の富(貨幣)を神に返さなければ、と信じている様子。
お金は人間が便宜上作り出したものであり、神は天地創造に一円も必要なく、神が求める「宝」であるはずがないことは冷静に考えれば分かることなのですが、カルト的宗教の心理誘導によって不幸の原因がわかったつもりになり、罪滅ぼしを始めると止まらなくなってしまう心のメカニズムがあります。
人間の不幸や生きづらさにつけ込む心理誘導・マインドコントロールはいつの時代もあります。十字架の下にある教会が、主イエスに習って、被害者を加害者から解放するための働きの場となれますよう祈ります。