20251130 東淀川教会宣教要旨「友なるイエスとは」ルカによる福音書11章 5-13節

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聖書箇所 ルカによる福音書11章5−13節
また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちの誰かに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。(5)
友達が旅をして私のところに着いたのだが、何も出すものがないのです。』(6)
すると、その人は家の中から答えるに違いない。『面倒をかけないでくれ。もう戸は閉めたし、子どもたちも一緒に寝ている。起きて何かあげることなどできない。』(7)
しかし、言っておく。友達だからということで起きて与えてはくれないが、執拗に頼めば、起きて来て必要なものを与えてくれるだろう。(8)
そこで、私は言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。叩きなさい。そうすれば、開かれる。(9)
誰でも求める者は受け、探す者は見つけ、叩く者には開かれる。(10)
あなたがたの中に、魚を欲しがる子どもに、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。(11)
また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。(12)
このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子どもには良い物を与えることを知っている。まして天の父は、求める者に聖霊を与えてくださる。」(13)

宣教要旨 「友なるイエスとは」

 親族などに助けてもらえず貧乏で食べ物に困っている友が、友を頼って遠くから訪ねてきたが、分けて与える食べ物がないので身近な友に食べ物を求めたが断られた。が諦めず執拗に頼み続ければ少しは分けてもらえる。自分が空腹で頼んでいるのではなく、貧乏な友を助けるために必死になるならなんとかなるだろう。必死に求めよう。多くの人の目につかないところで金持ちに頼んでも慈善事業にならず無駄。金持ちは本当の友にはならない。貧乏な友だからこそ、本当の友であり、必死になれば多少なりとも無理をしてもらえる。互いの痛みがわかり、友を助けようとする“友”こそ友だとイエスは語っていたと思われます。

11〜13節は10節までの記事とは断絶があるように感じられます。
「魚を欲しがる子に蛇を与える父はいない」「卵を欲しがる子にサソリを与える父はいない」理解困難な箇所です。

 神は人に命を吹き込んだ父(親)であり、人は神(父)の子。子は父に必死に祈り、戸を叩けば(諦めずに求め続ければ)必ず聞き届けられ、それまでと同じように生かされる、…と。

 ここでひっかかるのは「蛇」(毒蛇?)や、「サソリ」(毒サソリ)の意味です。蛇はウナギのことであり、律法で禁じられている「穢れており、食べることを禁じられている鱗のない魚」のことだとの説があります。
 卵とサソリについては、「サソリは鳥の卵を食べて、食べた後の殻を寝る家にする。卵だと思って手を出すとサソリに刺されて死ぬことがある」との説明がありました。

 更に調べたら、律法で穢れているとされている鱗のない魚であるウナギは食べれば栄養があり、イスラエル民族でなければ好んで食べるのであり、砂漠のサソリも毒を取り除けば美味しく食べることができ、珍味として重宝がられているとのこと。貧困や飢饉の状態ならば、むしろ子どもに食べさせたいもの。律法で汚れとされている豚肉も、病人や空腹を抱えた子どもにこそ食べさせたい食品だったと思うのです。
 イエスが豚肉などのタブーについてどうしていたかは福音書などに言及されていませんが、むしろ積極的に栄養源として人にも勧め、大いに利用していたと思うのです。

 多額のお金を金貸しなどに求めるのは危険が伴う。大きな借りを作ることになり、返し続けなければならないハメに陥ったりする。

 できるかぎりオープンに、明るいところで友に助けを求める方が危険は少ない。

イエスは弱い者同士、貧乏人同士の助け合いをこそ広げていたと思われます。「互いが友であれ」「私もあなた方を友と呼ぶ」がイエスの大切なメッセージです。

現代の子どもたちの自殺が増えています。死亡原因の第一は自殺です。子どもたちが「求めているのに得られないもの」とは、何なのでしょうか。

学校での学び、体験の中心は「読み書き・そろばん」。 運動 利用できる様々な資源、集団遊び、自主活動などが中心ですが、私自身これまで小学校、中学校、高校とスクールカウンセラーとして関わってきましたが、一番大きな問題は、学校が子どもたちのものではない、教師たちのものではない、教師たちが自分たちの手で創意工夫しながら学校を作っていけない現実、子どもたちが自分にとっていちばん居やすいように居ることができない現実が最も大きいと思います。
 教師たちにとっても、ストレスが大きすぎる場所であり、子ども同士のいじめ問題よりも教師同士のいじめや、学校というシステムから教師へのいじめがとても大きく、心を病んで辞めていく教師の実態が、病んでいるガッコウの実態でした。

スクールカウンセラーとしては、カウンセリングの場が、寝っ転がるだけでもいい、うっぷんやガス抜きの場であればそれでいい、子どもたちが逃げ込むことができる場所であれば、と願って続けてきましたが、それもついに許されませんでした。「ガッコウ」に対して、何もできないまま校長から「雇い止め」でスクールカウンセラーを辞めざるを得なくなり、無力な私とガッコウとの関係も終わりました。

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