2020年3月1日 受難節第1主日 詩編104:1-8 マルコ4:35-41 「パニックを起こすサタン」週報No.2648
詩編104篇1-8節
1 わがたましいよ、主をほめよ。わが神、主よ、あなたはいとも大いにして誉と威厳とを着、2 光を衣のようにまとい、天を幕のように張り、3 水の上におのが高殿のうつばりをおき、雲をおのれのいくさ車とし、風の翼に乗りあるき、4 風をおのれの使者とし、火と炎をおのれのしもべとされる。5 あなたは地をその基の上にすえて、とこしえに動くことのないようにされた。6 あなたはこれを衣でおおうように大水でおおわれた。水はたたえて山々の上を越えた。7 あなたのとがめによって水は退き、あなたの雷の声によって水は逃げ去った。8 山は立ちあがり、谷はあなたが定められた所に沈んだ。
マルコ福音書4章35-41節 さてその日、夕方になると、イエスは弟子たちに、「向こう岸へ渡ろう」と言われた。そこで、彼らは群衆をあとに残し、イエスが舟に乗っておられるまま、乗り出した。ほかの舟も一緒に行った。すると、激しい突風が起り、波が舟の中に打ち込んできて、舟に満ちそうになった。ところがイエス自身は、舳の方でまくらをして、眠っておられた。そこで、弟子たちはイエスをおこして、「先生、わたしどもがおぼれ死んでも、おかまいにならないのですか」と言った。イエスは起きあがって風をしかり、海にむかって、「静まれ、黙れ」と言われると、風はやんで、大なぎになった。イエスは彼らに言われた、「なぜ、そんなにこわがるのか。どうして信仰がないのか」。彼らは恐れおののいて、互に言った、「いったい、この方はだれだろう。風も海も従わせるとは」。
【パニックを引き起こすサタン】
私たちを取り巻いている自然(天然)を、当たり前の空気のように、幼子が周囲の環境や愛情を自然に受け入れている。ゆりかごのように依存しきっている。が、どこかで、不思議な天然の摂理に守られている喜びを、「意識」に心を奪われている人間以外の、心が解放されている自由な人間は(幼児、老人も)、天然の摂理、神秘性を感じたり、反応・呼応したりしている。言い換えれば、生ける神の目に見えない働き、聖霊を感じるのである。聖霊が見えるのである。
舟の中で大風、大波に翻弄され、イエスの仲間たちはパニックに陥っていた場面。三共観福音書の中で、マルコだけが「わたしどもがおぼれ死んでも、おかまいにならないのですか!」という、仲間によるイエスへの責めの言葉、攻撃を表現している。
イエスが、イエスを無責任だとなじる、パニックを起こしている仲間を叱らなかったことは大切なポイントなのでしょう。イエスが風を叱り、波に向かって「静まれ・黙れ」と命じられたとあります。イエスには、風を操る「霊」も、波を動かしている霊たちの姿も、そのささやきも見え、聞こえており、霊たちに直接語りかけることもできた。イエス伝における、普通には信じがたい様々な奇蹟物語の核心部分はここにあると思うのです。
このところ、激しく世界を揺さぶっているコロナウィルス騒ぎ。パニック。こんなときは、主イエスのように“寝ている”に限ると思うのです。
騒いでいる風や波に呼応してパニックを起こし、大騒ぎする彼らを直接叱るのではなく、「風」や「波」を叱る、ここにイエスのわざ(心理療法)があったと思うのです。
先週の出来事
コロナの蔓延がそんなに怖いのなら、危険が広がっているのなら、オリンピックという「お祭り」どころではない、感染者の救済こそ重要、との声が高まるかと思えば、「数兆円の経済損失だから中止できない」云々の声。何がもっとも大切なのかわからなくなる。