20210822 Sunday Service Linggo ng serbisyo 宣教題「死者に語っていただく」ヨナ書3章 マタイ12章 ルカ20章 担当 金田恆孝

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本日の聖書箇所(聖書協会共同訳)
ヨナはまずニネベの都に入り、一日かけて歩き、「あと四十日で、ニネベは滅びる」と告げた。すると、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、大きな者から小さな者に至るまで粗布をまとった。このことがニネベの王に伝えられると、王は王座から立ち上がり、王衣を脱ぎ、粗布を身にまとい、灰の上に座った。王はニネベに王と大臣たちによる布告を出した。「人も家畜も、牛、羊に至るまで、何一つ口にしてはならない。食べることも、水を飲むこともしてはならない。人も家畜も粗布を身にまとい、ひたすら神に向かって叫び求めなさい。おのおの悪の道とその手の暴虐から離れなさい。そうすれば、神は思い直され、その燃える怒りを収めて、我々は滅びを免れるかもしれない。」神は、人々が悪の道を離れたことを御覧になり、彼らに下すと告げていた災いを思い直され、そうされなかった。(ヨナ書3章 4-10節)

裁きの時には、ニネベの人たちが今の時代の者たちと共に復活し、この時代を罪に定めるであろう。ニネベの人たちは、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。だが、ここに、ヨナにまさるものがある。(マタイによる福音書12章 40-41節)

さて、復活はないと言っているサドカイ派のある者たちが近寄って来て、イエスに質問した。「先生、モーセは私たちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄のために子をもうけねばならない。』ところで、七人の兄弟がいました。長男は妻を迎えましたが、子がないまま死にました。次男、三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子を残さずに死にました。最後にその女も死にました。すると復活の時、彼女は誰の妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活の子として神の子だからである。死者が復活することは、モーセも『柴』の箇所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、明らかにしている。
神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きるからである。」(ルカによる福音書20章 27-38節)


宣教の要旨「死者に語っていただく」
「戦争を起こしてはいけない」は、多分、多数の人々が「正しい」と思っている・思いたい、大事な戒律。モーセの十戒の一つ、“殺すな”と同質の戒め。では、戦争を起こさないために、何を繰り返してはならない「歴史の過ち」として認識し、「誤り」を共有しているかは曖昧であり、戦争を防ぐために、何を共通の課題とできるかは、今日でもあまりに困難な課題である。早急の課題と言われる環境問題、生命倫理、貨幣経済もまた然り。
 昔、ニネベの町は“傲慢の極み”にあった。おそらく、奴隷の使役で豊かになり、経済力で軍備を整え、近隣の人々を支配し食物や生産物を収奪し、町の住民は世の栄華を満喫していたと思われる。神はニネベの人々の傲慢さとともに町を滅ぼすことを宣告するためにヨナを派遣した。悔い改めるはずのない住民が、なんとヨナの言葉で民も王も役人もみんな悔い改めた。神がニネベを滅ぼすことを止めたため、ヨナの託宣は大恥となり、第三者からは、人々を脅しただけの虚言とみなされ、ヨナは神に文句を言った…。イエスの語った“預言者は決して世から報われない”ことを如実に示す事例でもあった。イエスも、預言者としての自覚を持ち、仲間達とともに、世に対する神の裁きを語り、悔い改を勧めていた。
 イエスたちの活動に反対する勢力が、イエスたちの言葉が神の言葉によるものという証明を見せろ!と迫ってきた時、イエスが「裁きの時にはニネベの人たちが今の時代の(先に死んだ人々)とともに復活し、この時代の間違い、罪を証言する」と語ります。それが「復活」であるとイエスは語るのです。
 「復活」については様々なイメージがまことしやかに語られていました。“復活はない”とか、 “神様に喜ばれる人の復活”とか、 “イスラエル・選民のみ復活”などなど。

 復活概念は、命とは何か、死んだらどうなるのか、いつ、どのように復活するのか、などの“心の地図”が前提になります。イエスは、「いのちは神のもの」であり、神の目に見えない働き・聖霊であり、神与え(吹き込み)、神奪う(呼び戻す)のであり、地上を離れた魂は天使のようになる(聖霊となる)のだ、と語っていると思います。聖霊(天使)となって神とともに働く、というイメージをイエスは語っていると思います。最初っから神のものであり、必ず神のもとに帰る、という楽天的な、「良きかな」のイメージです。ただ、今、生きている人間たちは、いのちは自分のものだと思っているし、いつも明日があり、自分は死なない、と信じたがっているところに過ち、愚かさがあるのですが。

 この楽天的、「良きかな」の生命観に対して、仏教は「苦界に漂ういのち」、そのままでは救われないいのち、という性悪説的な、マイナスから始まる生命観だと感じます。“一切衆生 悉有仏性(いっさいしゅじょう しつうぶっしょう)” つまり、一切の生き物は仏になる素質を持っている、という教えはありますが、ありのままで、何をしなくても救われる、という生命観ではなく、救おうとする如来、阿弥陀仏にひたすら帰依することが条件のようです。終末、世の終わり、再生などのイメージも仏教とユダヤ教、キリスト教、イスラムとは少しづつ異なりますが、時代の人間のイメージにすぎません。

マタイ12章によれば、世に対する神の裁きのときは、世から呼び出されれば、昔に死んだニネベの人々も、最近死んだ人々も復活し、世の間違い、悔い改めの必要を証言するというのです。それがイエスの語る「復活」です。死んだ人々もアブラハムもイサクもヤコブも最近死んだ人々も、神のもとで霊となって生きており、働いており、呼び出されれば、地上の世界に復活して証言する、というのです。日本のシャーマン、イタコとか、沖縄ののろ、ゆたなどが心に浮かびますが、必要があって呼べば、先祖も戻ってきて語ってくださる、そんなイメージです。

有名な「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」「生きている者の神」とは、「アブラハムもイサクもヤコブも、神のもとで生きている」「あなた方が呼び出せば復活して世に現れる」とイエスは語ります。シャーマンだけではなく、世の過ちを語り伝える証言としての小説も、演劇も、童話も、神の元で生きている聖霊を呼び出す「わざ」であると思います。一億総玉砕と叫んでみんなで戦争していた、その過ち、過ちを繰り返さないために何が必要か、神のもとで生きている“戦死者”の霊に語っていただきたいと心の底から願います。

先週の出来事

[TIME] の表紙に掲載された、若い女性がタリバンの夫たちから耳と鼻を削ぎ落とされた19歳の女性の顔が掲載されネットで流れ話題となった。アフガニスタンからの米軍撤退について米国を二分する意見が背景にある。更に“タリバンは民主主義の敵“ ”人権(特に女性の)の敵”というプロパガンダが盛んになされている。写真の選択に情緒的心理誘導、意図的な扇動を感じる。冷静に事態の推移を見守りたい。

 

 

1件のコメント

  • 8月22日の宣教題「死者に語っていただく」のヨナ書のお話に出てくるニネベの街の物語は、ヨナとニネベの人たちの疫病対策の物語のように思うのは僕だけでしょうか?ヨナは単に滅びるとだけニネベに警鐘したのではなく、きっと疫病などの理由(根拠)をちゃんと伝えたのではないか?あるいはニネベの人たちが警鐘の理由を知っていた乃至気づいたのではないか?(でないとヨナは単なる狼少年か、妄想癖・虚言癖人間になり、信用してもらえない)
    ニネベの人たちが粗布を身にまとい灰の上に座るのは滅菌消毒対策。人も家畜も何一つ口にしない、食べることも水を飲むこともしないのは経口感染対策。人も家畜も粗布を身にまとい、ひたすら神に向かって叫び求めるのはソーシャルディスタンスを想起させる。コロナ対策でも、正しく信頼できる情報さえ伝われば、人はマスクや消毒、距離など、自発的にちゃんと感染対策を取れる力がある。しかし「自粛しろ」「オリンピックで盛り上がれ」との全く矛盾する情報や政策は、コロナの感染爆発を引き起こした。今の政府は災いを自分たちで防いだヨナとニネベを見習ったら!とつくづく思うのだがどうでしょう。

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